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原力の殉教者  作者: とりまな
手がかりの糸
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ルーナの日々

* * *


――――――――――――


 朝の光がルーナの机を斜めに横切る頃、微精霊たちが目覚め始めた。


 窓辺の紫の花——もう何度も植え替えた、マグヌスが最初に飾ってくれたのと同じ種類——の周囲に、微かな光の粒子が漂っている。微精霊たちは花の香りに引き寄せられるように集まり、花弁の上で渦を巻いた。


 ルーナは薄い寝衣のまま窓に寄り、その光景をしばらく眺めた。微精霊の動きには法則がある。温度、湿度、マナの密度——そしてルーナ自身の感情にも反応する。今朝は穏やかに旋回している。ルーナの心が穏やかだから。


 研究論文の草稿が、机の上で朝日を浴びていた。


 「微精霊の高度対話技術における感応閾値の再定義」——ルーナの二本目の学術論文。一本目はマグヌスとの共著で学会誌に掲載された。二本目は単著を目指している。


――――――――――――


 朝食を一人で済ませ、大学の研究棟に向かった。


 兄は旅から帰ってきてから、毎朝早くに出かけていく。図書館か、自室にこもっている。以前は訓練場で見かけることもあったが——最近は姿を見せない。


 研究棟の三階。マグヌスが用意してくれた個室。小さいが、窓からテセラ海が見え、本棚にはマグヌスが選んでくれた文献が並んでいる。多くは学外では入手困難な希少文献だ。東方教会の内部資料、エルダリスの森人族が書き残した微精霊観察記録の翻訳、そして——マグヌス自身の未発表の研究ノート。


 これらがなければ、ルーナの論文は成立しない。


 マグヌスの指導は丁寧だった。週に二度、ルーナの草稿を読み、赤い墨で注釈をつける。「ここの論理展開が弱い」「この先行研究を参照しろ」「この概念は別の角度から攻めた方がいい」——その一つ一つが、ルーナを新しい思考の回路に導いてくれる。


 マグヌスがいなければ、この研究は始まりもしなかった。テーマの選定、方法論の構築、実験の設計——全てにマグヌスの手が入っている。ルーナが自力で到達し得たものは、おそらくその半分にも満たない。


 ——お師匠様がいなかったら、私は学者ではいられない。


 その認識は、感謝と共にルーナの胸に根を下ろしていた。


――――――――――――


 午後、マグヌスが研究室に来た。


 白い髭を蓄えた長身の老学者が、木製の扉を静かに開ける。その姿を見ると、ルーナの心にいつも温かいものが広がる。父を知らないルーナにとって、マグヌスは——父であり、師であり、世界への扉だった。


「草稿を持ってきたか」


「はい、お師匠様」


 マグヌスが席に着き、羊皮紙の束を手に取った。墨でびっしりと書かれたルーナの文字を、一行一行丁寧に追っていく。


 沈黙。微精霊が窓辺で旋回している。ルーナはマグヌスの表情を見つめていた。眉間に皺が寄る時は修正箇所。口元が緩む時は——良い箇所。


「ここだ」


 マグヌスが赤い墨で印をつけた。


「感応閾値の測定法が曖昧だ。微精霊の意志的応答と純粋な物理的反応を区別する基準が、論に書かれていない」


「でも——その区別をどう実証すれば」


「こうだ」


 マグヌスが白紙を取り出し、図式を描き始めた。微精霊の応答パターンを三段階に分類し、各段階の測定プロトコルを手早くまとめていく。その理論の深みは——ルーナが独力では到達できないものだった。


「これで論の弱い部分が埋まる。やってみなさい」


「……はい。ありがとうございます、お師匠様」


 マグヌスが微笑んだ。柔らかい目。十六年前に辺境村でルーナの手を取ってくれた時と、同じ目だ。


「お前の才能だ、ルーナ。私は手を添えているだけだよ」


 その言葉がルーナを満たした。同時に——心の奥で、何かが締めつけられるように痛んだ。この人の手を添えてもらえなくなったら、私は——何を書けるのだろう。


――――――――――――


 夕方、マグヌスが話題を変えた。


「兄は元気か」


 ルーナは手を止めた。


「最近、あまり話してくれないんです」


「そうか」


「旅から帰ってきてから——兄さんの目が、変なんです」


「変?」


「暗い——というか——」


 ルーナは言葉を探した。兄の目。あの目をどう表現すればいいのか。


「何かを探してる目。……猟犬みたいな」


 マグヌスが一瞬、黙った。


 その沈黙は短かった——ほんの二呼吸。だが何かを考えているような、あるいは何かを呑み込んでいるような間だった。


 そしてマグヌスは、穏やかに微笑んだ。


「お前が目を留めているのは大事なことだ。見守ってやりなさい。あの子は自分で答えを見つけなければならない時がある」


 安心した。


 お師匠様がそう言うなら——きっと大丈夫だ。兄さんは何かに没頭しているだけで、いつもの兄さんに戻るのだろう。


――――――――――――


 夜。


 ルーナは台所に立っていた。兄の好きな料理——海魚のマリネを作っている。テセラ海の市場で買った新鮮な鯖を、レモンとハーブでマリネして、焼いたパンに載せる。辺境村では食べられなかった味だ。兄がヘスペリアに来て最初に気に入った料理。


 皿に盛りつけ、二階の兄の部屋に向かった。


 廊下の突き当たり。ドアの隙間から灯りが漏れている。まだ起きている。


 ノックしようとして——手が止まった。


 ドアの向こうから、微かな音が聞こえた。羊皮紙をめくる音。そして——古代語の低い呟き。


 兄が何かに没頭している。邪魔をすべきではない——そう思った。


 同時に、胸の奥で不安が広がった。


 ——お師匠様の論文指導がなければ、私の研究は成り立たない。


 ——あの人を失ったら、学問の居場所がなくなる。


 お師匠様。兄さん。


 二人の間に何もなければいい。兄さんがお師匠様を信じていてくれれば、何も変わらない。今の生活が——ずっと続けばいい。


 ルーナは皿を持ったまま、閉じたドアの前にしばらく立っていた。


 ノックしなかった。


 静かに踵を返し、台所に皿を戻した。ラップをかけて、兄の名前を書いた紙を添えた。


 ——兄さん、元気出してね。


 自室に戻り、窓辺に座った。微精霊たちが、ルーナの不安を感じ取るように、光を弱めていた。



* * *

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