ルーナの不安
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兄さんが、おかしい。
ルーナは台所でスープを温めながら、兄の部屋の閉じた扉を見つめていた。
ここ数日、兄さんは部屋にこもっている。夜遅くまで机に向かい、古い文書を広げている。蝋燭の灯りが扉の隙間から漏れて、廊下に細い金色の線を引いている。
訓練にも身が入っていない。食事の量が減った。声をかけても上の空で、返事が一拍遅れる。
あの目が──怖い。
兄さんの目が暗くなっている。十年前にも見た目だ。母さんが死んだ直後──辺境の村で、兄さんが夜中に起き上がって暗闇を見つめていたときの目。
あのときは八歳だった。何もわからなかった。
でも今のルーナには、わかる。
兄さんが何かに囚われている。
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翌朝、ルーナは兄の部屋の前で足を止めた。
扉を叩くか迷った。
結局、叩いた。
「兄さん。朝ごはん」
「……ああ。すぐ行く」
返事は来たが、食卓に現れたのは十分後だった。目の下に薄い隈があり、パンを齧る手が上の空だった。
ルーナは向かいに座り、兄の顔を見た。
「兄さん、最近変だよ」
「変? 何が」
「夜遅くまで起きてるし、ご飯もあんまり食べないし。何かあったの?」
カエルはパンを皿に置き、ルーナを見た。一瞬だけ──何かを言いかけた顔をした。
でも──すぐに、いつもの穏やかな顔に戻った。
「何でもない。心配するな」
「嘘」
「嘘じゃない。ちょっと調べ物をしてるだけだ」
「何の?」
「……古代語の文献。研究に必要でな」
嘘だ。兄さんの古代語の研究は、普段は楽しそうにやる。今の顔は──楽しさとは程遠い。
でも──それ以上追及する言葉が見つからなかった。兄さんが「何でもない」と言ったら、もう口を開かない。昔からそうだ。
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夕方、お師匠様の書斎を訪ねた。
書斎の扉を開けると、いつもの匂いがした。古い紙とインクと香木。暖炉の火が小さく燃え、マグヌスは机の前で分厚い本を読んでいた。
「お師匠様」
「おや、ルーナ。入りなさい」
ルーナは椅子に腰かけ、膝の上で手を組んだ。
「あの──兄さんのことで」
マグヌスは本を閉じ、ルーナに向き直った。白い眉の下の目が、穏やかにルーナを見ている。
「カエルがどうかしたか」
「最近、部屋に籠もって、古い文書を読んでるみたいで。目が──暗くなってて」
「……そうか」
「何か、ご存知ですか」
マグヌスは少し間を置いて、首を振った。
「カエルから直接は聞いていない。だが──あの子は時折、過去に囚われることがある。母親のことだろう」
「やっぱり……」
ルーナは膝の上の手をきつく握った。
母さんのこと。兄さんはずっと──母さんの死を忘れていない。忘れるつもりもない。それはわかっている。でも──
「お師匠様」
「うん」
「私──怖いんです。兄さんが、どこか遠くに行ってしまうような気がして」
マグヌスは立ち上がり、ルーナの隣に来て椅子に座った。
「カエルは強い子だ。心配しすぎることはない」
「でも──」
マグヌスは黙って手を伸ばし、ルーナの組まれた手を優しく包み込んだ。老いた、しかし確かな温もりを持つその手で、ただ静かにルーナの震えをなだめる。
「信じなさい、ルーナ」
マグヌスの声が、ひどく静かに響いた。
「カエルもまた──今のこの生活を、お前たちを、大切に思っている」
ルーナはうなずいた。
でも心の中で、違う言葉が渦巻いていた。
今の生活を壊さないで。
お師匠様も兄さんも、みんなで一緒にいられれば、それでいいのに。
それだけで──十分なのに。
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帰り道、ルーナは暗くなった通りを歩きながら、唇を噛んだ。
兄さんの暗い目。お師匠様の穏やかな声。
二つの間で、ルーナの不安は消えなかった。
テセラ海の波音が、夜の街に低く響いていた。
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