嵐の鎮圧
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テセラ海から嵐が来た。
普通の嵐ではなかった。暴風の中にマナが過剰に含まれ、大気中の微精霊が興奮状態に陥っている。大学外縁の港区画では、微精霊が建物の石壁に浸透し、壁面に苔のような光が広がり始めていた。触れた者の肌に火傷に似た痕が残る。
カエルが駆けつけたとき、大学の警備術師団がすでに展開していた。
精霊学系の術師が三人、微精霊の暴走を抑えようと結界を張っている。だが嵐の規模が大きすぎた。風が結界を揺さぶり、一人の術師が吹き飛ばされて石壁に叩きつけられた。
「マナ濃度が異常だ! 精霊語の制御が追いつかない!」
術師の一人が叫んだ。港の倉庫が軋み、屋根瓦が剥がれて飛ぶ。住民が避難する列が、暴風の中でよろめいている。
「教会魔法の結界を張れる者はいないのか!」
「結界術者は東棟にいる! ここには精霊系の術師しかいない!」
カエルは、現場に残っていた精霊術師三人と短く合図を交わしてから、嵐の中に踏み出した。
風が顔を叩く。髪が激しく靡き、視界が雨と飛沫で白く霞む。微精霊が暴走している──怒りではなく、恐怖だ。海から押し寄せるマナの波に微精霊が翻弄され、自分自身を制御できなくなっている。
カエルは精霊語で呼びかけた。
「鎮まれ」
古代語の源流を持つ、柔らかいフレーズ。微精霊の恐怖に寄り添うような、母が教えてくれた言い回し。暴走した微精霊の一部が反応し、光の動きが僅かに緩んだ。
だが全体を抑えるには足りない。嵐が供給するマナが多すぎる。一方を鎮めても、別の区画で暴走が再燃する。
カエルは左手を掲げた。
典礼語の祈祷句が唇から流れ、教会魔法の結界が港区画を覆った。白い光の膜が暴風の中で広がり、マナの流入を遮断する。外の嵐が結界にぶつかり、光が歪む。だが──持ちこたえた。
結界の内側で、カエルは精霊魔法に集中した。
古代語のなだめの歌。母が子守唄のように歌っていたあの旋律を、術式に編み込む。微精霊が一体ずつ、ゆっくりと鎮静していく。光が穏やかになり、壁面から浸透が引き始める。
精霊魔法で微精霊を鎮め、教会魔法で外部のマナを遮断する。二つの系統を同時に運用し、マナ異常を根本から沈静化する。
どちらか一方の専門家だけでは、これはできなかった。
風が凪いだのは、三十分後だった。三人の術師が外周の流れを受け持ち、カエルが内側の制御を引き取る連携が、最後まで崩れなかった。
嵐は過ぎ去り、結界の中で微精霊は通常の状態に戻っていた。港の被害は一区画の屋根と壁面だけ。重傷者はいない。
カエルが結界を解いたとき、膝が震えていた。精霊魔法と教会魔法の同時運用を三十分持続したのは初めてだ。体の底に、乾いた砂をかき混ぜたような消耗がある。
「……大したものだ」
低い声が聞こえた。
振り返ると、白い法衣の老人が立っていた。禿頭に深い皺、だが眼光は鋭い。大学の学長──グレゴリウスだった。
「マグヌスのところの学生か」
「はい」
「外周は他の術師たちが押さえていたが、中心を鎮めたのはお前か」
「はい。精霊魔法と教会魔法を同時に──」
「見ていた」
学長が顎を撫でた。
「覚えておこう」
それだけ言って、学長は去った。
カエルが住居に戻ると、マグヌスが研究室にいた。港の方向を見ていたのか、窓辺に立っていた。
「師匠。ただいま戻りました」
マグヌスが振り返った。その顔には、誇らしげな微笑みが浮かんでいた。
「見ていたよ。見事な同時運用だった。怪我はないか?」
「ありません」
「よくやった」
マグヌスはそう言って、カエルの肩を真っ直ぐに見て頷いた。その温かな瞳は、五年前から変わらず、カエルの力になっていた。




