紫の花
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ルーナの目に、庭園の花々が飛び込んできた。
紫、白、淡い青。テセラ海から吹く風に揺れて、花弁が光を含んで透ける。ルーナは石畳の小道にしゃがみ込み、紫の花に指を伸ばした。
花の周りに、小さな光の粒が漂っている。
微精霊だ。目には見えにくいけれど、ルーナには感じ取れる。温かくて、くすぐったくて、指先に触れると花が微かに揺れる。まるで笑っているみたいだった。
「ルーナ、花を枯らさないようにな」
石のベンチに座ったマグヌスが、穏やかに声をかけた。
「枯らさないよ。お花は友達だもん」
ルーナは立ち上がり、マグヌスの隣に座った。師匠──お師匠様は、大きな人だ。背が高くて、手が大きくて、声が低い。でも怖くない。お母さんの友達だから。お母さんが信頼していた人だから。
「今日の練習を始めようか」
マグヌスが掌を上に向けた。その上で、微精霊が小さな光を纏って踊る。
「この子たちに、お前の気持ちを伝えてごらん。言葉じゃなくていい。感じたことをそのまま」
ルーナは目を閉じた。胸の奥にある温かいものを──花を見たときの嬉しさを、海風の気持ちよさを──指先に送る。微精霊が応えた。掌の上の光がふわりと膨らみ、紫の花の方へ流れていく。花弁が一斉にルーナの方を向いた。
「上手だ」
マグヌスが笑った。目尻に深い皺ができる。
「焦らなくていい。お前のペースで進もう。精霊魔法は感性の術だ。お前にはそれがある」
ルーナの胸に、じんわりと温かいものが広がった。
兄さん──カエル兄さんは、最近忙しい。朝早くから講義に出て、夜はお師匠様の実験場で訓練して、図書館で本を読む。夕食には戻ってくるけど、疲れた顔をしていることが多い。話しかけると笑ってくれるけど、前みたいに長い時間一緒にはいてくれない。
それは仕方ないことだと、ルーナはわかっていた。兄さんは強くなろうとしている。お母さんを守れなかった悔しさを、ルーナは知っている。だから兄さんの邪魔はしたくない。
でも──少し、寂しい。
「お師匠様」
「なんだい?」
「お師匠様は、お母さんのことどう思ってたの?」
「シルヴィアとは……かつて同じ学府で学んだ同志だった」
マグヌスがテセラ海の方を見た。水平線に夕陽が近づいている。
「聡明で、勇敢で、誰よりも深く世界を理解していた。お前の母も、そう考えていたと思う」
「お母さんも、お師匠様のことを友達だって?」
「ああ。……長い付き合いだったからな」
マグヌスの目が遠くなった。何か──もっと遠い場所を見ているようだった。
ルーナはそれ以上聞かなかった。お師匠様が少し悲しそうだったから。お母さんのことを話すと、大人はみんな悲しそうな顔をする。兄さんも。
風が吹いて、紫の花弁がひとひら飛んだ。ルーナが指で受け止めると、微精霊がその花弁の周りに集まって、小さな光の冠を作った。
「きれい……」
「お前の微精霊との親和性は、兄を上回っているかもしれないな」
マグヌスが微笑んだ。
「お母さんに似てるから?」
「ああ。シルヴィアも──精霊魔法の才能は特別だった」
お母さんに似ている。その言葉が、ルーナの胸の奥で温かく響いた。
兄さんは両方の魔法が使える。すごい人だ。でもルーナには教会魔法は使えない。兄さんみたいにはなれない。それでも──精霊魔法なら。お母さんと同じ才能があるなら。
自分にも、何かできるかもしれない。
夕陽がテセラ海に沈む頃、練習を終えて住居に戻った。玄関の扉を開けると、食卓にはまだ二人分の皿しかない。
「兄さん、今日もおそい」
ルーナは少しだけ唇を尖らせた。
マグヌスが食卓に三人分の皿を並べながら言った。
「カエルは図書館にいるだろう。もうすぐ戻るよ」
「うん……」
ルーナは椅子に座り、テーブルに頬杖をついた。窓の外に、一番星が光り始めている。
兄さんが帰ってくるまで待とう。お師匠様がいるから、寂しくはない。お母さんの友達だから、きっとやさしい人。この人がいれば──大丈夫。
兄さんが遠くに行っても、お師匠様はいつもここにいてくれる。
その考えが胸の中で根を下ろしたことに、ルーナ自身は気づいていなかった。
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