疎外
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兄さんが、また帰って来ない。
ルーナは台所の椅子に座り、冷めた紅茶を見つめていた。テーブルの上にはスープの鍋が二つ。一つはルーナの分で、もう一つは兄の分だ。兄の分にはまだ蓋がしてある。
窓の外は暗くなっていた。テセラ海からの潮風が、開けた窓からカーテンを膨らませる。
最近は、いつもこうだ。
アウレリウスが来てから──兄さんの毎日が変わった。朝は二人で訓練し、午後は研究室にこもり、夕方にまた訓練し、夜は屋上で話し込む。兄さんが帰ってくるのは、ルーナがとっくに寝た後になることも珍しくない。
嬉しいことだと思う。兄さんにやっと、対等な友達ができた。ずっと一人だった兄さんに。
わかっている。
わかっているのに──この胸の、冷たい、すきま風のようなものは何だろう。
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子供の頃は違った。
ヘスペリアに来たばかりの頃、兄さんはいつもルーナのそばにいた。学校から帰ればルーナの宿題を見てくれたし、夕食は必ず一緒に食べた。夜、眠れないときは、静かに隣に座っていてくれた。
いつからだろう。兄さんの世界が、ルーナの手の届かない場所へ広がっていったのは。
最初は学術決闘で名前が知られ始めた頃。次にマナ嵐の鎮圧で英雄になった頃。そしてアウレリウスが来て──もう、決定的だった。
兄さんの世界には、ルーナの入る場所がない。
ルーナは精霊魔法なら学年で一番だ。微精霊との対話も、精霊の制御も、誰にも負けない自信がある。でも──兄さんとアウレリウスの話す内容は、ルーナには遠すぎる。教会魔法と精霊魔法の統合理論、微念の構造、術式の即興変形。二人の言葉は、ルーナの知らない場所で交わされている。
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翌日の夕方。
ルーナはお師匠様の書斎を訪ねた。
マグヌスの書斎は、いつも同じ匂いがする。古い紙と、インクと、微かな香木。暖炉には小さな火が灯り、壁一面の本棚が薄暗い金色に照らされている。
この部屋が好きだった。世界がどれだけ変わっても、ここだけは変わらない。
「お師匠様」
「どうした、ルーナ。そんな顔をして」
マグヌスは机から顔を上げ、穏やかに微笑んだ。白い髭に囲まれた口元が、いつものように柔らかく弧を描く。
「……お茶、もらっていいですか」
「もちろん。ちょうどいい。私も一杯欲しかったところだ」
マグヌスが棚から茶器を出し、ルーナは鉄瓶から湯を注いだ。林檎と蜂蜜の香りが立ちのぼる。お師匠様お手製のブレンドだ。
二人で向かい合って座り、静かにお茶を飲んだ。
マグヌスはしばらく黙っていた。そして──ルーナが何も言わないまま二杯目を注いだとき、穏やかに口を開いた。
「寂しいか?」
ルーナの手が止まった。
「……寂しくなんか、ないです」
「そうか」
マグヌスは茶を一口含み、ゆっくりと続けた。
「兄は成長している。それは良いことだ。アウレリウスという友を得て、カエルはようやく自分の世界を広げ始めた。孤独だった男が、対等な相手を見つけた。──お前も、それは喜んでいるだろう」
「……はい」
「だが──置いていかれたような気がする。違うか」
ルーナは唇を噛んだ。
違わなかった。
お師匠様は、いつもこうだ。ルーナが言葉にできないことを、先に見つけてくれる。
「……兄さんは、もう私なんかいなくても大丈夫なんだと思います」
「それは違う。カエルにとって、お前は何よりも大切だ。ただ──今の彼には、お前の知らない世界が必要だった。それだけだ」
マグヌスが立ち上がり、本棚から一冊の本を抜き出した。精霊魔法の応用理論書だった。
「お前にはお前の道がある。精霊魔法の才能は、兄にも負けない──いや、純粋な精霊魔法の感覚なら、お前の方が上かもしれん」
「……本当ですか」
「嘘をつく理由がない」
マグヌスの目が、暖炉の光を受けて優しく光った。
ルーナは本を胸に抱いた。温かかった。お師匠様がくれるものは、いつも温かかった。
「ありがとうございます、お師匠様」
「何も礼を言われるようなことはしていない。──さあ、お茶のおかわりを入れよう。今日はいい葉が手に入ったんだ」
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帰り道、ルーナは通りを歩きながら考えた。
兄さんの世界は広がっていく。ルーナには追いつけない。
でも──お師匠様がいる。お師匠様だけは、ルーナのことをちゃんと見てくれる。ルーナの才能を認めてくれる。寂しいときに、隣にいてくれる。
それでいい。
それだけで──いい。
自分でも気づかないまま、ルーナの心はまた少し、マグヌスの方へ傾いた。
空にはテセラ海から昇った三日月が、白く細く光っていた。
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