母の旧友
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村人たちが事態を知ったのは、朝になってからだった。
最初に気づいたのは隣家の老婆だった。裏庭で水を汲もうとして、シルヴィアの家の前に横たえられた——血まみれの身体を見つけた。
悲鳴。人が集まる。長老が来る。女たちが口元を押さえ、男たちが踵を返す。
カエルは家の中から、それを見ていた。窓越しに。
誰も——中に入ってこなかった。
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長老が戸口に立った。白い髭をした痩せた老人。目が——曇っている。
「カエル。何があった」
「母が——殺されました」
「誰に」
「わかりません」
長老は沈黙した。しばらく戸口に立ったまま、何かを考えている。そして——
「墓は掘ってやる。しかし——長くは面倒を見られん」
それが、村の返答だった。
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母を埋葬した。
村の外れの、楢の木の下。七歳の秋にルーナと登った木。母がその下で本を読んでいた木。
穴を掘ったのは長老と、隣家の老婆の夫だった。カエルが一人で掘ろうとしたが——八歳の手では鉄鍬が重すぎた。長老が無言で鍬を取り上げ、代わりに掘った。
母の身体を降ろし、土をかけた。
ルーナは墓穴の縁に立ち、目を見開いて見ていた。声は出ない。涙も出ない。ただ——見ていた。母に土がかかっていくのを。銀に近い髪が、最後に一房だけ土から覗いて——そして消えた。
カエルは古代語で祈った。母が教えてくれた言葉。分化以前の祈り。微念でも精霊語でもない、原初の言葉で——母の魂が安らかであるように。
祈りの間、微精霊たちが墓の周囲に集まった。ルーナの微精霊親和力に引かれるように——小さな光の粒子が、墓の上をゆっくりと漂った。
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その日から、カエルは一人で全てをやった。
朝、起きる。水を汲む。薪を割る——斧が重い。鍬を振るう——手が豆になる。食事を作る——母のように香草を使うことはできない。塩と粥。干し肉。それだけ。
ルーナに食べさせる。妹は口を動かさない日がある。スプーンを唇の前に持っていくと、ようやく僅かに口を開ける。食べているのか飲み込んでいるだけなのか、判断がつかない。
洗濯をする。繕い物をする。母がやっていたことを、見様見真似で。
夜、ルーナを寝かしつける。古代語の子守唄を歌う。母の旋律を、できるだけ正確に。ルーナが目を閉じるまで、手を握っている。
一人になると——泣いた。
初めて泣いたのは、母が死んだ三日目の夜だった。それまでは泣けなかった。泣く暇がなかった。ルーナの世話と、家事と、埋葬と——やることが多すぎて。
三日目の夜。ルーナが眠った後。居間の机に突っ伏して——涙が出た。
声を殺して泣いた。ルーナを起こすまいと。手のひらを口に当て、嗚咽を噛み殺す。肩が震え、背中が丸まり、涙が机の上に落ちて木目に染み込む。
手の中で——古代語の石が光っていた。母がくれた、お守りの石。渦巻き模様が淡い金色に光り、掌に温もりを落としている。
その温もりだけが——夜の中の灯だった。
今はただ——明日を生き延びること。ルーナに食べさせること。朝が来ること。
しかし——心の底に、灰色の炎が燻り始めていた。まだ形にならない。まだ名前のない感情。
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母の死から五日が経った。
朝。いつものように水を汲みに出た時——村の入り口に、一台の馬車が止まっていた。
見たことのない馬車だった。辺境村に馬車が来ること自体が珍しい。交易の荷車は時折通るが、人を乗せるための馬車は——ほとんどない。
馬車の扉が開いた。
男が降りた。
中年の人間族の男。背が高い。痩せ型だが、骨格はしっかりしている。灰色がかった髪。整えられた顎髭。黒い外套を羽織り、その下に質の良い旅装。
しかし何より——目。
穏やかな目だった。深い知性を湛えた、温かい目。学者の目。教師の目。「この世界の仕組みを理解し、それを伝えることが自分の使命だ」と信じている者の目。
男がカエルの方を見た。
「お前が——カエルか」
カエルは水桶を持ったまま立ち尽くした。
「誰ですか」
「マグヌス。シルヴィアの——お前たちの母の友人だ」
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男は戸口に立ち、帽子を取って頭を下げた。
「入っても——いいかね」
男の物腰は、本当に穏やかだった。
居間に入ると、マグヌスは母の椅子を見て足を止めた。椅子の背もたれに、母の上着がかけてある。カエルは片づけられなかった。その匂いが——まだ残っているから。
「シルヴィアが……」
マグヌスが呟いた。
声が——震えていた。
「そうか……。遅すぎた」
男の目に涙が浮かんだ。大きな手で顔を覆い、数秒——無言で立っていた。肩が微かに揺れた。
マグヌスの涙は、母の死を知った友人の涙に見えた。喪失の涙。悔恨の涙。間に合わなかったことへの悔い。
「母さんを——知ってるんですか」
「ああ。二十年以上前に、一緒に研究をしていた。彼女は——最も優秀な学者の一人だった」
マグヌスが手を下ろした。赤くなった目で、カエルを見た。
「お前は——シルヴィアによく似ている。目が」
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ルーナが居間に来た。
扉の陰から、半分だけ顔を出していた。手に銀の髪飾り。口は閉じたまま——声は出ない。
マグヌスが膝を折った。ルーナの目線に合わせて。
「ルーナ、だね」
ルーナは答えない。答えられない。しかし——マグヌスの穏やかな気配に、微かな反応を見せた。
失声後、ルーナはカエル以外の人間に近づこうとしなかった。長老が食事を持ってきても、隣家の老婆が声をかけても、ルーナは壁際に身を縮めるだけだった。
しかしマグヌスに対しては——手を伸ばした。
小さな手。震える指。マグヌスの大きな手のひらに、六歳の指先が——触れた。
マグヌスが微笑んだ。穏やかに。温かく。
カエルは——その微笑みに、少しだけ安堵した。
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「この子たちを——私が引き取りたい」
マグヌスの提案は、村長の前で行われた。
「ヘスペリアの大学で面倒を見よう。シルヴィアは——優秀な同僚だった。彼女の子供たちを路頭に迷わせるわけにはいかない」
村長が安堵の顔を見せた。隠しきれない安堵。混血の孤児を抱える負担から解放される安堵。
「ありがたいことです。この村では——正直、二人を養うのは難しい」
カエルは黙って聞いていた。
選択肢がないことは理解していた。村に残っても、いつか追い出される。長老の言葉——「長くは面倒を見られない」——は、優しさの限界を正直に示したもの。この村に、カエルとルーナの居場所はない。
マグヌスか。今は差し伸べられたその手を取るしかなかった。
「……行きます」
カエルが言った。
マグヌスが頷いた。
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出発の朝。
カエルは母の墓に立った。
楢の木の下。土が新しい。草がまだ生えていない。墓標は——カエルが古代語で刻んだ石を立てた。「シルヴィア ここに眠る」。八歳の手で刻んだ不揃いな文字。
片手に古代語の石を握っている。もう片手は——ルーナの手を握っている。
「母さん」
声に出した。ルーナに聞こえるように。ルーナは声が出ない。だからカエルが二人分、語りかける。
「行ってくる。ヘスペリアに——母さんの知り合いの人と」
風が吹いた。楢の木の枯れ葉が一枚、墓の上に落ちた。
「必ず見つける。母さんを殺した奴を」
八歳の声で。震えない声で。
ルーナの手を——強く握った。妹は何も言わない。言えない。しかし——握り返す力があった。微かな、しかし確かな力。
「行こう、ルーナ」
背を向けた。
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マグヌスの馬車に乗った。
木造の箱型。中は質素だが清潔で、座席に毛皮の敷物が敷かれている。書物が数冊、網棚に載っている。学者の馬車。
ルーナがマグヌスの隣に座った。マグヌスが膝掛けをルーナにかける。ルーナが——そのまま、マグヌスの膝に寄りかかった。目を閉じた。
失声後、ルーナが誰かに身を預けたのは——カエル以外では初めてだった。
マグヌスの大きな手が、ルーナの頭にそっと置かれた。
「安心しなさい。もう——大丈夫だから」
穏やかな声。温かい手。
カエルは向かいの座席から、その光景を見ていた。妹が穏やかに眠り始めている。数日ぶりの、安らかな眠り。
——大丈夫だ。
温かい微笑み。穏やかな目。
その穏やかさを見て、カエルはようやく息を吐いた。疲労と悲しみと安堵が一気に押し寄せ、肩から力が抜ける。
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馬車が動き出した。
辺境村が遠ざかる。石畳の道が、未舗装の街道に変わる。鉄背山脈の稜線が、窓の外でゆっくりと左に流れていく。
カエルは窓越しに、村を見ていた。小さな集落。母と暮らした場所。ルーナが生まれた場所。古代遺跡がある森。全てが——小さくなっていく。
手の中の古代語の石が、微かに温かい。
いつか——戻る。
いつか——見つける。
母を殺した者を。
馬車が鉄背山脈を越え、西に向かう。新しい世界が待っている。
しかし——背中に残るのは、失ったものの重さだけだった。




