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原力の殉教者  作者: とりまな
第2章 師のもとで
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疎外

* * *


――――――――――――


 兄さんが、また帰って来ない。


 ルーナは台所の椅子に座り、冷めた紅茶を見つめていた。テーブルの上にはスープの鍋が二つ。一つはルーナの分で、もう一つは兄の分だ。兄の分にはまだ蓋がしてある。


 窓の外は暗くなっていた。テセラ海からの潮風が、開けた窓からカーテンを膨らませる。


 最近は、いつもこうだ。


 アウレリウスが来てから──兄さんの毎日が変わった。朝は二人で訓練し、午後は研究室にこもり、夕方にまた訓練し、夜は屋上で話し込む。兄さんが帰ってくるのは、ルーナがとっくに寝た後になることも珍しくない。


 嬉しいことだと思う。兄さんにやっと、対等な友達ができた。ずっと一人だった兄さんに。


 わかっている。


 わかっているのに──この胸の、冷たい、すきま風のようなものは何だろう。


――――――――――――


 子供の頃は違った。


 ヘスペリアに来たばかりの頃、兄さんはいつもルーナのそばにいた。学校から帰ればルーナの宿題を見てくれたし、夕食は必ず一緒に食べた。夜、眠れないときは、静かに隣に座っていてくれた。


 いつからだろう。兄さんの世界が、ルーナの手の届かない場所へ広がっていったのは。


 最初は学術決闘で名前が知られ始めた頃。次にマナ嵐の鎮圧で英雄になった頃。そしてアウレリウスが来て──もう、決定的だった。


 兄さんの世界には、ルーナの入る場所がない。


 ルーナは精霊魔法なら学年で一番だ。微精霊との対話も、精霊の制御も、誰にも負けない自信がある。でも──兄さんとアウレリウスの話す内容は、ルーナには遠すぎる。教会魔法と精霊魔法の統合理論、微念の構造、術式の即興変形。二人の言葉は、ルーナの知らない場所で交わされている。


――――――――――――


 翌日の夕方。


 ルーナはお師匠様の書斎を訪ねた。


 マグヌスの書斎は、いつも同じ匂いがする。古い紙と、インクと、微かな香木。暖炉には小さな火が灯り、壁一面の本棚が薄暗い金色に照らされている。


 この部屋が好きだった。世界がどれだけ変わっても、ここだけは変わらない。


「お師匠様」


「どうした、ルーナ。そんな顔をして」


 マグヌスは机から顔を上げ、穏やかに微笑んだ。白い髭に囲まれた口元が、いつものように柔らかく弧を描く。


「……お茶、もらっていいですか」


「もちろん。ちょうどいい。私も一杯欲しかったところだ」


 マグヌスが棚から茶器を出し、ルーナは鉄瓶から湯を注いだ。林檎と蜂蜜の香りが立ちのぼる。お師匠様お手製のブレンドだ。


 二人で向かい合って座り、静かにお茶を飲んだ。


 マグヌスはしばらく黙っていた。そして──ルーナが何も言わないまま二杯目を注いだとき、穏やかに口を開いた。


「寂しいか?」


 ルーナの手が止まった。


「……寂しくなんか、ないです」


「そうか」


 マグヌスは茶を一口含み、ゆっくりと続けた。


「兄は成長している。それは良いことだ。アウレリウスという友を得て、カエルはようやく自分の世界を広げ始めた。孤独だった男が、対等な相手を見つけた。──お前も、それは喜んでいるだろう」


「……はい」


「だが──置いていかれたような気がする。違うか」


 ルーナは唇を噛んだ。


 違わなかった。


 お師匠様は、いつもこうだ。ルーナが言葉にできないことを、先に見つけてくれる。


「……兄さんは、もう私なんかいなくても大丈夫なんだと思います」


「それは違う。カエルにとって、お前は何よりも大切だ。ただ──今の彼には、お前の知らない世界が必要だった。それだけだ」


 マグヌスが立ち上がり、本棚から一冊の本を抜き出した。精霊魔法の応用理論書だった。


「お前にはお前の道がある。精霊魔法の才能は、兄にも負けない──いや、純粋な精霊魔法の感覚なら、お前の方が上かもしれん」


「……本当ですか」


「嘘をつく理由がない」


 マグヌスの目が、暖炉の光を受けて優しく光った。


 ルーナは本を胸に抱いた。温かかった。お師匠様がくれるものは、いつも温かかった。


「ありがとうございます、お師匠様」


「何も礼を言われるようなことはしていない。──さあ、お茶のおかわりを入れよう。今日はいい葉が手に入ったんだ」


――――――――――――


 帰り道、ルーナは通りを歩きながら考えた。


 兄さんの世界は広がっていく。ルーナには追いつけない。


 でも──お師匠様がいる。お師匠様だけは、ルーナのことをちゃんと見てくれる。ルーナの才能を認めてくれる。寂しいときに、隣にいてくれる。


 それでいい。


 それだけで──いい。


 自分でも気づかないまま、ルーナの心はまた少し、マグヌスの方へ傾いた。


 空にはテセラ海から昇った三日月が、白く細く光っていた。



* * *

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