23.念願のビジネスライク
「まだまだ修行が足りないと……」
ミネルヴァの声が徐々に小さくなる。
自分で自分の不甲斐なさを語るのは、やはり恥ずかしいものだ。
しかし、アドルフとクロイは目を見合わせると楽しそうに笑う。
クロイはミネルヴァの両手を強くつかむと、輝かんばかりの目でミネルヴァを見つめた。
「違います。逆ですよ。これからはすべて奥さまにお任せいたします」
ミネルヴァは想定外の言葉に目を瞬かせた。
すかさずアドルフが口を開く。
「おい。それは、ただおまえがやりたくないだけだろう?」
「そりゃあそうでしょう。言っておきますけど、殿下は一応王族なんですよ? 側近の俺は思った以上に忙しいんです」
アドルフの突っ込みに、クロイは唇を尖らせて言った。そして、ミネルヴァに向き直る。
「なんなら殿下の補佐の仕事も手伝ってもらいたいくらいです! 奥さまはとっても優秀なようですから!」
「おい。さすがに――」
「はい。がんばります!」
アドルフが苦言を呈しようとするよりも早く、ミネルヴァは目を輝かせ頷いた。
(ようやく夫人のお仕事ができるのね。……これで、ビジネスライクだわ)
結婚して最初に言われた言葉がずっと気になっていたのだ。
『われわれはビジネスライクな関係でいよう』
ミネルヴァはその言葉に賛同した。
しかし、ミネルヴァはまったく公爵家の女主人としての仕事をしてこなかった。
そう、まったくビジネスライクになっていないのだ。
これからは、公爵夫人としてビジネスライクができる。
アドルフは苦笑を浮かべた。
「仕事が増えたのに、嬉しいそうだな」
「はい。嬉しいです」
アドルフに、そしてシュダルン公爵家のみんなに喜んでもらいたい。その願いが叶えられるのだ。
嬉しくないわけがない。
嬉しすぎて踊り出したい気分だった。それは、クロイも同じなのだろう。
彼はミネルヴァの手を握りしめ、瞳を潤ませる。
「奥さまは神が与えてくれた救世主に違いありません」
「救世主になれるよう、頑張ります!」
二人が手を取り合ってワルツでも踊りそうな雰囲気の中、アドルフの咳払いが、浮かれた空気を引きしめた。
「二人とも。幸せに浸っているところ悪いが……」
アドルフが一冊の本を取り出す。
ミネルヴァは首を傾げる。
「これは?」
「母君の古い日記だ。昨日、君の実家から手に入れた」
「おかあさまの、日記ですか?」
ミネルヴァは継母が日記をつけていたことすら知らない。
思えば、継母の部屋に入ることはほとんどなかった。
ミネルヴァはアドルフから日記を受け取ると、まじまじと見つめる。
「見せるか迷ったんだが、君は知る必要がある」
アドルフの重々しい雰囲気に、ミネルヴァの喉が鳴った。
「ミネルヴァにはとっては少し苦しい内容かもしれない。どうする? 読むか?」
その口ぶりから、彼はミネルヴァよりも先に読んだのだろう。
ミネルヴァは少し悩んだ。
逃げてはいけないのだということはわかっている。けれど、これを開いたらすべてが変わってしまう気がした。
(こわいけど……)
ミネルヴァは日記をギュッと握り、顔を上げる。
「読みます。私は多分、おかあさまのこと、知らないといけません」
◇◆◇
たくさん泣いて、たくさん笑った翌日は、少しだけすっきりしていた。
早朝に起きなくてもいいと知ったけれど、慣れた身体はまだ日の昇らない時間には目が覚める。
妖精業は終わりとなったので、ミネルヴァはベッドの中で天井の柄を見つめることにした。
(昨日はいろいろなことがあったわ)
一日のできごととしては多いくらいで、頭がパンクしそうだった。
ミネルヴァにとっては世界がひっくり返ったような、そんな一日だったのだ。
(今日からもっと、頑張らないと!)
ミネルヴァは両手を天井に突き出し、拳を握った。
これからはこっそりではなく、堂々と動くことができる。
早朝にできることは限られていたから、昼間に動くことができるのはミネルヴァにとってはいいことだらけだった。
(今日からはアドルフさまのお仕事も助けられるのね)
アドルフはミネルヴァのために尽力してくれている。
感謝してもしきれないくらいだ。
それなのに、ミネルヴァは困らせてばかりで何もできていなかった。
(昨日もたくさんご迷惑をかけたから、朝になったら、アドルフさまにお礼を言わないと)
アドルフの顔を思い出して、ミネルヴァは布団に顔を埋める。
どうしてだろうか。
彼の顔を思い出すだけで、鼓動が早くなる。
部屋が静かなせいだろうか。ドクンドクンと脈打つ音が耳奥で響く。
パンの匂いが微かに漂ってきた。いつもなら幸せな気持ちでいっぱいになる。
けれど、今日のミネルヴァはサリがカーテンを開けてもずっとそわそわしていた。
◇◇◇
朝の支度の時間、ミネルヴァはいつも人形になった気分を味わう。
着替えも化粧も全部サリがしてくれるのだ。
実家ではほとんどのことを自分でしていたから新鮮だった。
「今日はこの髪飾りをつけてみませんか?」
サリが鏡越しに花の髪飾りを見せた。
ミネルヴァの知らないものだ。何個か髪飾りは持っていたが、どれもシンプルなものだった。
(そういえば、いくつか増やすと言っていたわ)
きっと、サリが増やしてくれたものなのだろう。
少しずつ変わりたいという希望をサリが汲み取ってくれたものに違いない。
試しにミネルヴァの髪の上に乗せると、花が咲いたように華やかになった。
「アドルフさまは変に思わないかしら?」
ミネルヴァの消え入るような声に、サリが微笑む。
「きっと、喜ぶと思います」
ミネルヴァはアドルフの笑顔を想像して、頬を朱に染める。そして、小さく頷いた。
◇
支度を終え、食事の席についても胸のざわめきは止まらない。
それどころか、ひどくなっている気さえする。
ミネルヴァはアドルフの顔を見ることができず、小さく俯いた。
ふかふかのパンが目の前で湯気を立てている。ミネルヴァはパンを一口台にちぎる。
「どうした? そのパンは苦手か?」
アドルフが心配そうにミネルヴァの顔を覗き見る。
ミネルヴァの胸がトクンッとはねた。
「お、おいしいです!」
ミネルヴァは慌てて叫び声を上げる。
アドルフが眉尻を下げた。
「まだ一口も食べてないだろう?」
彼の視線を追って、自身の手元を見る。すると、鳥の餌のように小さくなったパン屑が皿の上に散らばっている。
ミネルヴァは目を見開いた。
あんなにふかふかでおいしそうだったパンが無残な姿になってしまったのだ。
「ああ……。こんなにちっちゃく……」
ミネルヴァは思わず両手で顔を覆った。
アドルフは苦笑をもらす。怒ってはいないようだ。
「そういうこともある。新しいものを持ってこさせよう」
「いえ! これを食べます」
せっかくミネルヴァのために作ってくれたパンだ。処分するのはもったいない。
「なら、スープに入れてたらうまいんじゃないか?」
アドルフに言われたとおり、ミネルヴァは小さくなったパンの欠片を、スープに移していく。
スープに沈んでいくパンをミネルヴァは見つめた。
しっかりとスープを吸い込んだパンをスプーンですくう。湯気の立つスープは熱そうだ。
少しだけ息を吹きかけて、冷まして口に入れる。
口に広がったスープの旨味にミネルヴァは目を細めた。
パンはスープのおいしいをこれでもかというほど吸い込み、ミネルヴァの口の中で広がる。
「どうだ? うまいか?」
ミネルヴァはしっかりと飲み込むと、頷いた。
「はい。おいしいです」
食事中に言葉を口にするのはまだ恥ずかしい。
けれど、アドルフと会話をできるのは嬉しかった。
アドルフがふわりと笑った。
その瞬間、ミネルヴァの心臓が大きくはねる。




