遠い兄
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兄さんが英雄になった。
大学中がその話をしていた。廊下を歩けば耳に入る。食堂に行けば囁き声が追いかけてくる。「港の嵐の中心を鎮めた」「精霊魔法と教会魔法を同時に」「あの両方使いの」。
ルーナは十四歳になっていた。三年前に比べれば背は伸びたし、言葉も自由に話せるようになった。精霊学部の聴講生として週に三回講義に出て、教授には「将来が楽しみだ」と言われている。
でも──兄さんの話では、ない。
兄さんの話は、いつも遠い。
講義。訓練。図書館。研究。嵐の鎮圧。兄さんの世界は、ルーナの手が届かない場所に広がっている。夕食には戻ってくるけど、目が少し遠い。食べながら何かを考えている。ルーナが話しかけると笑ってくれるけど、その笑顔の向こうに別の景色が透けて見える。
「今日も兄さんはおそい」
夕暮れの庭園で、ルーナは独り言を言った。
テセラ海が夕陽で橙色に染まり、庭園の花が風に揺れている。微精霊が花弁の周りを飛び、ルーナの指先に集まった。微精霊は寂しいときに寄ってくる。ルーナの感情に敏感だから。
「ルーナ」
背後から声がした。お師匠様だ。
マグヌスが庭園の小道を歩いてきた。大きな手に、小さな鉢植えを持っている。
「これを植えよう。冬に咲く花だ」
マグヌスが石のベンチの隣にしゃがみ込み、花壇の端に穴を掘り始めた。ルーナは隣にしゃがんで、土を手で柔らかくほぐした。
「お師匠様」
「なんだい?」
「兄さん、最近すごく忙しいね」
「ああ。カエルは今、大事な時期にいる。伸びている最中だからな」
「うん……」
ルーナは土を握った。指の間から、細かい砂が零れる。
「兄さんが嵐を止めたの、すごいと思う。でも──」
「でも?」
「わたしは嵐のとき、何もできなかった。ただ待ってただけ」
マグヌスは手を止め、ルーナを見た。深い皺の刻まれた穏やかな顔。
「お前は兄とは違う才能がある。焦ることはない」
「違う才能?」
「微精霊との対話能力だ。お前は命令するのではなく、微精霊の気持ちに寄り添える。それは力技では到達できない、稀有な才能だ」
マグヌスが鉢植えの花を花壇に移した。白い小さな花だった。
「この花は、冬に咲く。他の花が枯れる季節に、静かに根を張り、誰よりも遅く──でも確実に開く」
ルーナは白い花を見つめた。お師匠様は、いつもこうだ。ちょうどいい言葉をくれる。急かさない。否定しない。「お前のペースで」と言って、ずっと隣にいてくれる。
兄さんはいつも前を向いている。遠い場所を見て、走り続けている。それは兄さんの強さだ。でもルーナは──走れない。走りたくない。今いる場所で、静かに根を張りたい。
「お師匠様は、いつもいてくれるよね」
「ああ。どこにも行かないよ」
その言葉が、胸の奥深くに沈んだ。
精霊魔法の練習をした。マグヌスが微精霊の呼び方を教え、ルーナが試す。花壇の花が一斉に向きを変え、ルーナの方を見た。微精霊が歌うように光る。
「上手になったな」
「お師匠様のおかげ」
「違うよ。お前の才能だ。──お前の母も、同じように微精霊に好かれていた」
お母さん。
その名前が出ると、胸が少しぎゅっとなる。でも前みたいに息ができなくなったりはしない。お師匠様が隣にいるから。
練習が終わり、夕陽が完全に沈んだ頃、住居に戻った。居間にはまだ明かりがついていない。兄さんは帰っていない。
ルーナは自室に入り、窓辺に腰かけた。テセラ海の上に星が一つ、二つ。
兄さんが有名になればなるほど、遠くなる気がする。
でもお師匠様がいるから。兄さんが遠くに行っても、お師匠様はいつもここにいてくれる。
それは安らぎだった。そしてそれは──少しずつ、兄さんの代わりになりつつあった。
ルーナはそのことに、まだ気づいていなかった。
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