07.禁断の二口目
アドルフが驚いたように目を見開く。
頬に熱が昇っていくのがわかる。
「腹が減っているのか?」
「えっと……。これは」
ミネルヴァは慌ててお腹を押さえた。
言い訳は思いつかない。お腹が空いているのは事実で、お腹が鳴ったことも隠しようがない。
「腹が減っているのに、なぜ朝食をとらない?」
「……食べています」
「一口だけだろう?」
「朝食はおいしくないか?」
「おいしいです……! どれもとてもおいしくて、一口で我慢するのが大変なくらいです!」
思わず叫んでしまった。
ミネルヴァは慌てて両手を口で押える。
大きな声を上げるのは淑女らしくない行為だと、継母に何度注意されただろうか。
アドルフの眉根が寄った。
「どういう意味だ? おいしいとなぜ一口で我慢する必要がある?」
「たくさん食べると醜くなると聞きました」
醜くなると、夫であるアドルフにも迷惑がかかる。
「王都ではそんな方法が流行ってるのか……?」
アドルフは信じられないものを見るような目でミネルヴァを見た。
彼は王族の一員でありながら軍人で、あまり社交場には出ない。だから、そういうことには疎いのだろう。
どう説明すればいいかわからず、ミネルヴァは両手を握りしめ俯いた。
彼はガシガシと頭を乱暴に掻く。
「ひゃっ!?」
宙を浮く感覚に、ミネルヴァは声を上げた。
アドルフが軽々とミネルヴァを抱き上げたのだ。
「君は軽過ぎるくらいだ」
「あ、あの……! おろしてください」
抱き上げられたときの対処法は習っていない。
ただ、淑女としてはあまりいいことではないことだけはわかる。
彼はミネルヴァの言葉を聞き入れてはくれなかった。
ミネルヴァを抱き上げたまま部屋を出て、廊下を突き進む。
使用人たちと目が合って、ミネルヴァはどんな顔をしていればいいのかわからなかった。
ただ口を真一文字に結ぶのみだ。それ以外の対処法を習ってはこなかった。
結婚生活は予想だにしないことばかりで目眩がする。
実家との生活はいつも粛々としていた。
日が昇る前に起き、決められたスケジュールをこなす。
結婚してもそれは変わらないと思っていたのにまったく違う。
アドルフは食堂に着くと、ミネルヴァを席に下ろした。
なぜ食堂に連れて来られたのかわからなくて、ミネルヴァはアドルフを見上げる。
「ここでは何口でも好きなだけ食べていい」
「でも……」
「醜くなるのが心配なら、動けばいい。腹を鳴らしてまで我慢するものじゃない。猫だってそれくらい理解している」
(猫……)
ミネルヴァは何度も目を瞬かせる。
なぜ猫が出てくるのか、ミネルヴァにはわからなかったのだ。
「何が食べたい?」
「今ですか? 食事の時間ではありません」
「今日は特別だ。何が食べたい? 一番食べたいものを作ってもらおう」
(食べたいもの……)
「何でもいいのですか?」
「ああ。何でもいい」
ミネルヴァはわずかのあいだ逡巡したのち、小さな声で言った。
「……最初に食べたスープを」
「スープ? ただの玉葱のスープだぞ?」
「とてもおいしかったです。あの……パンもあると嬉しいです」
ミネルヴァは控えめに言った。
わがままを言い過ぎただろうか。
毎日出てくるどの料理もおいしかったけれど、シュダルン公爵家で初めて食べたスープとパンの味がずっと忘れられなかったのだ。
アドルフは小さく笑ってミネルヴァの頭を乱暴に撫でた。
「喜ぶだろう。あれは料理長の得意料理だ」
「どうりで。とてもおいしくて、頬が落ちるかと思いました」
「だったらそう言ってやってくれ。彼らは君が一口しか食べないから、口に合わないのではないかと心配していた」
ミネルヴァは目を丸くする。
そうだ。ミネルヴァはずっと継母のいいつけを守ることばかり考えて、働く人たちのことは考えていなかった。
(私ったら、とてもひどいことしていたのね)
しばらくして、本当にミネルヴァの前には玉葱のスープとパンが出てきた。
料理を運んできた料理人たちに、ミネルヴァは深々と頭を下げた。
「せっかくおいしい料理を作ってくださったのに、今まで申し訳ございません」
「お、奥様っ!?」
「頭を上げてくださいっ!」
料理人たちはそう言ってくれたけれど、すぐに頭を上げることはできなかった。
きっと、彼らを傷つけてしまっただろうから。
すぐにアドルフが口を開いた。
「この状況を数日放置していた私も悪い。だから彼女を責めないでくれ」
「そうです! 旦那様が全部悪い! 旦那様は昔っから言葉がたりないんです!」
「そうですそうです! 旦那様が初日にしっかり確認してくれれば、奥様も教えてくれたはずです!」
「そうですよ! 知らない家で暮らしはじめて好き勝手言えるわけがありません!」
料理人たちは口々に同意の言葉を口にした。
アドルフは王族の一人だ。そんなふうに言っていいのだろうか。
しかし、ミネルヴァの心配は杞憂だったようだ。
アドルフは「おまえらな……」と呆れながらも怒ってはいない。
「ほら、せっかくの料理が冷めてしまう。君のための食事だ」
「はい」
ミネルヴァはスプーンですくって、ゆっくりとスープを口に運ぶ。
甘い玉葱のうまみが口の中に広がる。
じわじわとミネルヴァの乾いた身体にしみこんでいった。
二口目に手をつけるのは少し時間がかかった。
継母の顔が頭を過ったのだ。
彼女はいつもミネルヴァのことを心配していた。彼女の落胆の顔を想像すると胸が痛い。
「どうした?」
アドルフが顔を覗き込む。
料理人たちもどこか心配そうにミネルヴァの様子を伺っていた。
ミネルヴァは小さく頭を横に振る。
(きっと、おかあさまもわかってくださるわ)
すべての料理が驚くほどおいしいなど、継母も想像していなかったのだろう。
アドルフは「動けばいい」と言っていた。もしかしたら、その方法を継母は知らなかったのかもしれない。
ミネルヴァはパクリと二口目を口に入れた。
一度食べたはずなのに、さらにおいしくなったような気がする。
(しあわせ~)
初めてお腹いっぱい食べたミネルヴァは、表情を作るのも忘れていた。
◇◆◇
朝は好きだ。
パンの匂いで目が覚めるから。
最初は苦痛だった。たった一口しか食べられないことがとてもつらかったのだ。
しかし、今は違う。何口でも食べていいとアドルフが言ってくれた。
あの日から少しだけ、アドルフとの関係は変わった。
「ほら、野菜ばかりで食べていないで、肉も食え」
アドルフはミネルヴァの皿に大きなソーセージを載せる。
ミネルヴァは人参をかじりながら、小さく頷いた。
「これはマスタードをつけるとうまい」
アドルフの説明を受けて、小さく切ったソーセージに黄色いソースをつける。
初めて見るソースだ。
味すら想像できない。
アドルフが「うまい」と言うのだ。おいしいに違いない。ミネルヴァは何の疑いもなくパクリと口に入れた。
「んっ……!」
ミネルヴァは思わず両手で口を押さえ、目を見開いた。
その様子を見ていたアドルフが申し訳なさそうに言う。
「悪い。からいのは苦手だったか?」
甘さと辛みが混じった不思議な感覚が鼻から抜ける。
ミネルヴァは瞳に涙を浮かべながらも、小さく頭を横に振った。
アドルフに差し出された水をゆっくりと飲み込む。
「慣れないうちは少しのほうがいいかもしれないな」
アドルフの忠告はもう少し早くほしかった。
けれど、一度口にするとやみつきになる味だ。
ミネルヴァは次はほんの少しつけて試す。
食事の席は楽しい。
こんなにおいしい料理をアドルフと楽しむことができるのだ。
少しだけ、お喋りができないことがもどかしかった。
けれど、ミネルヴァは完璧な淑女であることを、みんなに示さないといけない。しかも、ミネルヴァは失敗したばかりだ。
挽回するためにも、食事の席でペラペラと話すことはできないのだ。
たっぷりと朝食をとり、日課の散歩も終えた。
だいぶこの屋敷の庭園のことはわかってきたと思う。
サリは博識で、庭園のことは何でも知っているのだ。
廊下を歩いていると、疲れた顔の男とすれ違った。いつもアドルフの側にいる男だ。
最初に挨拶を受けた。
(たしか……アドルフ様の右腕だって言っていたわ)
乳兄弟で、幼いころからともに育ったという話も耳にした。
『こいつは、馴れ馴れしいところがあるが、気にしないでほしい』
そうアドルフが言っていたのだ。
クロイはミネルヴァは見て小さく会釈をすると、うつろな目で歩いて行った。
ミネルヴァは足を止めて振り返る。
この前見かけたときは元気な様子だったのだが、今日は違うらしい。
「なんだか疲れているように見えるわ」
「それは、屋敷の管理が大変だからかもしれません。クロイ様は屋敷の管理もしますし、戦場にもついて行くのです」
「戦場にも?」
「はい。ですから、帰ってくるといつもあんな感じなんです。いろいろ書類が溜まってしまうので」
(屋敷の管理……。それって、本来は私がしないといけないお仕事だわ)
ミネルヴァが至らないばかりに、まだ任せてもらえていない仕事だ。
サリの話しぶりからするに、結婚する前からクロイが担っていたのだろう。
(私のせいだわ)
ミネルヴァはジッとクロイの背中を見つめた。
◇◇◇
ミネルヴァの朝は早い。
太陽が昇る前にベッドから起き上がる。
まだ使用人たちも眠っている時間だ。
これは幼いころから継母が決めたミネルヴァのスケジュールだ。
まだ未熟なミネルヴァは朝早くに起きて、学ぶことがたくさんある。
ミネルヴァは着替えを終えるとそっと部屋を出た。
大きな音を出すと隣の部屋で休んでいるサリを起こしてしまう。
(たしか、ここよね)
ミネルヴァは執務室の扉に手をかけた。




