変わらぬ笑顔
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「おかえり」
マグヌスの声が、玄関の薄暗がりに響いた。
「墓参りはできたか?」
穏やかな口調。暖かい微笑。白い髭に縁取られた顔が、廊下のランプに照らされている。十年間、何一つ変わらない師匠の出迎えだった。
カエルは懐に暗号メモの正本を隠したまま、微笑を返した。
「ええ。村はほとんど変わっていませんでした」
「そうか。シルヴィアも喜んでいるだろう」
マグヌスの目を観察した。穏やかだ。何の曇りもない——ように見える。だがカエルの意識は今、十年分の記憶を全て動員して、この笑顔の裏を読み取ろうとしていた。
——「フクロウへ。あなたには渡せない」
母の文字が、視界の端にちらついた。
「兄さん!」
二階から駆け降りてくる足音。ルーナだ。階段を二段飛ばしで降り、カエルに飛びついた。
「おかえり! 長かったよ、もう!」
ルーナは二十一歳になっていた。銀に近い亜麻色の髪が揺れ、翠の瞳が笑っている。声はすっかり戻っている——マグヌスの指導のもとで精霊対話を学ぶうち、失声の壁を超えたのだ。明るく、温かい声。
カエルの心が軋んだ。
この笑顔を——守れるのか。あるいは、真実が明らかになれば、この笑顔は粉々になるのか。
「ただいま、ルーナ」
そう答える自分の声が、どこか遠くに聞こえた。
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夕食はマグヌスが用意していた。白身魚の蒸し焼きに、テセラ海の塩と庭のハーブ。パンは焼きたてで、湯気が食卓に漂っている。
三人で食卓を囲んだ。ルーナがカエルの旅の話をせがみ、カエルは当たり障りのない話をした。道中の村の様子、商人たちとの会話、鉄背山脈の麓から見た夕焼け。
暗号メモのことは——言わない。
「古代碑文は見つかったか」
マグヌスが魚を切り分けながら聞いた。
「いくつか。風化が進んでいて判読が難しいものが多かったですが、母の——故郷の遺跡には保存状態の良いものがありました」
「ほう。何が書いてあった」
「分化以前の祈祷の断片です。言語学的な興味の範囲で」
嘘だ。暗号メモ正本の存在を隠している。
マグヌスの箸が、一瞬——止まった。
ほんの刹那だった。魚の白い身を崩しかけた動きが、まるで映像の一コマが飛んだように停止し——すぐに何事もなかったように再開された。
しかしその一瞬に、カエルは見た。マグヌスの瞳の奥で、何かが計算するような光を放ったのを。
「そうか。分化以前の祈祷は興味深い分野だな」
マグヌスの声は完璧に穏やかだった。だがカエルにはわかった。見通されている——とまでは言えないが、何かを感じ取られた。
ルーナは何も気づいていなかった。兄が帰ってきた嬉しさで、皿に山盛りの料理を盛り付けている。
「兄さん、痩せたでしょ。もっと食べて」
「ああ——ありがとう」
カエルは食事を続けた。目はマグヌスの表情を追い続けていた。
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深夜。
ルーナとマグヌスが寝静まった後、カエルは自室の扉を施錠した。
蝋燭を灯し、暗号メモ正本を机に広げる。写しにはなかった部分——正本の中盤から先の解読に取りかかる。
母の暗号体系は独創的だった。古代語の文字列を、微精霊の振動パターンで変換する三重の暗号化。第一層は古代語の知識、第二層は微精霊の知覚力、第三層は——母だけが知る特定の振動の組み合わせ。
カエルは第三層を試行錯誤で解いていった。母の微精霊との対話の癖を、幼い頃の記憶から引き出す。母が子守唄を歌う時の微精霊の揺れ方。家事をしながら無意識に微精霊を操る、あの独特のリズム。
——あった。
母の「手癖」が鍵だった。特定の振動パターンが、第三層の暗号を開く。
新しい段落が姿を現した。
母の文字が、蝋燭の光の中で語り始めた。
——「原力の発見。統一暦3158年、テセラ海沿岸の海人族集落における微精霊の深層パターン観測がきっかけだった。微精霊の振動の最深部に、微念と区別がつかない粒子群を検出した。通常の精霊学的見地からは説明不可能な現象——」
カエルは息を呑んだ。
——「この粒子群を精密測定した結果、微念と微精霊は同一のエネルギーの異なる位相に過ぎないとの結論に至った。このエネルギーを、古代語の用例に倣い『ヴィス・プリマ——原力』と名づける」
原力。ヴィス・プリマ。
母が見つけた——あるいは、再発見した——根源の力。教会魔法と精霊魔法を分断する壁の向こうに、一つだけの源がある。
カエルの指が羊皮紙の上で止まった。この発見が何を意味するか——三教の信仰体系の根幹を揺るがすということを、研究者だった母は理解していたはずだ。だからこそ暗号化し、隠した。
さらに読み進める。
——「この発見を共有した相手が一人いる。彼はこの知識を——」
文が途切れた。次の行は、さらに複雑な暗号で保護されている。二重暗号——母が特に重要な情報に施す保護だ。今の段階では解読できない。
カエルは蝋燭の芯を整え、目を閉じた。
「彼」。母とともに研究をし、裏で『フクロウ』と名乗るようになった男。
「フクロウへ。あなたには渡せない」と書かれた同じメモの中で、母が「発見を共有した相手」に言及している。
お師匠様の周囲に、その『フクロウ』が潜んでいる可能性は——もう疑いようがなかった。
蝋燭の炎が揺れた。窓の外は真っ暗で、遠くにテセラ海の波の音がかすかに聞こえる。
カエルは正本を丸め、隠し場所——机の底板の裏に貼り付けた二重底——に収めた。
ベッドに横たわり、天井を見つめた。
——「この発見を共有した相手が一人いる。彼はこの知識を……」
その先に、何が書かれているのか。
眠れない夜が始まった。




