21.妖精さんの正体
『はい。帳簿つけは奥様が幼いころから教えておりましたので』
使用人は目を細めて笑う。
『お嬢さまは素晴らしい方です。辺境の地で戦う旦那様を思い、節制なさっておいででした』
『なるほど、父親のため……か』
話を聞く前、アドルフは継母がヴァイゼン侯爵家の使用人を巻き込んでミネルヴァを虐げているのだと思っていた。
しかし、そうではないようだ。
継母は巧妙に周りの人間を騙し、ミネルヴァを『教え』という檻に閉じ込めていたのだろう。
使用人は三階のミネルヴァの部屋を案内する。
『こちらがお嬢さまの部屋です』
『この階は静かだな』
『三階は現在、奥さましかお使いになっておりませんから』
アドルフは使用人に愛想笑いを見せた。
『少し、一人にさせてもらってもいいだろうか。妻の部屋をゆっくり見て回りたい。君は仕事に戻ってくれ』
『かしこまりました。何かあれば使用人が二階におりますので、声をかけてください』
使用人は素直に頭を下げ、部屋を出て行った。
◇◇◇
アドルフは帳簿を取り出して言った。
「この帳簿を手伝った妖精は、おそらくミネルヴァだろう」
よく見れば、筆跡がミネルヴァのものだ。
一度だけ、彼女の字を見たことがあった。結婚式のときだ。
少し丸い可愛い字だった。
「そうでしょうとも」
「やっぱり奥さまが『妖精さん』だったのですね」
クロイとサリは納得顔で頷いた。
「なんだ、気づいていたのか?」
「帳簿だけじゃありませんよ。妖精さんは毎日、屋敷のどこかに現れて困りごとを解決してくれるんです」
「ああ……だから、最近みんな妖精の話をしていたのか」
毎日屋敷のことは報告を受ける。
しかし、そこに『妖精さん』の話はなかった。アドルフに報告するほどのことではないと判断されたのだろう。
しかし、使用人たちの口から『妖精』というワードが頻繁に出ていたのは理解していた。
「多分、みんな気づいています。不思議な現象が起き始めたのが、奥さまが来てからですし」
「そうか」
「それに、奥さまはみんなが嬉しそうに『妖精さん』の話をしていると、ほんのり嬉しそうに笑うので。みんな、奥さまが通るときを狙って妖精さんにお礼を言うんです」
彼女が嬉しそうに頬を緩める顔は容易に想像できた。
きっと、こっそりみんなの助けになろうとしていたのだろう。
もしかしたら、教えが関係しているのかもしれないが、彼女はそういうところがある。
「いやぁ~ようやく帳簿から解放される! これからは奥さまが帳簿担当だなぁ~」
クロイが帳簿を捲りながら嬉しそうに言った。
よほど嫌いだったのだろう。アドルフは苦笑をもらす。
クロイが帳簿を閉じると真面目な顔で言った。
「早く奥さまと母親を引き離しましょう。奥さまには長く健やかでいてもらわないと」
「私も賛成です。結婚したとはいえ、奥さまに接触するのは簡単ですから。これ以上奥さまが悲しむのは見ていられません」
「でも、奥さまは『おかあさま』を信じてるんですよね? 奥さまに『おかあさま』が悪い奴だってわかってもらうのは、至難の業では?」
「奥さまは純粋な方ですから」
クロイとサリが顔を見合わせ、肩を落とす。
「それに関してはいい者を手に入れた」
アドルフは引き出しの中から一冊の本を取り出す。
サリが本を手にしたときだった。
「あれ?」
クロイが窓を見て声を上げる。
「どうした?」
「外に奥さまみたいな影が見えたなと。いや、そんなことはないですよね。大雨なんだし」
アドルフが慌てて立ち上がり、窓のそとを見る。
強い雨が窓を打ちつけ外はよく見えなかった。雨が降る中、アドルフは窓を開いた。雨と一緒に強い風が吹き込む。
「ちょっ! アドルフさま!? 書類がっ!」
「ミネルヴァだ」
「えっ!? 奥さまはたしかにお部屋に――」
サリが困惑気味に言う。おそらく、サリが去ったあと一人で外に出たのだろう。
アドルフはサリの言葉を最後まで聞かずに、部屋を飛び出した。
◇◇◇
ミネルヴァは一人、庭園に佇む。
雨がミネルヴァの頬を濡らした。けれど、ミネルヴァは気にならなかった。
実家では雨の中を歩いたものだ。
反省するときや継母の言うことがわからないとき、『頭を冷やしてきなさい』と言って継母は雨の中に行くように促した。
雨音を聞いていると安心する。
(おかあさま、とても怒っていたわ)
ミネルヴァはギュッと胸を押さえる。
手を上げた継母の顔を思い出す。あんなに怒った顔は初めてだった。
今までどんなに失敗しても、継母は理性的だったのだ。
(私の説明が下手なせいで、おかあさまを混乱させてしまったのかもしれないわ)
継母は厳しくも優しい人だ。
ミネルヴァは実の母親の顔を知らない。ミネルヴァを生んですぐに亡くなったのだと聞いた。
そんな不憫なミネルヴァを、彼女は実の子のように育ててくれたのだ。
厳しいのは、ミネルヴァの将来を思ってのこと。ミネルヴァが嫁いで苦労しないためだ。
「――ヴァ」
(私が至らないせいでおかあさまを怒らせてしまったのね)
ミネルヴァは方を落とす。すると、突然肩をつかまれた。
「ミネルヴァ、何をしているんだ!?」
アドルフの顔を見てミネルヴァは目を瞬かせた。
「ア……ドルフさま?」
雨粒がアドルフの髪を濡らす。
(もしかして、また失敗してしまったのかしら?)
ミネルヴァには何が失敗だったのかわからない。どう言い訳をすれば、彼を安心させられるのか考えたけれど、答えは出なかった。
アドルフの眉根が寄る。眉間にできた皺にミネルヴァは肩を振るわせた。
「あの、これは――」
「話は部屋に戻ってからだ」
バサリと頭から上着をかけられる。
視界が真っ暗になった。
「ひゃっ!」
ふわりと宙に浮く感確に、ミネルヴァが小さな悲鳴を上げる。
アドルフがミネルヴァを横抱きにした。
「アドルフさま、大丈夫です。歩けます」
「だめだ」
真っ暗な中、身体が上下に優しく揺れた。
雨音とともに響くアドルフの心音。
なぜかとても安心する。今までの悩みなどどうでもいいような、そんな気持ちになる。
ミネルヴァは彼に身体を預け、ただ彼の心音に耳を傾けた。
屋敷に戻ると、ミネルヴァはサリや他の使用人たちにもみくちゃにされた。
まだ午前中だというのに、お風呂に入れられたのだ。
お風呂のあいだ、サリは怒っている様子だった。みんながなぜこんなに怒っているのかわからず、ミネルヴァは大人しくしているしかなかった。
お風呂から上がり、新しいドレスに着替えると待ち受けていたのはアドルフではない。――医師だ。
老齢の医師はにこやかにミネルヴァに挨拶をすると、さっそく質問を投げかける。
「どこか具合が悪いところはございますか?」
「ありません」
ミネルヴァは小さな声で答える。医師は「ふむ」と言い、ミネルヴァの熱を測った。
「熱はないようですね。ですが、このあと上がる可能性もございます」
「はい」
「怪我をしているところはございますか?」
「ありません」
「痛い場所は?」
「ないです」
なぜこんなに細かく聞かれるのだろうか。それからも続く診察にミネルヴァは目を白黒させた。
診察を終えると、医師はミネルヴァではなくアドルフに説明を始める。
ミネルヴァは蚊帳の外だ。
「奥さまは今のところ大丈夫でしょう。しかし、夜に熱を出すこともございますから、何かありましたらまたお呼びください」
「そうか。足労かけた」
「いえ、滅相もございません」
医師は立ち上がると、ミネルヴァににこやかな笑みを浮かべる。
「奥さま。この時期の雨は身体が冷えますからな。お気をつけください」
「はい。申し訳ございません」
ミネルヴァは深々と頭を下げた。
医師を見送ったあと、ミネルヴァはアドルフを見上げる。
「アドルフさま、いつものことなので安心してください。風邪を引くこともあまりないです」
風邪を引いたことがないとは言えない。
けれど、数日眠ればもとに戻った。だから、アドルフが心配することではないのだ。
しかし、アドルフは眉根に皺を寄せたままだ。
「なぜ、雨の中一人で出た? スケジュールどおりにこなさなくていいことは、わかっただろう?」
まるで子どもを諭すような声で語りかけられ、ミネルヴァは眉尻を下げる。
「考え事や反省をするときは雨の中が一番いいと。……これも違うのですね」
「そうだ。普通はそんなことはしない。風邪を引いてしまう」
「わかりました。ご迷惑をおかけして申し訳ございません」
ミネルヴァは深々と頭を下げる。
「いいや。君を一人にしたのが悪かった。君はまだ生まれたての赤子のようだということを忘れていた」
アドルフがミネルヴァの頭を撫でる。
その瞬間、ミネルヴァの頬に水滴が飛んだ。アドルフの前髪から落ちた水滴だ。
「アドルフさまの髪がまだ濡れています」
「私はいい。丈夫にできているから」
雨に濡れたままだったのだろうか。まだしっとりと濡れている。
(たくさん迷惑をかけてしまったわ)
これでは夫人失格だ。
ミネルヴァは肩を落とす。すると、アドルフがミネルヴァの頬を掴んだ。
「アドルフひゃま?」
「今、何を考えている?」
アドルフにまっすぐ見つめられ、ミネルヴァは目を瞬かせた。




