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原力の殉教者  作者: とりまな
手がかりの糸
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師匠の影

――――――――――――


 マグヌスに調査旅行の許可を求めたのは、翌朝のことだった。


 研究室の扉をノックし、中に入る。マグヌスは大きな作業机の前で、何かの文献に赤い墨で注釈をつけていた。壁一面の本棚、棚に並んだ試薬瓶、一つだけの窓にかかった遮光布——十年間、何も変わらない部屋だ。


 ただ一つ、部屋の奥にある鍵のかかった扉だけが、カエルの意識を引いた。


「師匠」


「おう、カエル。どうした」


「学術調査で各地を回りたいのですが」


 マグヌスが顔を上げた。穏やかな目。白い髭に縁取られた顔には、微塵の警戒もないように見える。


「ほう。また旅か。今度はどこを」


「古代碑文の比較研究で——海沿いの集落と、鉄背山脈の鍛冶場を訪ねたいと考えています。分化以前の文献を、複数の地点で照合したい」


「古代碑文か」


 マグヌスが椅子の背にもたれた。天井を仰ぎ、何かを思い出すように目を細めた。


「私も若い頃、似たようなことをした。大陸のあちこちを回って、古い碑文やら遺物やらを調べたものだ」


 カエルの背に冷汗が伝った。


 ——私も若い頃、似たようなことをした。


 その「若い頃」が、3155年から3170年の空白期間と重なるのではないか。母と共に原力の痕跡を追い、碑文や遺物を調べ、そして——決裂した。


 表情を変えなかった。


「参考になります。特に有用な地点があれば教えていただけますか」


「そうだな——テセラ海の対岸に、かつて学術都市があった。三教の紛争で廃墟になったが、地下の文書館は残っているはずだ。古い記録の宝庫だよ」


 まるで地図を広げるように、マグヌスは丁寧に情報を提供した。旅のルート、現地の気候、注意すべき地域の政治情勢。その口ぶりには、弟子の成長を喜ぶ師匠の温かさがあった。


 そして——最後に。


「カエル」


「はい」


「古い知識には、危険なものもある」


 マグヌスの目が、カエルをまっすぐに見据えた。


「知ることそのものが、人を変えてしまうことがある。深入りしすぎないことだ」


 その声は穏やかだった。師匠として弟子を心配する——自然な忠告。


 だがカエルには、もう一つの意味が聞こえた。


 ——お前がどこまで知っているか、私は測っている。これ以上踏み込むな、という警告。


「肝に銘じます、師匠」


 カエルは頭を下げた。


――――――――――――


 研究室を出た。


 廊下を歩きながら、呼吸を整えた。手のひらが汗で湿っている。


 マグヌスの言葉の一つ一つを反芻した。「若い頃、似たようなことをした」——これは自白に近い発言だ。空白期間中に古代碑文調査を行っていた証拠。母の暗号メモに記された共同研究の時期と一致する。


「深入りしすぎないことだ」——忠告か、警告か。あるいはその両方か。


 マグヌスは賢い。カエルが暗号メモの存在を打ち明けた時点で、弟子の調査行を予測していたはずだ。今回の旅行の申告は——マグヌスにとって確認でしかない。


 足を止めた。振り返ると、研究棟の窓にマグヌスの影が見えた。こちらを見ているのか、文献に戻ったのか——この距離では判別できない。


――――――――――――


 その夜のことだ。


 カエルは旅の準備で自室にこもっていた。荷物を整理し、古代語の注釈書を選び、携帯食と金貨を確認する。


 階下で、マグヌスの足音が聞こえた。研究室に入る音。そして——鍵のかかった部屋の扉が開く、かすかな金属音。


 カエルは動かなかった。階段を降りて覗きに行く気はなかった。今はまだ早い。


 だが——想像した。


 鍵の部屋に入ったマグヌスの姿。穏やかな師匠の表情が消え、別の顔が現れる。十年間カエルとルーナを育ててきた「お師匠様」の仮面の下に、もう一つの人格がある。


 母の暗号メモが告げている。「この知識は世界のものだ。一人が独占するものではない」——マグヌスはそれを独占しようとした。


 階下で、鍵が再びかかる音。マグヌスの足音が遠ざかっていく。


――――――――――――


 翌朝。


 カエルは荷をまとめ、出発の準備を終えた。


 玄関でマグヌスが見送った。朝の光の中で、師匠の顔は穏やかそのものだった。白い髭、温かい目、皺の刻まれた笑顔。


「気をつけていけ。何かあれば手紙を寄越しなさい」


「はい、師匠。ありがとうございます」


 ルーナが階段の上から手を振った。


「兄さん、気をつけてね! お土産よろしく!」


「ああ。行ってくる」


 カエルは笑顔を返した。その笑顔が何を隠しているか——ルーナは知らない。


 門を出て、石畳の坂を下る。大学の白壁が朝日に輝いている。この街に来て十年。ここが第二の故郷だった。


 背後で——研究棟の窓を振り返った。


 マグヌスが立っていた。窓辺に。


 もう「おかえり」の表情ではなかった。遠くから見ても——あの目が、カエルの背中を追っていることがわかった。穏やかな光は消えていた。冷たく、鋭い——何かを計算している学者の目だった。


「カエル……お前はどこまで辿り着いた?」


 マグヌスの唇が動いた。声は届かない。だがカエルには、その一文が見えたような気がした。


 背後を確かめず、前へ進んだ。 


 坂を下り、門を出て、隊商の集合場所に向かった。


 ——気づかれている。急がなければ。


 カエルは歩調を速めた。テセラ海の風が、旅の始まりを告げるように頬を叩いた。

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