声を失くした日
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森は戦場だった。
カエルが飛び込んだ時、最初に目に入ったのは——薙ぎ倒された木々だった。腕の太さほどもある楢の木が根元から折れ、大地を抉るように横倒しになっている。地面に焦げ跡。精霊魔法の残滓が空気中を漂い、青白い光の粒子が雪のように降り注いでいる。微精霊たちが乱れている。恐怖と怒りが入り混じった振動。
匂い。焦げた土と——血の匂い。
その中心に母がいた。
シルヴィアは片膝をついていた。右腕が不自然な角度で垂れている——切り傷。深い。肘から手首にかけて、衣の袖が赤黒く染まっている。左手だけで精霊魔法の結界を維持し、三つの人影と対峙している。
三つの黒い人影。フードを被り、顔が見えない。うち一人が地面に倒れている——足が砕けた状態。残りの三人のうち、前方に立つリーダー格が白い光を纏った短剣を構えている。教会魔法の聖別。刃が微念の光を帯びて、闇の中で冷たく輝いている。
「母さん!」
叫んだ。声が割れた。
シルヴィアが振り返った。
母の目が——一瞬だけ、恐怖に見開かれた。来てほしくなかった。来るなと言えなかった。来ることはわかっていた。全てが——母の表情に凝縮されている。
「来ちゃだめ——!」
母の声。しかし遅い。カエルはもう走り出していた。
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リーダー格がカエルに気づいた。フードの奥で目が動く。
「子供か」
低い声。感情のない声。観察し、判断し、行動する——訓練された殺し手の声。
カエルは走りながら教会魔法を紡いだ。右手に微念を集め——不完全な結界を展開する。白い光の膜がカエルの前方に広がり、盾のような形を取る。
リーダー格の短剣が結界を叩いた。
砕けた。
八歳の微念で紡いだ結界は、訓練された術者の一撃に耐えられない。白い光が飛沫のように散り、衝撃がカエルの腕を貫いて身体全体を揺さぶる。
しかし——一瞬だけ時間を稼いだ。
その一瞬で、カエルは左手を振った。精霊魔法の衝撃波。圧縮した空気の塊が、リーダー格の胸に叩き込まれる。
リーダー格が——半歩、後退した。
たった半歩。八歳の精霊魔法の衝撃波は、大人の戦闘術者にとって「鬱陶しい」程度の威力。しかしカエルは止まらなかった。右手で微念の結界、左手で精霊魔法の衝撃波——交互に、休みなく。攻撃と防御を同時に。両系魔法の原始的な戦闘形。
二人目の実行犯がカエルの側面から回り込んできた。手に持った杖から、教会魔法の光が放たれる。白い光弾——微念を圧縮した射撃魔法。
避けられなかった。
咄嗟に——身体が覚えていた。昨日母に教わったばかりの古代語が、喉から零れた。「トゥテーリス・アニマ」。金色の膜が一瞬だけ身体を覆い——しかし防護壁は完成しなかった。恐怖で集中が途切れ、微念と微精霊の溝が崩れる。金色の光が弾け散り、光弾がカエルの脇腹を掠めた。衣が裂け、皮膚が焼ける。防護壁が不完全でも、直撃を逸らす程度の効果はあった——しかし痛みが脳を白く染め、膝が折れた。
「カエル!」
母の叫び。
三人目の実行犯が、倒れかけたカエルの首を掴み、持ち上げた。大人の手が八歳の首を横から掴む。呼吸が止まる。足が地面を離れた。
投げられた。
身体が宙を舞い、木の幹に叩きつけられた。背骨に衝撃が走り、肺の空気が全て吐き出される。地面に崩れ落ちる。視界が回る。
しかし——意識は途切れなかった。
倒れたまま、地面に頬をつけたまま——母の方を見た。
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シルヴィアは立ち上がっていた。
片膝からだった右足を踏みしめ、左手を天に向かって突き上げた。精霊魔法の——カエルが今まで見たことのない規模の魔法。
地面が割れた。
シルヴィアの周囲十数メートルの土が一斉に隆起し、木の根が地中から突き出して実行犯を薙ぎ払う。風が渦を巻き、枯れ葉と土塊が水平に吹き飛ぶ。精霊魔法の本領——森人族が森と一体になった時の力。
リーダー格が教会魔法の障壁で凌ぐ。しかし二人目が根に足を取られ、三人目が風で吹き飛ばされる。
その隙にシルヴィアが動いた。カエルの方へ——走る。右腕は使えない。左手だけで結界を維持しながら。
カエルの元にたどり着いた。
膝をついた。
「大丈夫? 立てる?」
「……母さん、逃げよう」
「だめ。逃げられない。でも——」
母が左手でカエルの額に触れた。
「あなたは——守れる」
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精霊語の詠唱が始まった。
シルヴィアが最後のマナを振り絞り、精霊魔法の結界を紡ぐ。しかしこれは通常の結界ではなかった。
隠蔽の膜。
カエルの身体を覆うように、透明な光の膜が広がる。微精霊が膜の内側に集まり、カエルの気配を——匂いを、体温を、マナの反応を——全て遮断する。外からは、ただの倒木の影にしか見えなくなる。
「動かないで。何があっても」
「母さん——」
「約束して。動かないで」
カエルは母の目を見た。
母の目は——もう泣いていなかった。全ての涙を流し尽くした後の、乾いた決意。
「……約束する」
「いい子ね」
母が立ち上がった。
背を向けた。
リーダー格が再び歩み寄ってくる。白い短剣の光が、闇の中で冷たく揺れている。残りの実行犯も態勢を立て直し、三方向からシルヴィアを囲む。
シルヴィアは——左手を上げた。最後の精霊魔法。風の壁。しかしマナはもうほとんど残っていない。壁は薄く、脆く、リーダー格の一撃で砕けた。
母が——膝をついた。
力が尽きた。
リーダー格が短剣を振り上げた。
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カエルは隠蔽の膜の中から見ていた。
動けなかった。約束したから——ではない。身体が動かなかった。脇腹の痛み。背骨の衝撃。そして何より——恐怖。八歳の身体と心に、目の前で起きていることが重すぎた。
母が——手を伸ばした。
カエルの結界の方に。隠蔽の膜を通して、母の手が見える。細い指。血に濡れた指。その指がカエルに向かって伸びている——しかし、膜に阻まれて触れることができない。
母の唇が動いた。
「……ごめんね」
声は聞こえなかった。息だけの言葉。しかし唇の形で読めた。
「ルーナを——守って」
短剣が落ちた。
音は——聞こえなかった。
聞こえたはずだが——カエルの記憶には、その瞬間の音が刻まれていない。視覚だけが焼きついている。母の身体が、ゆっくりと前に傾く。膝が地面につく。上半身が倒れる。髪が広がる。銀に近い長い髪が、黒い土の上に月明かりを受けて光る。
母の手が——地面に落ちた。
伸ばしていた手が、力を失って、地面に。
指が——開いたまま。
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実行犯たちが動いた。リーダー格が周囲を見回す。カエルは隠蔽の膜に包まれて見えない。フードの奥の目が——暗闇を探る。
「子供は」
「消えた。結界に隠されたか」
「探すか」
「不要だ。目的は達した。あれは女だけが知っている。撤収」
四つの影——足を砕かれた一人を含めて——闇の中に消えた。足音が遠ざかる。枝を踏む音。そして——静寂。
森が静まった。
微精霊たちが——泣いている。風が嘆くように木々の間を吹き抜け、枝が互いにぶつかって軋む音を立てる。
隠蔽の膜が、ゆっくりと溶けた。母のマナが尽きたから——結界を維持する力がなくなったから。透明な膜が光の粒子になって散り、カエルの身体が夜の空気に晒される。
動いた。
這うように。脇腹が痛い。背中が痛い。しかし——動いた。手と膝で地面を掻き、母の方へ。
母の身体に辿り着いた。
仰向けに転がした。
シルヴィアの目が——開いていた。月を見ていた。しかし——瞳に光がなかった。虹彩の奥の、命の温度が消えている。
「母さん」
声が出た。掠れた声。
「母さん——」
抱きしめた。頭を膝に載せ、頬に触れた。まだ温かい。まだ——温もりが残っている。しかし、その温もりは——もう新しくならない。放射されるだけで、補充されない熱。冷えていくだけの温もり。
「母さん。起きて。母さん——」
返事はなかった。
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背後から——足音。
小さな足音。
振り返った。
ルーナが立っていた。
裸足。銀の髪飾りを、胸の前で握りしめている。目が——大きく見開かれている。
ルーナの視線が——カエルの腕の中の母を捉えた。
一秒。
二秒。
ルーナの口が——開いた。
絶叫。
世界が割れるような声だった。人間の声ではなかった。六歳の喉から放たれるはずのない——原初的な悲鳴。森全体がそれに共鳴した。木々が軋む。枝が折れる。微精霊たちがルーナの悲しみに共振して暴走し、風が渦を巻き、落ち葉が竜巻のように舞い上がる。
精霊魔法の暴走。ルーナの微精霊感応力が、抑えきれない悲しみに反応していた。
木の幹に亀裂が走った。大地が震えた。風が唸り、カエルの身体を押し倒そうとする。ルーナの叫びが続く。続く。続く。息を吸う隙間もなく——ただ、叫び続ける。
カエルは母の身体を地面に横たえた。
立ち上がった。脇腹の痛みが意識を遠ざけようとする。背中が軋む。しかし——立った。
ルーナの方へ歩いた。
風が顔を打つ。微精霊の嵐が皮膚を切る。ルーナの悲しみが——物理的な力になっている。
カエルは右手を胸の前に置いた。
教会魔法の微念を紡いだ。
白い光が手のひらに灯る。微念——人の意志が生む光。信仰ではなく、今はただ——妹を守りたいという意志。
その光をルーナに向けた。
微念がルーナの周囲に広がった。白い光がルーナの暴走する微精霊に触れ——争わず、対立せず——静かに浸透していく。微念と微精霊の間に、和解の振動が走る。
カエルの教会魔法の微念が——ルーナの精霊魔法の暴走を鎮める。
二つの系統が——人を守る形で共鳴した。
白い光と青い光が、ルーナの周囲で螺旋を描き、融合し——一瞬だけ、金色に光った。原力の残響。二つの力が争わずに出会い、一つになった瞬間。
風が止んだ。
落ち葉が——ゆっくりと、地面に降り積もる。
ルーナの絶叫が——途切れた。
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沈黙。
ルーナは口を開けたまま、立っていた。
声が——出ない。
口が動いている。唇が震え、喉が収縮し、舌が音を形作ろうとしている。しかし——音が出ない。空気だけが漏れる。
声を——失った。
ルーナの目から涙が溢れた。声なき涙。叫びたいのに叫べない。呼びたいのに呼べない。「お母さん」と言いたいのに——唇が形だけを動かし、音が出ない。
カエルがルーナを抱きしめた。
「ルーナ」
妹の身体は震えていた。細い骨が——腕の中でガタガタと揺れている。
「俺がいる。俺がいるから」
ルーナが兄の胸に顔を埋めた。声は出ない。しかし嗚咽の振動だけが——カエルの胸骨を通じて伝わってくる。
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空が白み始めていた。
東の稜線が薄い紫に染まり、星が一つずつ消えていく。
カエルは母の身体を持ち上げた。八歳の腕で。大人の女性の身体は重い。重すぎる。膝が折れそうになる。脇腹の傷が悲鳴を上げる。
しかし——持ち上げた。
ルーナがカエルの服の裾を握った。声は出ない。ただ、裾を握って。
森の道を歩いた。母を抱えて。何度も転んだ。膝を打ち、肘を擦りむき、母の身体を落としそうになって、必死に抱え直す。二人きりの行進。裸足のルーナが、兄の隣を歩く。足の裏から血が出ている。石と枝を踏んだ傷。しかしルーナは一言も——一言も発しない。
村に着いた。
石畳の道に、朝日が差し込み始めていた。
誰もいない。まだ夜明け前。
家の前に——母を横たえた。
もう温かくなかった。
カエルはルーナの手を取り、家の中に入った。ルーナを椅子に座らせ、毛布をかけた。台所で水を汲み、ルーナの足の裏の傷を洗った。
全てを——八歳の手で。
ルーナの目が——虚ろだった。涙は止まっていた。しかし瞳に光がない。声を失い、涙を枯らし——六歳の女の子の中で、何かが壊れていた。
カエルは妹の前にしゃがみ、目を合わせた。
「ルーナ」
反応がない。
「ルーナ——俺がいる。大丈夫だから」
大丈夫ではない。何も大丈夫ではない。母は死んだ。ルーナは声を失った。カエルの脇腹には傷がある。何も——何一つ——大丈夫ではない。
しかし——言わなければならなかった。
ルーナが、わずかに頷いた。声は出ない。音のない頷き。
それだけで十分だった。
二人きりの世界。
朝の光が窓から差し込み、二人の影を床に落とした。母はもういない。声はもう聞こえない。しかし——二人はここにいる。
カエルはルーナの肩に毛布をかけ直し、窓の外を見た。
村の屋根の上に、朝日が昇り始めていた。
やがて村人たちが起き出し、事態を知るだろう。しかし——混血の孤児二人に、誰が手を差し伸べるのか。
それは——わからなかった。




