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原力の殉教者  作者: とりまな
手がかりの糸
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母の遺した言葉

――――――――――――


 部屋の中央に、結晶体があった。


 高さは人の背丈ほど。半透明の柱が静かに立ち、その内部で二つの色——蒼と金——が交互にゆっくりと明滅していた。


 蒼は微精霊の色。金は微念の色。


 二つの光が混ざり合い、分かれ、また混ざる。まるで呼吸するように。


 カエルは記憶していた。八歳の時に母に連れられて来た、あの日と同じ光景だ。あの時は意味がわからなかった。今は——おぼろげに、しかし確実に——理解が届き始めている。結晶体は、微念と微精霊が分化する前の根源的なエネルギーの残滓だ。


 そして、母が暗号メモをこの部屋に隠した理由も。


 カエルは光球を高く掲げ、部屋の壁面を調べ始めた。南側の壁の一区画に、新しい——相対的に——封印の痕跡がある。母のものだ。


 再び古代語の呪句を唱え、封印を解いた。


 壁の中から、密封された円筒が転がり出た。革製の保護管。紐を解いて中身を取り出すと——羊皮紙の束。


 暗号メモの正本だった。


 カエルの指が、微かに震えていた。十六年前、母が命を賭けて隠したもの。マグヌスの研究室で部分的に解読してきた写しの、拡大された原本。


――――――――――――


 結晶体の二色の光の下で、羊皮紙を広げた。


 正本は写しの三倍の分量があった。大部分は母の暗号体系で保護されている——古代語と微精霊の振動パターンを組み合わせた複雑な暗号だ。ヘスペリアに戻ってから本格的に解読する必要がある。


 しかし、全てが暗号化されているわけではなかった。


 冒頭の数行と末尾の一段落は、古代語の平文で書かれていた。暗号を解く力を持つ者だけがここに辿り着ける——その前提で、最も伝えたかった言葉を直接記したのだろう。


 冒頭——統一力場理論の核心に触れる断片。


 ——「……両者の発生源は一つである。……分化する前の根源的なエネルギー」


 ——「忘れられた神。……現在の神格類型にも、精霊の分類にも当てはまらない」


 微念と微精霊は同じものの二つの顔。教会魔法と精霊魔法は、分化した後の二つの伝統に過ぎない——そう読み取れる。三教が信仰の根拠としている「神格の力」と「精霊の力」の区別そのものを揺るがす内容だ。


 そして——末尾の段落。


 ——「フクロウへ。あなたには渡せない。この知識は世界のものだから」


 カエルの手が止まった。


 結晶体の光が揺れる。蒼と金が交互に羊皮紙を照らし、文字に影を落とす。


 フクロウへ——。


 宛名だ。母が「フクロウ」という何者かに向けて書いた言葉だ。


 胸の奥で何かが冷たく収縮した。写しの断片では見えなかった——正本にだけある文脈。母とその「フクロウ」の間に何かがあった。かつての同志としての関係が——決裂した。


 さらに文脈を辿る。


 ——「この知識は世界のものだ。一人が独占するものではない」


 独占。母はその「フクロウ」が知識を独占しようとしたことに反発していた。


 カエルは正本を丸め、革の保護管に収めた。手が——微かに震えていた。


――――――――――――


 遺跡を出ると、夕暮れだった。


 山の稜線が茜色に染まり、最初の星が空に浮かんでいた。冷たい風が汗ばんだ額を撫でる。辺境村の灯りが、盆地の底で小さく揺れている。


 カエルは外套を掻き寄せ、斜面を降り始めた。懐の中の暗号メモ正本が、体温に触れて僅かに温まっていた。


――――――――――――


 翌朝、酒場に降りた。


 朝食を取りながら、遺跡で目にした文面を頭の中で反芻していた。正本の大部分は暗号で保護されている。本格的な解読はヘスペリアに帰ってからだ。


 ——だが「フクロウへ」の一文だけで、十分な謎が投げかけられていた。


「よう、にいちゃん」


 声に顔を上げると、入口に大柄な海人族の男が立っていた。


 赤褐色の肌。首筋にうっすらと鰓の痕跡——海人族の特徴だ。肩に担いだ大荷物と、使い込まれた革の旅行書は、交易商人であることを示している。


 カエルは一瞬、記憶を辿った。


「……十六年前に、この村で会ったことがあるか?」


 海人族の男が目を瞠った。


「おい、まさか——あの子供か? シルヴィアの。大きくなったなァ」


 十六年前。母がまだ生きていた頃、この村に定期的に立ち寄る海人族の交易商人がいた。母と薬草や珍しい鉱石の取引をしていた男だ。


 向かいの席に腰を下ろした男は、エールを一杯頼んでから、カエルを品定めするように眺めた。


「で、なんだってこんな辺鄙な村に? 都会の学問に飽きたか?」


「母の研究を調べている」


 その言葉に、男の顔が変わった。エールの杯を置き、声を低くした。


「……お前の母さんのことだがな」


 カエルは身を乗り出した。


「あの夜——シルヴィアが殺された夜だ。俺は村の外れで野営してた。夜中に馬が走る音で目が覚めた」


 男は指で卓の表面を叩いた。


「一頭だけ。村から出ていく方向。馬具に——紋が入ってた。暗くてはっきりとは見えなかったが、ヘスペリアの大学紋だった。間違いない。あの紋は何度も見てるからな」


「背の高い男?」


「ああ。暗がりで顔は見えなかった。だが背が高くて——ローブを着てた。学者風の男だ」


 カエルの血が、一瞬で冷えた。


 ヘスペリアの大学紋。背の高い学者風の男。母の死の夜に、村を離れていった——。


 暗号メモの「フクロウへ」が、商人の証言と重なった。二つの手がかりが、同じ人物——つまり『フクロウ』と馬に乗った男を——一つの陰謀で結びつけている。


 しかし——


「他のヘスペリアの教授かもしれない」


 カエルは自分に言い聞かせた。声に出さず、心の中で。


「渡せないってのは——母さんの言葉か?」


 商人が聞き返した。カエルは首を振った。


「いや。独り言だ」


 手が震えていた。テーブルの下で握り締めた拳が、白くなっていた。


 ——まだ決めつけるな。証拠を積め。感情で動くな。


 カエルは深く息を吐いた。エールを飲み干し、金を置いた。


「ありがとう。あの夜のことを覚えていてくれて」


「シルヴィアには世話になったからな」商人は杯を傾けた。「いい女だったよ。あんな死に方をする人間じゃなかった」


――――――――――――


 その日の午後、カエルは村を発った。


 ヘスペリアへの帰路。隊商に合流するまでの山道を、一人で歩く。


 正本の重みが懐にある。「フクロウへ」の六文字が、脳裏にこびりついている。海人族商人の証言が、別の角度から同じ謎の人物を照らしている。


 まだ正体はわからない。だが心の奥で──何かがざわついていた。母の死の裏にいる『フクロウ』とは、一体何者なのか。そして、なぜ今になってその手がかりが浮かび上がってきたのか。


 七日後、ヘスペリアが見えた。


 夜だった。丘の上から見下ろす白壁の街に、無数の灯りが点っている。その中に——マグヌスの研究室の窓が、一つだけ明るく光っていた。


 門をくぐり、石畳の坂を上がる。研究棟の前に立つ。


 ドアの前で、カエルの手が一瞬止まった。


 この扉の向こうに、師匠がいる。十年間面倒を見てくれた人間。ルーナに声を取り戻させてくれた人間。──今の平穏な日常を守るためにも、真実に辿り着かねばならない。


 ゆっくりと、息を吐いた。


 ドアを、開けた。

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