石畳の街
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馬車が最後の坂を越えたとき、潮の匂いがカエルの鼻を突いた。
テセラ海だ。陽光を弾く紺碧の水面が、丘の向こうに途方もなく広がっている。辺境の森で見た小川とも、山あいの湖とも違う。風が運ぶ塩気と、湿った空気の重さが、ここが別の世界であることを肌に刻んだ。
「見えてきましたよ」
手綱を握るマグヌスが穏やかに言った。
丘を下る石畳の道の先に、白壁の街が広がっていた。ヘスペリア。東方教会の庇護のもとで発展した、大陸屈指の学術都市。
カエルは十三歳になっていた。
五年前、母を失い辺境村を離れてから、マグヌスのもとで基礎を叩き込まれた。読み書き、魔法の基礎理論、古代語の文法。旅の合間に師匠が与える課題を、カエルはひとつも落とさなかった。ルーナを守るために強くなる──その一念だけが、五年間の杖だった。
隣に座るルーナが、身を乗り出した。十一歳。まだ失声の名残があり、言葉は短い。だが辺境を出た頃に比べれば、表情に色が戻っている。
「……大きい」
ルーナの呟きに、カエルは頷いた。
街は想像を超えていた。白い石灰岩の建物が丘の斜面に段々と連なり、頂上には巨大な図書館の塔が蒼穹を突く。回廊と回廊を結ぶ渡り廊下が街を覆い、その下を多種族の学生たちが行き交っている。人間族、森人族、地底族──辺境村では見たこともない種族の姿がある。
通りの一角では、空中に浮かぶ光球のもとで術式の実演が行われていた。別の広場では、聖堂の尖塔を背景に、白い法衣をまとった神官たちが歩いている。
「ここが私の大学だ」
マグヌスが馬車を停め、二人を振り返った。日焼けした顔に、深い皺が刻まれている。だがその目は温かい。
「東方教会の管轄でね。精霊学も神格構造学も自由に研究できる。西方ルクスのように、片方だけに縛られることはない」
精霊学──アルカナ。神格構造学──テウルギア。カエルは両方の系統を使える。それが辺境では「異端の証」だった。ここでは違うのだろうか。
マグヌスの研究室は、大学の東棟にあった。三階建ての石造りの建物で、一階が居住空間、二階が書庫と研究室、三階が実験場になっている。
「ルーナの部屋はこちらだ」
マグヌスが二階の奥の扉を開けた。窓辺に紫の野花が飾られ、柔らかな麻のカーテンが風に揺れている。小さな机、本棚、清潔な寝台。辺境の粗末な小屋とは比べものにならない。
「……ありがとう、ございます」
ルーナが小さく頭を下げた。声がかすれていたが、言葉になっていた。マグヌスの目が一瞬だけ潤み、すぐに穏やかな笑みに戻った。
「花は好きかい? 庭にたくさん咲いているから、好きなものを飾るといい」
ルーナが微かに頷くのを見て、カエルの胸に温かいものが広がった。この五年間、ルーナの笑顔は両手で数えるほどしか見ていない。この街で、妹が少しでも安らげるなら──。
カエルの部屋は隣だった。質素だが十分で、窓から港が見える。荷を降ろし、廊下に出たとき、突き当たりの扉が目に入った。
重い樫の扉に、鉄の錠前がかかっている。研究棟の保管室に似た造りだった。
「あそこは共同の封印資料庫だ。許可者以外は出入りできない」
背後からマグヌスの声がした。振り返ると、師はいつもの穏やかな表情で説明を続けた。
「危険物というより、管理手続きの問題だよ。大学規定で施錠が義務づけられている」
「わかりました」
カエルは頷いた。
翌朝、マグヌスに連れられて大学の正門をくぐった。
石の門柱に東方教会の紋章が刻まれ、その下を学生たちが流れていく。カエルが門をくぐった瞬間、いくつかの視線が集まった。
森人族の特徴を持つ耳──先端がわずかに尖り、人間族よりも長い。だが目の色は人間族の琥珀。肌の色も、純粋な森人族の白磁とは違う。
混血。
その言葉が、視線の中に透けて見えた。辺境村で浴び続けた、あの視線と同じだ。
「気にすることはない」
マグヌスが前を向いたまま言った。
「お前の価値は、お前自身が証明すればいい」
カエルは唇を引き結んだ。そうだ。母もそうしていた。森人族の血を引きながら、人間の学術世界で研究者として立っていた。
母さんにできたことが、俺にできないはずがない。
「明日、体験入学を手配してある」
マグヌスが歩きながら告げた。
「お前の力を、大学に見せる時が来た」




