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原力の殉教者  作者: とりまな
第2章 師のもとで
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ルーナの不安

* * *


――――――――――――


 兄さんが、おかしい。


 ルーナは台所でスープを温めながら、兄の部屋の閉じた扉を見つめていた。


 ここ数日、兄さんは部屋にこもっている。夜遅くまで机に向かい、古い文書を広げている。蝋燭の灯りが扉の隙間から漏れて、廊下に細い金色の線を引いている。


 訓練にも身が入っていない。食事の量が減った。声をかけても上の空で、返事が一拍遅れる。


 あの目が──怖い。


 兄さんの目が暗くなっている。十年前にも見た目だ。母さんが死んだ直後──辺境の村で、兄さんが夜中に起き上がって暗闇を見つめていたときの目。


 あのときは八歳だった。何もわからなかった。


 でも今のルーナには、わかる。


 兄さんが何かに囚われている。


――――――――――――


 翌朝、ルーナは兄の部屋の前で足を止めた。


 扉を叩くか迷った。


 結局、叩いた。


「兄さん。朝ごはん」


「……ああ。すぐ行く」


 返事は来たが、食卓に現れたのは十分後だった。目の下に薄い隈があり、パンを齧る手が上の空だった。


 ルーナは向かいに座り、兄の顔を見た。


「兄さん、最近変だよ」


「変? 何が」


「夜遅くまで起きてるし、ご飯もあんまり食べないし。何かあったの?」


 カエルはパンを皿に置き、ルーナを見た。一瞬だけ──何かを言いかけた顔をした。


 でも──すぐに、いつもの穏やかな顔に戻った。


「何でもない。心配するな」


「嘘」


「嘘じゃない。ちょっと調べ物をしてるだけだ」


「何の?」


「……古代語の文献。研究に必要でな」


 嘘だ。兄さんの古代語の研究は、普段は楽しそうにやる。今の顔は──楽しさとは程遠い。


 でも──それ以上追及する言葉が見つからなかった。兄さんが「何でもない」と言ったら、もう口を開かない。昔からそうだ。


――――――――――――


 夕方、お師匠様の書斎を訪ねた。


 書斎の扉を開けると、いつもの匂いがした。古い紙とインクと香木。暖炉の火が小さく燃え、マグヌスは机の前で分厚い本を読んでいた。


「お師匠様」


「おや、ルーナ。入りなさい」


 ルーナは椅子に腰かけ、膝の上で手を組んだ。


「あの──兄さんのことで」


 マグヌスは本を閉じ、ルーナに向き直った。白い眉の下の目が、穏やかにルーナを見ている。


「カエルがどうかしたか」


「最近、部屋に籠もって、古い文書を読んでるみたいで。目が──暗くなってて」


「……そうか」


「何か、ご存知ですか」


 マグヌスは少し間を置いて、首を振った。


「カエルから直接は聞いていない。だが──あの子は時折、過去に囚われることがある。母親のことだろう」


「やっぱり……」


 ルーナは膝の上の手をきつく握った。


 母さんのこと。兄さんはずっと──母さんの死を忘れていない。忘れるつもりもない。それはわかっている。でも──


「お師匠様」


「うん」


「私──怖いんです。兄さんが、どこか遠くに行ってしまうような気がして」


 マグヌスは立ち上がり、ルーナの隣に来て椅子に座った。


「カエルは強い子だ。心配しすぎることはない」


「でも──」


 マグヌスは黙って手を伸ばし、ルーナの組まれた手を優しく包み込んだ。老いた、しかし確かな温もりを持つその手で、ただ静かにルーナの震えをなだめる。


「信じなさい、ルーナ」


 マグヌスの声が、ひどく静かに響いた。


「カエルもまた──今のこの生活を、お前たちを、大切に思っている」


 ルーナはうなずいた。


 でも心の中で、違う言葉が渦巻いていた。


 今の生活を壊さないで。


 お師匠様も兄さんも、みんなで一緒にいられれば、それでいいのに。


 それだけで──十分なのに。


――――――――――――


 帰り道、ルーナは暗くなった通りを歩きながら、唇を噛んだ。


 兄さんの暗い目。お師匠様の穏やかな声。


 二つの間で、ルーナの不安は消えなかった。


 テセラ海の波音が、夜の街に低く響いていた。



* * *

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