09.薔薇のジャムのカップケーキ
「ああ、薔薇だな」
アドルフはなんともなしに言う。
胸がドキドキとした。理由はよくわからない。
けれど、おそらく頬にジャムをつけるという淑女らしからぬ失態をしたせいだろう。
ミネルヴァは必死にカップケーキを咀嚼する。
薔薇の味はよくわからなくなっていた。
「どうだ? ここの生活にも慣れたか?」
ミネルヴァは彼の問いに深く頷く。
みんなとてもよくしてくれている。
「食べる量も人並みに増えてきて、本当によかった」
アドルフは乱暴にミネルヴァの頭を撫でる。
彼はこうして時々ミネルヴァの頭を撫でることがある。これは嫌いではない。けれど、父にされるのとは違うむずがゆさがあった。
「そうですよ。最初はびっくりしてしまいました」
サリが紅茶を新しく入れながら、アドルフの言葉に頷いた。
「一口をやめたはずですのに、パン一個完食できないだなんて……」
サリが眉尻を下げる。
ミネルヴァは申し訳ない気持ちでいっぱいだ。
作ってくれた人のことを考えれば、完食すべきだったのだろう。しかし、ミネルヴァのお腹には普通の一食が入らなかったのだ。
「ミネルヴァのスピードで量に慣れていけばいい」
アドルフがフォローを入れながら、ミネルヴァの頬を撫でる。
シュダルン公爵邸は料理をたくさん食べただけで褒められる、天国のような場所だ。
しかも、どれもうっとりするほどおいしい。
表情を取り繕うのが難しいほどだ。
ここに来てからというもの、感情を隠すのがとても難しく感じる。
「アドルフさま、お願いがあります」
「なんだ?」
「お茶会に参加してもよろしいでしょうか?」
アドルフはわずかのあいだ思案した。
やはり、まだ未熟なミネルヴァを外に出すのは心配だろうか。
継母もいつも心配していた。
『あなたは不器用だから、失敗しないか心配だわ』と、お茶会や夜会に参加する日の前日はいつも以上に厳しくなるのだ。
「止める理由はないが、会いたい人でもいるのか?」
「会いたい人は……いないのですが」
ミネルヴァはなんと言えばいいのかわからず、困ってしまった。
目的はただ一つ。
公爵夫人として社交も問題なくできているというアピールがしたかっただけだ。
「それでしたら、お二人で夜会に参加されてはいかがでしょうか?」
サリの提案にアドルフが眉根を寄せる。
「夜会? なぜだ?」
「ご夫婦揃っての社交がまだの状態ですし、お茶会はそのあとのほうがよろしいのではないでしょうか?」
「……なるほど」
「今ある招待状をお持ちしましょうか?」
「そうだな。一度確認しよう」
アドルフは小さく頷く。
「どうする?」
「行きます」
ミネルヴァは真面目な顔で頷いた。
社交ができると証明できればいいのだ。お茶会でも夜会でも構わない。
今まで習ったことを総動員し、アドルフに認めてもらおう。
『私が見込んでいたとおりだ。ミネルヴァ、君は完璧な淑女だ』
笑みを浮かべ、ミネルヴァの頭を撫でるアドルフを思い浮かべる。
アドルフに喜んでもらえるのは嬉しい。
ミネルヴァは小さく拳を握った。
◇◇◇
夜会の日、ミネルヴァはアドルフの隣で背筋を伸ばした。
ミネルヴァにとっては勝負の日だ。
横に並ぶアドルフは、いつものラフな格好とは違ってカッチリと礼装を着こなしていたった。
結婚式のパーティでも同じ格好だった。あまりにもかっこよくて、目を合わせるのが難しかったくらいだ。
今は少しなら平気だと思う。毎日顔を合わせて、少しずつ耐性がついたはずだ。
彼の胸についた勲章が輝いている。
それはこの国を守っている証なのだ。
父の胸にも同じような勲章があったから知っている。
ミネルヴァがつけているわけではないのに、なぜか誇らしい気持ちになった。
(私も彼に見合うくらい素晴らしい淑女になってみせるわ!)
今日のミネルヴァは淑女に相応しいドレスを着て、準備万端だった。
しかし、ミネルヴァは目の前を通った令嬢を、思わず目で追ってしまう。
(ふりふりふわふわ)
薄桃色のドレスは可憐な花のようだ。
ふんだんに使われたレースと、フリル。華奢な首元に光るネックレス。
(かわいい)
ミネルヴァはサリとの会話を思い出していた。
舞踏会に行くミネルヴァにサリが尋ねたのだ。
『奥様、本当にこちらのドレスでよろしいのですか?』
『はい』
『奥様はレトロなデザインがお好きなのですね』
サリは眉尻を下げて笑う。
彼女の言っている意味がわからず、ミネルヴァはとりあえず相槌を打った。
たしかにミネルヴァと似たようなドレスを着ている令嬢を見かけない。
首までキッチリと隠れ、シンプルなリボンがあるだけ。
肩の形を隠す大きなパフスリーブ。袖もしっかりと手首まである。
色も土のような色だ。
けれど、これは継母がミネルヴァに用意してくれた一張羅だった。
本来淑女とは、肌を見せず色も地味なものだ。
継母も言っていたし、『夫人の嗜み全集』の服装編ではそのことが細かく記されている。
出していいのは手と顔だけ。
肩を出すのは恥ずかしいことだ。
肩を出していいのは結婚し、子を生んでからだと書いてあった。
『今の子は好き勝手ばかりしているのよ。でも、あなたならこの教えをしっかりと守り立派な淑女になれると思うわ』
継母はいつもそう言ってミネルヴァを諭した。
可愛いドレスに憧れがないと言ったら嘘になる。
一度くらいあのふりふりふわふわの中に入ってみたい。
けれど、継母や父、そしてシュダルン公爵家のみんなの期待を裏切りたくないのだ。
みんなの笑顔を考えれば、可愛いドレスは我慢できると思った。
ミネルヴァはアドルフと一緒に挨拶を受け続けた。
アドルフは王族だ。
立っているだけで、多くの人がアドルフに声をかける。
「アドルフ殿下、このたびはご結婚おめでとうございます」
「ありがとう」
「殿下がパーティーに来るなんて珍しい。美しい奥様のおかげでしょうか。ぜひ、紹介してください」
男はちらりとミネルヴァを見た。
「ミネルヴァ、こちらは――……」
アドルフが男をミネルヴァに紹介してくれた。
男の名前を三度心の中で唱えたあと、ミネルヴァは淑女の礼をとる。
「妻のミネルヴァです。どうぞよろしくお願いします」
淑女の礼は得意だ。
幼いころから毎日、何度も何度も練習した。
不器用なミネルヴァは継母をどれほど苦労させただろうか。
ミネルヴァはしっかりと口を真一文字に結ぶ。
今日は調子がいい。
挨拶を完璧にこなし、ミネルヴァはこっそりと息をついた。
「疲れただろう? 軽食でも食べに行こうか」
(軽食……。だ、だめよ。食事の姿を見せるだなんて)
すっかり食べることに慣れてしまって忘れていた。
夜会やお茶会では軽食を口にしてはいけないと、何度も言われている。
ミネルヴァは頭を横に振った。
「出てくる前にいただいたので、お腹がいっぱいです」
「そうか。だったら、ダンスはどうだ?」
「ダンス……」
ミネルヴァは小さく頭を横に振る。
そして、蚊の鳴くような小さな声で言った。
「そういう気分ではありません」
「……そうか」
ミネルヴァは唇を噛みしめた。
「なら、もう少し少し涼みにでも――……。いや、その前にもう一人挨拶が必要そうだな」
アドルフが遠くを見た。彼の目線を辿る。
真っ赤なドレスを着た女性が、まっすぐミネルヴァとアドルフのもとにやってきたのだ。
「ミネルヴァ。来ていたのね」
「おかあさま」
ミネルヴァの継母だ。




