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原力の殉教者  作者: とりまな
第2章 師のもとで
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ルーナの声

――――――――――――

 ヘスペリアの夕暮れは、テセラ海が空を染める。


 西の水平線が橙から深紅に変わり、窓硝子を通して食卓を暖色に浸す。マグヌスの住居の一階、小さな食卓に三人分の皿が並んでいた。


 入学から三月が過ぎた。ルーナの失声は、少しずつだが確実に改善していた。


 マグヌスが毎晩、根気強くルーナに話しかけた。東方教会に伝わる精神治療の技法──声の振動を微念の緩やかな波として送り、精神の凍結した部分を溶かしていく。辺境にいた五年間ではできなかった、専門的な治療だった。


「今日の講義はどうだった?」


 マグヌスがスープの鍋から取り分けながら聞いた。


 カエルが精霊学の試験結果を報告している間、ルーナは黙ってパンをちぎっていた。最近は表情が柔らかい。マグヌスの住居での生活に馴染み、庭の花壇を世話したり、書庫の本を眺めたりしている。言葉は断片的だが、頷きや首振りは正確で、意思疎通に困ることは減っていた。


「ルーナ、スープにパンを浸すと美味しいぞ」


 マグヌスが穏やかに言った。ルーナがちぎったパンをスープに沈め、ひと口含んだ。


 その瞬間──ルーナの顔がほころんだ。


「お師匠様、今日のスープ、美味しい」


 食卓が静まった。


 カエルは椀を持つ手が止まった。ルーナの声が──文章になっていた。断片ではない。主語があり、述語があり、感情を含んだ、完全な一文。


 マグヌスの目が潤んだ。大きな手でそっと目元を押さえ、それからルーナに微笑んだ。


「そうか。……嬉しいよ、ルーナ」


 その声が震えていた。


 カエルは黙ってスープを口に運んだ。喉の奥が熱い。嬉しかった。五年間、妹の言葉が途切れることを恐れ続けてきた。母を失ったあの夜から、ルーナの声は壊れたままだった。それが今──。


 だが同時に、胸の奥に針が一本刺さるような感覚があった。


 ルーナの最初の完全な言葉が、カエルではなくマグヌスに向けられた。


 理屈ではわかっている。マグヌスが治療をしてくれた。毎晩、根気強く、穏やかに。カエルには東方教会の精神治療の技法はない。妹の回復は師匠の力だ。それでも──。


「兄さん」


 ルーナが小さく呼んだ。カエルは顔を上げた。


「美味しいよ」


 ルーナが笑っていた。母に似た笑顔だ。銀の髪が夕陽に透けて、琥珀色に光る。


「ああ。美味い」


 カエルは笑い返した。針の感覚は、もう消えていた。妹が笑っている。それだけでいい。


 夕食の後、ルーナが自室に戻ると、マグヌスがカエルを居間に残した。暖炉の火が爆ぜ、橙色の光が二人の影を壁に揺らす。


「カエル」


 マグヌスが椅子に深く座り、カエルを見た。


「お前の妹は強い子だ」


「はい」


「あの失声は──精神の深い部分に刻まれた傷だ。普通なら何年かかっても治らない。だがルーナは、わずか三月で完全な文章を取り戻した」


 マグヌスが暖炉の火を見つめた。


「それは私の治療だけの力ではない。お前がそばにいたからだ。五年間、言葉が出なくても、お前がルーナの隣で話し続けたから──言語の回路が途切れずに残っていた」


 カエルは床を見た。五年間の夜のことを思い出していた。ルーナが悪夢で目を覚ますたびに、手を握り、何でもない話をした。森で見つけた花のこと、星の名前、母が教えてくれた古代語のこと。ルーナが反応しなくても、話し続けた。


「お前は良い兄だな」


 マグヌスの声は落ち着いていた。居間の暖かさに溶ける、いつもの調子だった。


「師匠のおかげです」


「私は技術を使っただけだ。ルーナを支えたのはお前だよ、カエル」


 暖炉の火が弾けた。橙の光が揺れ、マグヌスの顔に影を落とす。温かい居間、温かい言葉、温かい食事の余韻。


 三人の生活は、家族のようだった。血の繋がりはない。だが失ったものの代わりに、新しい形がここに生まれつつある。


 カエルは──それを信じた。信じることに、迷いはなかった。


「そろそろ本格的な訓練を始めよう」


 マグヌスが立ち上がり、窓の外を見た。テセラ海の上に、星が一つずつ灯り始めている。


「お前の才能は、基礎の枠に収まらない。精霊学と神格構造学──両方の理論を、本腰を入れて叩き込む」


「はい、師匠」


 カエルの声に、迷いはなかった。


 この人の下でなら、もっと強くなれる。ルーナを守るために。母の死の真相を追うために。


 そのどちらの理由が重いのか──カエルは、まだ自分でもわかっていなかった。

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