24.おかしなミネルヴァ
胸を突き破りそうな勢いにミネルヴァは胸を押さえた。
「どうした? 大丈夫か?」
「へ、平気です。とってもおいしくて! ……っ!」
慌てて二口目を食べる。しかし、スープが熱いことをすっかり失念していたのだ。
舌を攻撃する熱さにミネルヴァは眉根を寄せる。
みんなが慌ててミネルヴァに水を差し出した。四方八方から出された水から、遠慮がちに一つ手に取る。
「やけどしたんじゃないか? 医師を呼ぼう」
「ほ、本当に大丈夫です」
アドルフが心配そうにミネルヴァの顔を見る。
それなのに、ミネルヴァの心臓はただただ騒がしいばかりだった。
◇
ミネルヴァは肩を落としながら、廊下を歩く。
庭園の散歩を終えた帰りだ。もう継母の決めたスケジュールをこなす必要はない。
けれど、シュダルン公爵家の庭園は綺麗だから、このスケジュールは晴れの日はそのままとなった。
(今日は失敗ばかりだったわ)
五回も食器を落としてしまった。
朝食に何を食べたのかはよく覚えていない。
アドルフは「完璧な淑女になる必要はない」と言ってくれたけれど、ここまで失敗ばかりでは呆れているだろう。
ミネルヴァは朝食の時間を思い出し、頭を抱えてしゃがみ込んだ――廊下の真ん中で。
「奥さま、奥さま、大丈夫ですか?」
サリが心配そうにミネルヴァの背中を撫でる。
ミネルヴァは唇を噛みしめた。そして、顔を上げる。
「はい。大丈夫です」
「大丈夫というお顔ではありませんよ?」
「ちょっとだけ考え事をしていました」
サリは眉尻を下げる。
「このあとはどうしましょうか? 新しい本を探しに書庫へ行かれますか?」
サリの言葉にミネルヴァは思案した。
今までは継母の言いつけどおり、『夫人の嗜み全集』を覚える時間に使っていたのだ。
しかし、あの本はもう読む必要はない。ぽっかり空いた時間に何をしていいのかわからなかった。
幼いころから、ミネルヴァの身体は決められた時間に決められたことをするように教え込まれているからだ。
本を読むにしてもどんな本を?
「サリ。自分で決めるのは、難しいですね」
「そうですね。奥さまがしたいことをすればいいのですよ」
「私の……したいこと?」
「はい。もしお昼寝をしたければそれでも」
「お昼寝?」
ミネルヴァは首を傾げる。
サリは眉尻を下げた。
「お昼に寝ることです」
ミネルヴァは目を丸くする。
お昼に寝るという行為は初めて聞いた。
「お昼にお布団に入ってもいいのですか?」
「奥さまが望むなら」
ミネルヴァは慌てて頭を横に振った。
「では、今したいことはありますか?」
「今、したいこと……」
「はい。なんでもいいです。もう一度散歩をしても構いません。薔薇を見てお茶を飲むのもいいですね」
したいことなら、なんでもいい。
ミネルヴァは目を瞬かせる。
(難しいわ)
それらは完璧な淑女となるため、何年もかけて捨ててきたことだ。
ミネルヴァは幼いころに持っていた、そういう名前のないものを全部置いてきた。
幼いころのミネルヴァは何をしたがっていただろうか。どんなものに興味を持っていただろうか。
今、振り向いても、うしろには何もない。
「アドルフさま」
ミネルヴァはポツリと呟いた。
「アドルフさまのお手伝いがしたいです。だめでしょうか?」
昨日はいいと言っていた。
けれど、本当のところはわからない。呼ばれてもいないのに、手伝いに行ってもいいものか。それすらわからない。
サリは目を細めて笑う。
「きっとお忙しいですから、喜ばれますよ」
サリの言葉にミネルヴァはホッと胸を撫で下ろす。
◇
クロイは書類を確認しながら、目を輝かせた。
「奥さま、完璧です」
「ありがとうございます」
「しかも、仕事が早い! こんな才能があったとは……!」
クロイは褒め上手だ。
いや、シュダルン公爵家の人はみんなミネルヴァを手放しで褒める。
ただクロイの指示どおり書類を整理しただけ。誰でもできる仕事だと思う。
けれど、喜んで貰ったり褒めてもらえるのは嬉しかった。
ミネルヴァは唇を噛みしめる。
ゆるゆるになる頬を引き締めるには、これが一番有用だ。
「今日は元気だな。どうした?」
隣の部屋で仕事をしていたアドルフが顔を出す。
ミネルヴァの心臓がドクンとはねた。
ミネルヴァは胸の辺りを押さえる。
(やっぱりおかしいわ)
クロイとともに書類を整理していたときは平気だったのに。
「殿下、奥さまは素晴らしい方です。奥さまがいるだけで、われわれは午後からぐーたらできること間違いなしでしょう」
「あのな……。ミネルヴァをどれくらいこき使うつもりだ?」
「殿下だっていつも言ってじゃないですか。ペンを持つより、剣を振りたいって」
彼らはミネルヴァの異変には気づいていないようだ。
ミネルヴァは書類をまとめながら、ホッと胸を撫で下ろす。
「ミネルヴァ、クロイに無理はさせられてないか?」
「ひゃっ!」
突然アドルフに肩を叩かれ、ミネルヴァの肩がはねる。
「悪い。驚かせたか?」
「だ、大丈夫です! あと十時間くらいは頑張れます!」
想像以上に大きな声が出て、ミネルヴァは慌てて両手で口を押さえる。
その瞬間、手にあった書類がバラバラと床に散らばった。
「ああ……!」
「やっぱり、無理をさせられてるんだろう?」
「そ、そんなことはないです」
平気だ。
平気なはずなのに、今日のミネルヴァはおかしい。
それは、ミネルヴァ自身も自覚していた。けれど、なぜこんなに胸がざわめくのか、失敗ばかりなのかわからなかった。
「顔が少し赤いな。熱は……ないな。いや、ある、か? 一度医師に見てもらおう」
アドルフの手がミネルヴァの額に触れる。それだけで、頭が沸騰しそうだった。
「へ、平気です」
「だめだ。君は無理をしすぎるきらいがある。サリ、ミネルヴァを部屋に。クロイは医師を」
アドルフは当たり前のようにミネルヴァを抱き上げる。
ミネルヴァは恥ずかしくなって、そのまま両手で顔を覆った。
◇◇◇
アドルフはミネルヴァの部屋の前で右往左往していた。
診察中の女性の部屋に入ることはできない。ただただ、結果を待っているしかないのが現状だ。
しばらくして、サリとともに医師が部屋から出てきた。
アドルフの姿を見つけ、老齢の医師が目を細めて笑う。
「奥さまの健康に問題はございません」
「そうか。よかった」
「念のため休んでもらっていますが、無理に休ませる必要もないでしょう。ダンスの練習も大丈夫です」
「ダンス……?」
医師の言葉にアドルフは首を傾げた。
サリが彼の隣で苦笑を浮かべる。
「奥さまが『午後からのダンスの練習はできますか?』と心配しておりました」
「そういうことか」
ミネルヴァは真面目すぎるところがある。いや、そうなるように育てられたのだろう。
だから、決められたレッスンを休むという考えはないのだ。
「一日くらいサボってもいいのに」
「サボるのはまだ奥さまには難しいかと」
サリが眉尻を下げて言った。
「今日はずっと心ここにあらずで。……心配です」
「最近、いろいろなことがあった。まだ母親のことで悩んでいるのかもしれないな」
「そうですね。私たちはどうしたらよろしいでしょうか?」
「フォローはしつつ、気づいていないふりをしよう。そのほうがミネルヴァもゆっくり向き合うことができるだろう」
「わかりました。この決定はみんなに伝えておきますね」
アドルフとサリは顔を見合わせて頷き合う。このとき、二人の心は同じだったと思う。
すべてはミネルヴァの健やかな笑顔のためである。
◇◇◇
深夜、布団を被りながらミネルヴァは頭を抱えた。
「私、どうしちゃったのかしら?」
大きな枕を抱える。




