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原力の殉教者  作者: とりまな
第1章 森の遺産
16/46

母の選択

―――――――――――


* * *


 冷たかった。


 毛布の中が冷たくて、ルーナは目を開けた。


 暗い。部屋の中は真っ暗で、窓から差し込む月明かりだけが、床の上に白い四角を描いている。枕元の銀の髪飾りが——その月光を受けて、ちらりと光った。


 お母さんの髪飾り。


 ぎゅっと胸に抱きしめる。金属の冷たさが肌に触れ、少しだけ安心する。お母さんの匂いがする——ような気がした。


 何かの音で起きたのか、寒さで起きたのかはわからない。ただ——嫌な感じがした。お腹の底が、きゅっとなる感じ。夢を見ていたのかもしれない。覚えていない。でも、嫌な感じだけが残っている。


「兄さん……?」


 小さな声で呼んだ。返事がない。


 立ち上がった。裸足で床に降りる。木の床が冷たい。つま先が縮こまる。


 兄の部屋を覗いた。


 空だった。


 ベッドが乱れている。枕が落ちている。椅子が倒れている。兄さんが急いで出て行った痕跡。


「兄さん……」


 お母さんの部屋。そっと扉を開ける。


 空。


 ベッドが使われた様子がない。毛布が畳まれたまま。枕元に白い紙——手紙? ルーナには文字が読めない。


 二人ともいない。


 お腹の底の嫌な感じが、大きくなった。胸の奥までせり上がってくる。


 窓の外を見た。


 森の方角に——光が見える。青白い光が木々の上を這うように走り、消え、また走る。飛び散る星のような微精霊の光。


 何かが起きている。


 ルーナはベッドに戻った。毛布を頭まで被り、髪飾りをぎゅっと握った。お母さんの髪飾り。銀の花。


「お母さん……兄さん……」


 声が震える。涙が出そうになる。怖い。一人は怖い。お母さんがいなくなるのが怖い。兄さんがいなくなるのが怖い。


 微精霊たちが——部屋の中で騒いでいた。ルーナには見えないが、感じられる。空気が震えている。微精霊たちが恐がっている。何かを恐れて、部屋の隅に集まっている。


―――――――――――


* * *


 月が高い。


 シルヴィアは森の中を歩いていた。足音を消して。精霊魔法で風を操り、枯れ葉の音すら立てないようにしながら。


 結界の穴に向かっている。


 自分で開けた穴。村の北側、森への小道の入口。人一人が通れる隙間。そこに——彼らは集まっている。


 足を止めた。


 木の根に腰を下ろし、空を見上げた。梢の隙間から星が見える。さっき子供たちと見た空。三人で見た空。


 ——きれいな星ね。


 自分の声が、記憶の中で反響する。


 ルーナの笑顔。カエルの真剣な目。二人の手の温かさ。あの温もりが——指先にまだ残っている。


 立ち上がった。


 やることは決まっている。自分が餌になる。結界の穴に向かい、実行犯を引きつけ、可能な限り時間を稼ぐ。子供たちは——結界の内側で安全に眠っている。実行犯の目的はシルヴィアの排除。それを知るのは自分だけだから、自分さえ消えれば——子供たちには手を出さないはず。


 はず。


 その「はず」に、子供たちの命を賭けている。他に方法がない。逃げても追われる。ここに留まっても、いつか来る。村を巻き込むことはできない。


 自分が——ここで終わるしかない。


 精霊魔法のマナを身体に巡らせた。かつてエルダリスで学んだ技術。世界樹の根脈に接続し、周囲のマナの流れを読む高度な精霊魔法——ただし、ここにあるのはネットワークの末端の残滓。エルダリスの本体と比べれば微々たるものだが、それでもシルヴィアの術式を何倍にも増幅してくれる。


 深呼吸。


 母として。学者として。かつて夢を見た者として。


 最後の戦いに向かう。


―――――――――――


* * *


 毛布の下で、ルーナは震えていた。


 記憶が滲んでくる。つい今朝——いや、もう昨日のことだ——のこと。


 花畑。収穫感謝祭の前に、お母さんと三人で通った花畑。秋の花が咲いていた。黄色と紫と白。ルーナはお母さんの手を引いて、一番大きな花の前に立った。


「お母さん、これきれい!」


「きれいね。ルーナには黄色が似合うわ」


 お母さんが笑った。銀に近い髪が風に揺れて、顔の半分を隠した。その奥で——目が笑っていなかったことに、今になって気づく。


 祭りでお母さんが踊った。ルーナを抱き上げて、くるくる回った。ルーナは笑った。お母さんの腕は強くて、落ちる心配なんてなかった。


 兄さんが花冠を作ってくれた日のことを思い出す。草花を編んで、ルーナの頭に載せた。「花冠の王様だ」と兄さんが言って、ルーナは「王様じゃなくてお姫様!」と言い返した。お母さんが笑った。あの日の笑顔と、今日の笑顔は——同じだったか。


 同じだったと思いたい。


 でも——違った。


 今日のお母さんは、笑いすぎていた。声が大きすぎた。手が冷たすぎた。


 遠くで——爆発音がした。


 ルーナの身体がびくりと跳ねた。毛布の中で身を丸める。髪飾りの花弁が手のひらに食い込む。


 もう一回。もう一回。光が窓の外で弾け、影が部屋の壁を走る。


 怖い。


 怖い怖い怖い。


 お母さん。兄さん。帰ってきて。


―――――――――――


* * *


 シルヴィアは結界の穴の近くに立った。


 木の影に身を潜め、気配を殺し、待つ。実行犯は——もう来ている。穴の向こう側に、四つの人影が立っている。


 月明かりの下に出た。


 わざと——姿を見せた。


「お待ちかねかしら」


 静かな声で言った。震えなかった。もう震える段階は過ぎた。


 四つの人影が動いた。二人が前に出て、二人が左右に散る。包囲陣形。訓練された動き。傭兵ではない。教会系の戦闘術者の動き。


 一人が手を上げた。白い光——微念の光。教会魔法の聖別。刃に纏わせた聖なる力。精霊魔法の結界を貫通するための処理。


 教会魔法の使い手がいる。


 シルヴィアには——教会魔法が使えない。対処手段が根本的に欠けている。


 しかし——だからと言って、易々と死ぬつもりはなかった。


 シルヴィアが両手を広げた。精霊魔法の詠唱。森人族の戦唱として伝わる古い精霊語。圧縮された短句が連なり、術式が一気に立ち上がる。


 風が唸った。森全体が呼応するように——木々がしなり、枯れ葉が舞い上がり、大気が渦を巻く。シルヴィアの長い髪が逆巻き、足元の土が円状に裂ける。


 エルダリスの世界樹の根脈。その末端に残された記憶——微精霊の集積情報。シルヴィアはそれを呼び起こした。世界樹が記憶している戦闘術式。百年前、千年前の森人族の戦士たちが使っていた技。


 第一撃。


 風の刃が四方八方に放たれた。前方の二人が結界を張る。白い光の壁——教会魔法の障壁。風の刃がそれに衝突し、火花のように光が散る。障壁は——持ちこたえた。しかし、左右に散った二人の足元を、地面から突き出した木の根が薙ぎ払う。精霊魔法で操った植物。一人が転倒し、もう一人が跳んで避ける。


「……やるな」


 前方のリーダー格が呟いた。低い声。落ち着いた声。仕事をする人間の声。


 シルヴィアは次の術式を紡いだ。精霊語の詠唱が速度を上げる。風と水と土——三属性の精霊魔法を同時に操り、森そのものを武器にする。木が実行犯に向かって枝を振り下ろし、地面が割れ、水蒸気が視界を白く塗りつぶす。


 善戦した。


 エルダリスの学者が、戦場に立つことなど想定されていない。しかしシルヴィアは——「薬草師」の仮面の下で、二十年以上の修練を重ねていた。子供たちを守るために。いつかこの日が来ることを知っていたから。


 リーダー格の教会魔法が、シルヴィアの風の壁を切り裂いた。白い光の斬撃。微念で強化された刃が、精霊魔法の結界を紙のように貫く。


 精霊魔法だけでは——教会魔法の使い手には対処しきれない。


 それが——「二つの力の片方だけでは不十分」という、この世界の現実だった。


 シルヴィアは右腕に切り傷を負った。深い。筋肉まで達している。利き腕の術式精度が落ちる。


 しかし——止まらなかった。左手で詠唱を続ける。片腕でも、精霊魔法は使える。マナは全身に流れている。


―――――――――――


* * *


 ルーナは走り出していた。


 いつ毛布を脱いだのか覚えていない。いつ靴を履いたのか覚えていない。気づいた時には——家の扉を開け、夜の道に立っていた。


 裸足だった。靴を履いた記憶はなかった。それはルーナの思い違いで、足の裏に石畳の冷たさが直接突き刺さっている。


 森の方角に光が見える。青と白が入り乱れ、木々の上を走る。爆発音。何かが折れる音。


 お母さん。


 兄さん。


 走った。六歳の足で。石畳を蹴り、裸足のまま。足の裏が何かを踏んで痛い。痛いけど——止まれない。


 髪飾りを握りしめている。銀の花。お母さんのもの。今はルーナのもの。


 森の入り口に着いた。結界の境目。微精霊たちが——ルーナに呼びかけている。行くな。危ない。行くな。ルーナには微精霊の「声」が聞こえる。言葉ではない。感覚。肌を撫でる風の中に込められた、必死の警告。


 でも——行くしかなかった。


 森に入った。暗い。足元が見えない。枝が顔を引っ掻く。根に躓いて転ぶ。膝を打つ。起き上がる。また走る。


 光が近づく。


 音が大きくなる。


―――――――――――


* * *


 シルヴィアは限界が近かった。


 右腕は使えない。左手の精霊魔法も——マナの消耗が激しい。世界樹の根脈の末端から引き出せるマナにも限りがある。


 四人のうち一人は戦闘不能にした。木の根で足を砕いた。しかし残り三人が健在。リーダー格の教会魔法が——シルヴィアの術式をことごとく無効化する。


 膝をついた。


 血が左手の指を滑らせる。右腕から流れた血が肘を伝い、手首に回り、指先から地面に落ちる。黒い土に赤い滴。


 リーダー格が歩み寄ってくる。白い光を纏った短剣を手に。顔は——見えない。フードに隠されている。しかし体格と動きで——若い男。訓練された教会の戦闘術者。


 終わりが近い。


 しかし——まだだ。まだ、一つだけやることがある。


 シルヴィアは最後のマナを振り絞った。精霊魔法の結界——攻撃ではなく、防御。隠蔽の膜。カエルが来た時に——カエルを隠すための結界。


 カエルが来ることはわかっていた。あの子は——母を一人にしない子だ。必ず追いかけてくる。だから——せめて、あの子を見つからないようにする。


 詠唱。


 最後の力で——精霊魔法の隠蔽結界を、自分の周囲ではなく、森の入口付近に展開した。カエルが森に入った時に、自動的にカエルを覆う結界。


 リーダー格が止めの一撃に入る。


 シルヴィアは——その一瞬だけ、目を閉じた。


 カエル。あなたなら——二つの力を合わせて、お母さんにはできなかったことができる。


 ルーナを——よろしくね。


 目を開けた。


 森の向こうから——声が聞こえた。


「母さん!!」


 カエルの声。


 シルヴィアの唇が——震えた。


 ああ——やっぱり、来てしまった。


 微笑んだ。涙が——一筋だけ、頬を伝った。


 リーダー格の短剣が——振り下ろされる寸前——。



* * *

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