二つの教室
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精霊学の講義室は、西棟の三階にあった。
半円形に階段状の席が並び、正面の黒板には精霊語の術式が白墨で細かく書き込まれている。窓からテセラ海の風が入り、微精霊の微かな光が埃のように漂っていた。
「──微精霊の意思伝達は、厳密には『言語』とは呼べない」
精霊学教授のティベリウスが、杖で黒板を叩いた。白髭の老人で、体験入学のときにカエルの試験を監督した人物だ。
「彼らは概念を、振動の組み合わせとして伝達する。我々がそれを『精霊語』と呼ぶのは便宜上の名称に過ぎない。精霊語とは──人間が微精霊の意思伝達パターンに合わせて作った、翻訳言語だ」
カエルは最前列で聴いていた。他の学生が後ろに固まるため、最前列はいつも空いている。距離を置かれているのは承知だが、講義の内容がよく聞こえるから好都合だった。
「質問があります」
手を挙げた。教授が頷く。
「精霊語の基底にある振動パターンは、古代語──源語のそれと構造が似ているように思います。古代語のフレーズを用いると、微精霊の応答が早くなるのですが、それは古代語が精霊語よりも翻訳精度が高いということですか?」
教室が静まった。教授の目が見開かれた。
「……古代語を使える口か。どこで学んだ」
「母に教わりました」
「なるほど。いい質問だ」
ティベリウスが黒板に新たな図を描き始めた。
「源語──古代語は、精霊召喚語と教会祈祷語に分化する前の共通祖語だ。微精霊の意思伝達パターンに最も近い人間の言語体系であり、理論上は微念の伝達パターンとも……いや、これは異端的な仮説になるな」
教授が言葉を濁した。カエルは頷き、それ以上追及しなかった。だが胸の中で、母の言葉が蘇った。「光はつながっている」。
精霊語と典礼語。微精霊とのの交渉に使う言語と、微念を介した祈祷に使う言語。どちらも古代語から分かれた。ならば──根元では、つながっているのではないか。
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午後は東棟の神格構造学の講義だった。
こちらの教室は精霊学とは雰囲気が違う。壁に聖堂の装飾が施され、窓のステンドグラスから色とりどりの光が差し込む。微念の気配が満ちており、空気が重い。
教壇に立ったのは、中年の女性教授だった。厳格な面持ちだが、講義の内容は明晰だった。
「──微念とは何か。知的種族の思考、感情、信仰が生む精神的エネルギー粒子である。微念は精神界を伝播し、集積することで構造を形成する。では、十分な微念が集積したとき、何が生まれるか」
教授が教壇を一歩進んだ。
「神格だ」
教授の声が静かに響いた。
「微念が臨界量を超えて集積すると、自律的意志を持つ超有機体が形成される。これを神格と呼ぶ。我々が神と呼ぶ存在は──信仰という微念の集積によって、文字通り生まれる」
カエルの背中に冷たいものが走った。
神は──人が作ったもの?
信仰が微念を生み、微念が集積して神格になる。つまり、神は人間が信じることで初めて存在する。人が祈り、人が信じ、人が微念を送り続けるから──神は在る。
教室では学生たちが当たり前のように筆記している。東方教会の学術体系では、これは禁じられた知識ではない。だが──。
カエルは口を閉じた。
この考えを声に出してはいけない。直感がそう告げていた。西方ルクスでは、神を「人が作った」と言えば異端だ。東方教会ですら、この理論を突き詰めれば危険な領域に踏み込む。
神を作るのが人間なら。
神を壊すのもまた、人間ではないのか。
カエルは思考を飲み込み、黙って筆記を続けた。
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夜。マグヌスの実験場で、実践訓練が始まった。
三階の広い空間に、術式の記号が床に刻まれている。天窓から月光が差し込み、マグヌスの白髪を銀色に染めた。
「精霊魔法で風を起こせ。次に教会魔法で結界を張り、風を封じろ」
カエルは精霊語を紡いだ。微精霊が応じ、空間に旋風が生まれる。続けて典礼語の祈祷句を唱え、光の結界で旋風を包んだ。二つの力が拮抗し、旋風が結界の中で静かに渦を巻く。
「よし。今度は同時に起動しろ」
カエルは息を整え、古代語で──一つのフレーズに風の召喚と光の結界を編み込んだ。
旋風と結界が同時に生まれ、互いを補強するように美しい均衡を保った。
「……やはりな」
マグヌスが目を細めた。
「お前の力は直感的だ。理論を理解すれば、さらに先に行ける。二つの系統を別々に扱うのではなく──」
マグヌスはそこで言葉を切った。何かを言いかけて、飲み込んだように見えた。
「……なんでもない。今日はここまでにしよう。明日も早い」
「はい、師匠。ありがとうございます」
実験場を出るとき、カエルは振り返った。マグヌスが窓辺に立ち、月を見上げている。その横顔は穏やかで、学者が未知の問いを前にしたときの、純粋な知的興奮を湛えていた。
精霊学の評価テストが近づいている。
カエルは階段を降りながら、今日の二つの講義を反復した。微精霊と微念。精霊魔法と教会魔法。古代語という共通の根。
根っこは同じかもしれない。
その直感を、まだ言葉にする時ではなかった。




