混血の子
大学の廊下は、朝の光で白く染まっていた。
講義棟の石壁に沿って歩くたびに、カエルの足音が高い天井に反響する。入学から一月が過ぎ、建物の配置にも慣れてきた。精霊学部は西棟、神格構造学部は東棟、図書館は中央の塔。毎日その三つを行き来する日々だ。
だが慣れたのは道だけで、周囲の人間との距離は縮まらなかった。
講義室に入ると、近くの席がさりげなく空く。図書館で資料を広げると、隣の机の学生が別の場所に移る。廊下ですれ違うとき、目が合えば視線を逸らされ、背中に囁き声が追いかけてくる。
「両方使いの……」「森人の血が入ってる……」
カエルは聞こえないふりをした。ここに来る前から、こういうものだと知っていた。辺境で浴びた視線と同質だ。ただ、ここでは露骨な言葉より、距離で示される。
精霊学の講義を終え、食堂に向かった。昼どきの食堂は混み合い、長机に学生たちがひしめいている。カエルは壁際の空いた席にルーナと向かい合って座った。
ルーナは温かいスープを両手で包むように持ち、小さく息を吹きかけていた。十一歳。まだ体が小さく、周囲の学生たちの中に混じると余計に幼く見える。
「美味しい?」
ルーナが微かに頷いた。言葉はまだ断片的だが、表情は豊かになってきていた。
そのとき、隣の長机から声が飛んだ。
「なあ、森人の耳の子がいると飯がまずくなるんだが」
人間族の学生が三人、こちらを見ていた。もじゃもじゃの赤毛の男が中心にいて、両隣の二人がにやにやと笑っている。
「混血の化け物に、耳の尖った妹か。揃いも揃って気味が悪い」
カエルはスープの椀を置いた。指先に力が入る。しかし──動かなかった。ここで暴力を振るえば、マグヌスに迷惑がかかる。母の教えが胸を過る。「力は守るためにある」。
「無視かよ、化け物」
赤毛の学生が椅子を蹴って立ち上がった。何かを言おうとしたとき──カエルはルーナの手が震えているのに気づいた。
ルーナが俯いていた。唇を噛み、目に涙が滲んでいる。
次の瞬間、テーブルの上の水が動いた。
ルーナの前に置かれたスープが波立ち、隣の長机の水差しが揺れ、赤毛の学生の前の杯がひっくり返った。水が学生の膝に溢れ、びしょ濡れになった男が悲鳴を上げた。
「うわっ──! なんだ!?」
食堂中の視線が集まった。赤毛の学生が慌てて立ち上がり、水を振り払う。周囲の水──杯の水、水差しの水、窓辺に飾られた花瓶の水──すべてがわずかに揺れていた。
カエルはルーナの手を見た。妹の小さな手が、無意識にテーブルの縁を握りしめている。その指先に微かな光──精霊魔法の残滓が消えかけていた。
ルーナ自身が驚いた顔をしている。自分が何をしたのか、わかっていない。
赤毛の学生がルーナを睨んだ。だが──カエルが静かに立ち上がったとき、三人の学生は顔色を変えた。体験入学の日の、あの風の刃を覚えていたのだろう。木製人形を一瞬で切断した精密さを。
何も言わなかった。ただ立ち上がって、ルーナとの間に立っただけだ。
三人は舌打ちをして背を向け、食堂を出ていった。
カエルはルーナの隣に座り直した。妹の震えがまだ止まっていない。
「大丈夫か」
ルーナが顔を上げた。涙の跡があったが、目の奥に怯えだけでなく──自分が何かをしたことへの戸惑いが浮かんでいた。
「……わたし、何かした?」
「水を動かした。精霊魔法だ」
ルーナが自分の手を見つめた。
「お前には才能がある」
カエルはルーナの頭にそっと手を置いた。母もこうしてくれた。妹の髪は母と同じ銀色で、指に絡むと柔らかい。
「怖がらなくていい。俺がいるから」
ルーナの目からまた涙が溢れた。だが今度は、怯えではなく、別の感情が含まれているようだった。食堂の喧騒が戻ってくる中、カエルは妹が泣き止むまで隣にいた。
その日の夕方、食堂でのことがマグヌスの耳に入った。
「嫌がらせか。……申し訳ない、私が手を回しておくべきだった」
マグヌスの目が暗くなった。それは怒りだった。翌日から、赤毛の学生たちは姿を見せなくなった。嫌がらせは露骨なものが消え、代わりに遠巻きの沈黙だけが残った。
三日後の朝、ルーナが食堂でカエルの隣に座り、小さく笑った。
「兄さん、ありがとう」
はっきりとした声だった。
カエルの胸の奥で、何かが緩んだ。この街に来て初めて、来てよかったと思った。




