08.妖精さん
そっと扉を開ける。
胸はドキドキと高鳴っていた。
扉の隙間から中の様子を伺う。
部屋の中は静かだ。人の影はないのに、ランプが煌々とついていて不気味なくらいだった。
(誰もいないかしら? そうよね。この時間だもの)
そろりそろりと部屋の中に入る。
「でん……か?」
突然声がして、ミネルヴァの肩がはねる。
恐怖にギュッと目をつぶった。
「あ、あの、これは……! 道に迷って……」
どうにか用意した言い訳を口にする。しかし、返事はなかった。
おそるおそる目を開けると、足元から大きないびきが聞こえてきた。
クロイがソファーの上で大の字になって眠っていたのだ。
(寝ていたのね)
ミネルヴァはホッと胸を撫で下ろす。
(疲れているのよね。私のせいでごめんなさい)
ミネルヴァは床に落ちていた布団を彼にかけた。
目の下には、くっきりと濃いくまが浮かんでいる。
本当なら、ミネルヴァがしなくてはならない仕事だ。それをすべて引き受けているのだから、疲れるに決まっている。
ミネルヴァは彼の机の上を覗いた。
(あった)
帳簿だ。
書きかけの帳簿は途中で止まっているようだった。
(よかった。うちと同じだわ)
ミネルヴァは胸を撫で下ろす。これなら、ミネルヴァにも手伝うことができる。
もしもやり方が違っていたら、ミネルヴァは手を出すことができなかっただろう。
ミネルヴァは慣れた手つきで帳簿を書き込んでいった。
数字は得意だ。『夫人の嗜み全集』を覚えるよりも好きな作業だった。
幼いころから継母に『夫人になったらいずれ必要になる。早いうちから習っておいたほうがいいわ』と言われ習っていた。
ヴァイゼン侯爵家の管理は長年、ミネルヴァが担っていたのだ。
ミネルヴァは時々クロイの様子を確認しながら、帳簿を処理していった。
(よかった。終わった)
何度かクロイの寝言に驚かされたが、無事に終えることができた。
クロイはぐっすりと眠ったままだ。
ミネルヴァは来たときと同じように、こっそりと執務室を抜け出した。
なんとなく、起きていたと知られるのがいやで、ミネルヴァは再び寝間着に着替えて眠っているふりをした。
サリに起こされるまでのわずかのあいだ、ミネルヴァの心臓は大きな音を立てていたと思う。
◇◇◇
朝食の時間はミネルヴァの心を満たしてくれる。
今日の朝食も雲のようにふかふかのパンだ。
実家では、柔らかいパンは父が帰ってくるような特別な日にしか出なかった。
だからだろうか。毎日が特別な日のように感じる。
「バターをたっぷり塗るとうまいから、試してみるといい」
アドルフに勧められ、ミネルヴァは彼を真似てパンを半分に割った。
割ると湯気が出るほどのパンに、ナイフでバターを塗る。
ふかふかのパンが少しシワシワになってしまった。
少しだけがっかりした気持ちで、パンにかじりつく。すると、口の中にバターがじわりと溶け出し、ミネルヴァは目を見開いた。
「どうだ? うまいか?」
アドルフの定番の問いに、ミネルヴァは何度も頷く。
彼は少し嬉しそうに目を細めた。
ふかふかのパンもおいしいけど、バターの染みたパンもおいしい。
アドルフはミネルヴァが知らないことを何でも知っていた。博識なのだ。
ミネルヴァはパンを飲み込むと、横に置かれた皿を凝視した。
(黄色だわ……)
黄色くてふわふわとした物体だ。
黄色は知っている。からいのだ。
アドルフはスプーンで山盛りにすくい口に入れている。
昨日の失敗を活かし、ミネルヴァはスプーンでほんの少しだけすくうと、口の中に入れた。
口に入れた瞬間、ミネルヴァは目を瞬かせる。
(この黄色はちょっとだけ甘いわ)
マスタードと似ているけれど、ほんのり甘かった。
アドルフは肩を揺らして笑う。
「それはスクランブルエッグだ。からくない」
ミネルヴァは目を瞬かせた。
なぜアドルフはミネルヴァの考えていることがわかったのだろうか。
すると、廊下からバタバタと足音が聞こえてきた。足音はどんどん近づき、食堂の前で止まる。
バタンッと大きな音を立てて扉が開いた。
「殿下ッ! 聞いてくださいっ!」
扉の奥には、肩で息をしたクロイが立っていた。
アドルフが食事の手を止めて、クロイに問う。
「どうした? そんなに慌てて」
「妖精っ! 妖精が現れたんですよ!」
「妖精? 夢の話か?」
「それが夢じゃないですって。目が覚めたら真っ白だった帳簿が終わっていたんですよ」
クロイの言葉にアドルフは笑った。しかし、ミネルヴァはサラダを咀嚼しながらも気が気ではなかった。
なんの味も感じない。スクランブルエッグがただのふわふわの物体になった。
耳の奥で心音が響いている。
(だ、大丈夫よ。だって、誰にも見られていないもの)
二人の会話に耳を傾けながらも、ミネルヴァは感情を表に出さないように口を真一文字に結ぶ。
「殿下、誰がやったか捜しましょう!」
クロイの言葉にミネルヴァの肩が小さくはねる。
(平常心、平常心……)
継母はよく『どんなことがあっても感情を表に出さない。それが完璧な淑女というものよ』と言っていた。
確かに『夫人の嗜み全集』にも似たようなことが記載さていたのを覚えている。
他者に感情を読み取られることは、交渉の場において不利になるのだ。
ミネルヴァは食事を食べるのも忘れ、唇を噛みしめる。
「捜してどうするんだ?」
「できあがった帳簿が完璧なんですよ。次から手伝ってもらいます」
クロイは真剣な顔で言った。アドルフは苦笑をもらす。
「おまえは本当に数字が嫌いだな」
「殿下だって嫌いでしょう。だけど、これからは大丈夫です。妖精さんを首席秘書官に任命しましょう」
「首席秘書官? なんだその仰々しい名前は」
「今、考えました」
彼らの会話を聞きながら、心臓は張り裂けそうだった。
ミネルヴァは頭の中でぐるぐると言い訳を考える。
(寝ぼけて実家の帳簿と間違えて……。さすがに無理があるかしら?)
「おまえが寝ぼけて終わらせただけじゃないのか?」
「ん~。そうなんですかね」
「帳簿が終わったのなら、今日はゆっくりするといい」
「そうします。何にせよ、終わってよかった。これで、ぐっすり眠れる……!」
クロイは心底嬉しそうな顔で言った。彼は大きな欠伸をしながら、食堂を出て行った。
(よかった。喜んでもらえたみたい)
ミネルヴァは唇を噛みしめる。
そうしないと、頬が緩んでしまいそうだったからだ。
胸がポカポカと暖かい。誰かの役に立てるということは、こんなに嬉しいことだとは知らなかった。
(もっと、みんなに喜んでもらいたいわ)
その気持ちは朝食を終えても、散歩をしても、読書の時間になっても消えなかった。
『夫人の嗜み全集』を閉じながら、ミネルヴァは立ち上がる。
(そうよ、このままではいけないわ!)
早くみんなに『完璧な公爵夫人だ!』と認められて、堂々と屋敷の管理を任せられるようになりたい。
そうすることで、みんなが喜んでくれるはずだ。
(そのためには何をしたらいいのかしら?)
今は実家で過ごしていたとおりのスケジュールをこなし、ただ幸せな毎日を過ごしているだけだ。
夫人というのは、ふだん何をしているのだろうか。
ミネルヴァが知っているのは一人しかいない。――継母だ。
彼女はミネルヴァを指導してくれるとき以外、何をしていただろうか。
「奥様、届いていた招待状をお持ちしました」
「招待状?」
「お茶会の招待状です。招待状はリストにしておりますので、参加されるものがあれば教えてください。残りはお断りのお返事を用意させていただきます」
銀盆にはたくさんの招待状が乗っていた。
継母もよくたくさんの招待状を選別していたのを覚えている。
ミネルヴァは選別され、行くべき招待状しか見たことがない。
こんなにたくさんの招待状が届くだなんて知らなかった。
(そうだわ……! これよ!)
継母はよく社交場に行っていた。
社交は貴族にとって大切な仕事の一つだ。
これを難なくこなせば、ミネルヴァも夫人として認めてもらえるのではないか。
◇◇◇
いつの日だったか。
アドルフがミネルヴァのもとにスイーツを持ってくるようになった。
仕事の合間に来ているようだったので、「アドルフ様のお時間を奪うのは申し訳ない」と言った。
そうしたら、どういうわけか、午後の時間にアドルフの執務室で休憩時間をともにするようになったのだ。
サリがミネルヴァとアドルフのあいだにあるテーブルの上に、今日のスイーツを並べる。
カップケーキだろうか。手の平大の小さなカップが皿に置かれていた。
「本日は薔薇のジャムを使っております」
「薔薇の……ジャム?」
「王族にのみ栽培が許されている薔薇を使ったジャムでございます」
(そういえば、サリが初日に教えてくれたわ)
特別な薔薇だという話だ。
(薔薇は食べられるのね)
あんなに綺麗な花を食べるのは想像ができない。
「ちょうど昨日初摘みの分ができあがりましたので、お楽しみください」
カップケーキの中央に薔薇色のジャムがたっぷりと載せられている。
(つやつやだわ……)
スンッとこっそり匂いを嗅いでみると、甘い香りが鼻腔をくすぐる。
ミネルヴァはおそるおそるカップケーキにかぶりついた。
ジャムの甘みに目を見開く。そして、鼻から抜けた薔薇の香りに目を瞬かせた。
「うまいか?」
アドルフの問いに、ミネルヴァは何度も頷いた。
「ついている」
アドルフはミネルヴァの口の端を親指で拭った。
薔薇のジャムがついていたようだ。
彼は親指についたジャムをペロリと舐めた。
ミネルヴァの心臓がはね上がる。




