遺言
―――――――――――
母がカエルの部屋に入ってきたのは、夜が最も深くなる時刻だった。
ルーナの寝息が壁越しに聞こえる。規則正しい吐息。安心しきった六歳の眠り。カエルは窓辺の椅子に座り、膝の上で古代語の石を転がしていた。渦巻き模様が微かに光り、手のひらに温もりを落としている。
扉が開く音。
振り返ると、シルヴィアが立っていた。ランプを持っていない。月明かりだけが廊下から差し込み、母の輪郭を白く浮かべている。
「起きてたの」
「……眠れなくて」
「そう」
母が入ってきた。扉を閉め、カエルのベッドの端に腰を下ろした。スプリングが軋む。沈黙が落ちた。
母の横顔を見た。涙の跡が乾いた頬。目の下の隈。しかし目そのものは——静かだった。嵐の後の水面のように、全てが沈殿した後の透明さ。
覚悟を決めた人間の目だ、とカエルは思った。
―――――――――――
母が切り出す前に——記憶が蘇った。
今朝、遺跡に向かう前のこと。母が台所で朝食を準備している間、カエルは居間の机を片づけていた。その時——母の書きかけの手紙が、机の上に残されていた。
本来なら母は書類を出しっぱなしにしない。暗号メモも、研究の走り書きも、必ず引き出しの奥に仕舞う人だ。それが今朝は——急いでいたのか、あるいは動揺していたのか——手紙が一枚、開いたまま机に置かれていた。
宛先は暗号化されていて読めなかった。しかし本文の一部が見えた。走り書きの文字。インクが乾ききっていない。
——いつか真実を知る者へ。私の発見をここに記す——
その先は手紙が折り畳まれていて見えなかった。
カエルは手紙に触れなかった。しかし「真実を知る者へ」という書き出しが引っかかった。母が何を書こうとしているのか、カエルは知らない。
その記憶が今、暗い部屋の中で蘇った。
「母さん」
「なに」
「今朝——机に手紙が出てたんだけど」
シルヴィアの呼吸が、一瞬止まった。
「誰に宛てた手紙なの?」
月明かりの中で、母の瞳孔が揺れるのが見えた。怯えに近い反応。
「……学会の知人よ」
「それだけ?」
「もう——この村には関係ないことよ」
母の声は平坦だった。感情を消した声。手紙の内容を問い詰めるべきだと思った。しかし母の表情があまりに悲しかった。唇が引き結ばれ、眉間に深い皺が刻まれている。問い詰めれば——母が壊れる。そう感じた。
カエルは口を閉じた。
―――――――――――
沈黙が続いた。月が窓の外を移動し、光の角度が変わる。母の顔の右半分に影が落ちた。
シルヴィアが膝の上で手を組み直した。何かを決めるように。
「カエル」
「うん」
「机の引き出しの、一番奥に——あなた宛の手紙が入っているの」
心臓が跳ねた。
「俺宛の?」
「まだ開けてはだめ。お母さんが——いなくなったら、読んで」
「いなくなったら」。
言葉が胸に落ちて、冷たく沈んだ。胃の底に石を飲み込んだような感覚。
「母さん——どこかに行くの?」
「行かないわよ」
嘘だ。
今日一日、母は嘘をつき続けている。遺跡の封印。祭りでの笑顔。星空の下の言葉。全てが——別れの準備だった。
「念のためよ。もしもの時のために残してあるだけ」
母の声は落ち着いていた。しかしその落ち着きが不自然だった。感情を押し殺しているのではなく、もう泣き尽くした後の——枯れた静けさ。
―――――――――――
そして——母は語り始めた。
声が変わった。教師の声でも、薬草師の声でもない。これから死ぬかもしれない人間が、残された時間で最も重要なことを伝えようとする声。
「もし明日以降——お母さんがいなくなっても、慌てないで」
「母さん——」
「聞いて。最後まで聞いて」
カエルは口を閉じた。母の目が、真っ直ぐにこちらを見ている。
「遺跡に行きなさい。封印は——あなたにしか解けないようにしてある。あそこに全てがある。お母さんの研究も、あなたへの手紙も」
「手紙って——さっきの?」
「別のものよ。もっと長い。もっと大切な」
シルヴィアの手が、カエルの膝に触れた。冷たい指先。しかし力は込められている。
「ルーナを守ってね」
「……わかってる」
「あの子は繊細だから。強く見えても——心は脆い。でもね、カエル」
母の声が僅かに柔らかくなった。
「あの子がいれば、あなたは一人じゃない。二人なら——どこでも生きていける」
ルーナの寝息が壁越しに聞こえた。規則正しく。安らかに。何も知らずに。
「二人で生きろって——言ってるの?」
「念のためよ」
同じ言葉。しかし二度目は、嘘の膜が薄くなっていた。
―――――――――――
月が窓の上縁に差しかかる頃——母の言葉が核心に触れた。
「お母さんは——間違いを犯したの」
声が低くなった。石室で「忘れられた力」について語った時と同じ声。
「取り返しのつかない秘密を知ってしまった。知るべきではなかったのかもしれない。でも——知ってしまったものは、もう知らなかったことにはできない」
「それが——あの暗号メモの中身?」
「その通り」
シルヴィアが目を閉じた。長い呼吸。吐き出す息が、月明かりの中で白く曇った。秋の終わりの夜は冷える。
「でもね、カエル」
目を開いた。濡れた目。しかし涙は流れていない。
「知識は罪じゃない」
言葉が——祈りのように響いた。
「知った上でどうするかが大事なの。隠すのか、独り占めするのか、それとも——広めるのか」
「広める?」
「いつか——あなたがお母さんの研究を見つけたら」
母の手がカエルの手を握った。冷たい指が、カエルの温かい手を包み込む。
「広めてほしい。一人で抱え込まないで。お母さんは——一人で抱え込んだから、こうなった」
こうなった。
その言葉の裏に何があるのか——全てを理解することはできなかった。しかし母の手の冷たさと、目の奥の光が、言葉以上のことを語っていた。
母は命を賭けている。
何に。誰に。なぜ。カエルにはわからない。わかるのは——母がもう引き返せない場所にいるということだけ。
「……わかった」
それしか言えなかった。
「守る。母さんの研究も、ルーナも」
シルヴィアの唇が震えた。
「あなたは——」
声が途切れた。喉の奥で何かがつかえている。母が顎を引き、目を伏せ、膝の上の拳を握りしめた。しばらく無音。ルーナの寝息と、窓の外の虫の声だけ。
「あなたは、強い子ね。お母さんより、ずっと」
―――――――――――
最後だった。
その会話が——二人きりの最後の時間になるのだと、カエルは薄々感じていた。感じていて、それでも何もできなかった。八歳の体で。八歳の頭で。母を止める言葉を持っていなかった。
シルヴィアが立ち上がった。
ベッドのスプリングが反発し、母が浮き上がるように立つ。カエルの前に来て、膝を折った。目線が同じ高さになる。
「おやすみ、カエル」
母がカエルの額に唇を押し当てた。冷たい唇。長い接触。呼吸が額の皮膚に触れ、母の睫毛がこめかみをくすぐる。
そして——抱きしめた。
祭りの後の抱擁とは違った。あの時は三人だった。今は二人。ルーナがいない分だけ、母の腕が深くカエルの背中に回る。母の匂い——薬草と、乾いた紙と、微かに甘い香り。それが鼻腔の奥に染み込む。
「……愛しているわ」
母がそう言ったのは、カエルの記憶の中では——初めてだった。
いつも「大好き」「大切」「宝物」。表現は豊かだが、「愛している」という言葉だけは使ったことがない。日常で使うには重すぎる、最後の切り札のような言葉。
それを——今、使った。
喉の奥が焼けた。
「……俺も」
掠れた声で、それだけ言った。
「俺も——母さんのこと」
言葉が最後まで出なかった。言えなかった。「愛している」と言えば、それが本当に最後になる気がした。
シルヴィアがそっと身体を離した。
微笑んだ。
泣きながら——微笑んだ。涙が頬を伝い、顎先で光って落ちた。しかし口元は笑っていた。母の笑顔。いつもの笑顔。ただし——今日の中で初めて、作り物ではない笑顔。
「おやすみなさい」
母が立ち上がった。扉に向かう。振り返る。一度だけ。
月明かりの中で、母の横顔が——一枚の絵のように見えた。銀に近い髪。長い睫毛。森人族の血が色濃く出た、人間離れした美しさ。その輪郭が、記憶に焼きつく。
扉が閉まった。
足音が廊下を遠ざかる。
消えた。
―――――――――――
カエルは動けなかった。
ベッドに座ったまま。膝の上の古代語の石が、淡く光り続けている。涙は出ない。泣けない。泣けば——終わりを認めることになる。
母は何かを覚悟している。明日か、明後日か。わからない。わかるのは——母がもう戻ってこない準備を、今日一日かけて済ませたということ。
遺跡の封印。防護壁の訓練。祭り。贈り物。手紙。遺言。
全てが——別れの手順だった。
母を止めなければ。
しかし——どうやって。
何が起きるのかもわからない。誰が来るのかもわからない。母が何と戦おうとしているのかもわからない。
窓の外を見た。
月明かりの下——村の外縁、森に続く小道の付近に、微かな気配が蠢いていた。
結界の穴。母が意図的に残した隙間。そこに——何かがいる。
人の気配。複数。
カエルの指が、古代語の石を握りしめた。渦巻き模様が光を強め、手のひらに食い込む。
今夜か。
明日か。
夜が、永遠に続けばいいと思った。




