前夜
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深夜。
カエルは窓辺に座っていた。眠ってはいない。眠れるはずがなかった。
古代語の石を握りしめている。渦巻き模様の光が指の隙間から漏れ、膝の上に薄い金色の影を落としている。母がくれたお守り。原力の結晶のかけら。その温もりだけが——凍えそうな胸の内に、細い灯を点している。
窓の外は静かだった。
月明かりが村の石畳を白く染めている。人影はない。音もない。夜風が木々の梢を揺らし、枯れ葉が一枚、二枚と石畳の上を滑っていく。
静かすぎる。
夜は本来、音に満ちている。虫の声。梟の啼き声。森の獣が藪を踏む音。鉄背山脈から吹き下ろす風の唸り。しかし今夜は——これらが全て、極端に遠い。まるで村の周囲に見えない膜が張られ、音が外に弾かれているかのように。
精霊魔法で探った。
意識を風に乗せ、微精霊に周囲の気配を聞く。村の結界——母が張った感知型の結界——が、微かに震えている。外からの圧力。複数の人間の気配が、結界の外縁に沿って動いている。
三つ。いや、四つ。
村を囲むように——等間隔に。
そして——結界の穴。村の北側、森に続く小道の付近に母が意図的に残した隙間。そこに向かって、気配が収束し始めていた。
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心臓が喉の奥まで持ち上がった。
立ち上がった。椅子が倒れ、床に低い音を立てた。ルーナを起こさないように——しかし急がなければ。
廊下に出た。母の部屋に向かう。扉を開けた。
空だった。
ベッドは——使われた形跡がない。枕が整えられ、毛布が畳まれている。母は最初から寝るつもりがなかったのだ。
枕元に、何かが置かれていた。月明かりに照らされて白く浮かぶ——手紙。カエル宛の手紙。さっき母が「引き出しの奥にある」と言ったもの。それが枕元に移されている。
母は——もう出発した後だ。
部屋の空気に、微かな薬草の匂いが残っている。母の匂い。つい先刻まで、ここにいた証拠。まだ温もりすら消え切っていない。
「母さん——」
声が廊下の闇に吸い込まれた。
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隣の部屋でルーナが丸くなっている。毛布を胸まで引き上げ、銀の髪飾りを握りしめたまま眠っている。口元が微かに動いている——寝言か、寝息か。
起こしてはならない。
ルーナを巻き込んではならない。母が自分一人で向かったのは——子供たちを遠ざけるためだ。
しかし——。
母を一人にしてはいけない。
カエルの頭の中で——記憶が走った。
結界の穴。母が意図的に残した隙間。偵察者の蹄跡。教会魔法の使い手を含む複数の気配。
全てが——一直線に繋がった。
母は知っていた。誰かが自分を殺しに来ることを。そして——結界に穴を開け、自分を餌にして、子供たちを守ろうとしている。自分さえ消えれば、子供たちには手を出さない——そう計算した上で。
母は——死ぬつもりだ。
膝が笑った。壁に手をつき、身体を支えた。喉の奥から酸っぱいものがこみ上げる。
行かなければ。
今すぐ。
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靴を履く手が震えた。紐を結ぶ指が滑る。三度目でようやく結べた。
ルーナの部屋を最後に見た。眠っている。安らかに。何も知らずに。
ごめん、ルーナ。すぐ戻る。
——すぐ、戻るから。
家の扉を開け、夜の空気に踏み出した。冷たい。秋の終わりの夜風が頬を刺す。石畳が月明かりに光り、道が白い川のように村の奥へ続いている。
走った。
村の北側、森への小道に向かって。足音が石畳を叩く。八歳の足で、全力で。
結界を抜けた。母が張った感知型の結界の内側から外側へ——穴を通らず、正面から。結界は中から出る者を止めない。しかし跨いだ瞬間、カエルの全身に圧力がかかった。結界の外には——重い気配が充満している。
森に入った。
木々の間を走る。枝が顔を打ち、根が足を引っかける。暗い。月明かりが梢に遮られ、足元が見えない。精霊魔法で微精霊に頼み、風を足元に集めて障害物を避ける。膝を擦った。手のひらが木の幹にぶつかって皮が剥けた。痛みは——感じなかった。
走る。
ただ走る。
そして——光が見えた。
森の奥。木々の隙間から漏れる、青白い閃光。精霊魔法の光。母の魔法。
同時に——爆発音。木が軋み、折れる音。鳥が悲鳴を上げて飛び立つ。精霊魔法の残滓が風に乗って顔にぶつかる。微精霊が乱れている。恐怖の気配——微精霊たちが何かを恐れている。
もう一度——閃光。今度は白い光が混じっている。教会魔法の聖別の光。母のものではない。母には教会魔法は使えない。
つまり——相手は教会魔法の使い手を含んでいる。
走る足が速くなった。枝を掻き分け、藪を飛び越え。
「母さん!!」
叫んだ。声が森の闇を裂いた。
その先に——光と影が入り乱れる空間が見えた。精霊魔法で薙ぎ倒された木々。根こそぎ引き抜かれた大木。地面に走る焦げ跡。
その中心に——母の姿。
そして——複数の黒い人影。




