20.継母の計画
ミネルヴァはおそるおそる瞼を上げた。
「アドルフさま」
継母の振り上げていた腕をアドルフが制していたのだ。
「ミネルヴァ、怪我はないか?」
「はい。ありません」
アドルフは安堵のため息をついた。
「怒鳴り声が聞こえたかと思えば。どういう状況かわかりませんが、妻に手を上げるのはやめていただきたい」
アドルフの厳しい口調に、継母は何も言い返さなかった。ただ、何も言わずミネルヴァともアドルフとも目を合わせようとはしない。
「本日は失礼させていただきます。ミネルヴァ、帰ろう」
「はい。おかあさま、失礼します」
ミネルヴァはアドルフに促されそのまま実家をあとにしたのだ。
◇◇◇
ミネルヴァとアドルフの乗った馬車がヴァイゼン侯爵家をあとにする。
馬車が小さくなる様子を窓から見ながらミネルヴァの継母――ヴァイゼン侯爵夫人は奥歯を噛みしめる。
「たった数ヶ月の結婚でこんなに反抗的になるだなんて……」
ミネルヴァの反抗的な目が頭から離れない。
『おかあさま、私たちは間違えていたのです』
母親にあんな言葉を許すようには躾けていない。この十八年、時間をかけて従順になるように育ててきたはずだ。
(このままでいいはずがないわ。あの子は絶対に……)
ヴァイゼン侯爵夫人は拳を振るわせた。
◇◇◇
それは、ヴァイゼン侯爵家を訪問した次の日のこと。
久しぶりの雨だった。窓に打ちつける音が室内に響く。
朝食後、アドルフは執務室で押さえられない苛立ちを、書類にぶつけていた。
サインを書いた瞬間、バキッと大きな音がした。
アドルフの手の中でペンが真っ二つに折れている。
机の前に立っていたクロイとサリが顔を見合わせる。
「アドルフさま。ペンがあと一本しかないんで、そろそろ怒りを静めてください」
クロイが新たな書類とペンを差し出しながら、苦笑をもらす。
「私は怒ってなどいない」
「どう見ても怒っているでしょうよ。昨日、何があったんですか? 奥様も昨日からずっと上の空だし」
「私も知りたいです。奥様は帰ってきてからずっと上の空で、大好きなスイーツを出しても『はい』しか言わないのです?」
サリは苛立つように言った。
朝食後の時間、いつもならサリはミネルヴァと一緒に庭園を散歩している。
しかし、今日は朝から雨が降ってた。
彼女は朝食後、ミネルヴァを部屋に戻したその足で、すぐにアドルフのもとへとやってきたのだ。
それほどミネルヴァのことが気になるのだろう。
「どうもこうも、すべての元凶は『おかあさま』だ」
昨日のことを思い出して、アドルフは新たなペンを再びへし折る。
半分に折れたペンが何本も机に転がった。
クロイが「あちゃ~」と声をあげる。
「あの女に愛情なんてものはない」
「あの女って……。一応奥様の母君でしょうに」
「あれは『教え』と言って、幼いころからミネルヴァを洗脳し続けていた」
クロイとサリが顔を見合わせる。
「なんでしたっけ? 『夫人の嗜み全集』? 今どきあんなのを本気で信じている人なんて、奥様くらいですよね」
「子どものころからそれだけを教えてきたのだろう。ミネルヴァの言う『読書の時間』はあの本を覚えるための時間だったそうだ」
クロイが顔を歪める。
『夫人の嗜み全集』は内容が古いだけではない。二百年以上前の本だ。文字の使い方も今とは随分違っている。それは古典の域だ。簡単に読めるものではない。
黙っていたサリが口を開く。
「たしか、奥様には仲のいいご友人もいないのですよね?」
「ああ。そうみたいだな。それもあの女の計画のうちだろう」
以前クロイがミネルヴァに関して調査をしたことがる。
その調査によると、ミネルヴァにはまともな交友関係がない。
「いつも他人を見下している」「私たちの話には興味がないみたいだ」と同年代の令嬢たちは口を揃えて言っていた。
「君たちも最初は困惑しただろう?」
「そうですね。言葉数も少ないですし、何を考えているのかわかりませんでした」
サリは深く頷いた。
教えに従って行動していたミネルヴァは令嬢たちからしてみれば、異常に見えたのだろう。
いつもつまらなさそうな顔をし、スイーツは口にしない。
食事中に言葉を発していないということは、おそらくお茶会のあいだミネルヴァは終始無言だったに違いない。スイーツは口にしなくても、紅茶は口にしているだろうから。
「つまり、奥様の母親は友人を作らせないようにして、情報を遮断していたということですか?」
「そうだ」
理由がわかれば驚くことでもない。
しかし、理由を知らなかったころアドルフたちは困惑の連続だった。アドルフにはそれを紐解く機会があったが、令嬢たちにはそれがない。
そうやって、ミネルヴァと令嬢たちの距離はどんどん開いていったのは想像に容易い。
クロイが肩を揺らして笑う。
「実はヘンテコな教えを頑張って守ろうとしていたなんて、面白い話ですよね」
「笑うな。ミネルヴァは真剣だったんだ」
「はいはい。アドルフさまは奥様のことになると沸点が低くなりますね」
怒りたくもなるのは当然だ。
この数ヶ月でミネルヴァの純粋さはじゅうぶんにわかった。
ミネルヴァは、ヴァイゼン侯爵が飲みながら語っていた「目に入れても痛くない娘」そのものだったのだ。
彼女は継母の教えをまったく疑うことなく「愛情」と信じている。
「食事は一口ずつ。スイーツは食べたことがない。読書の時間に古典を暗唱して。決められたスケジュールどおりに生活って、なんだか修道院のようですね」
サリがポツリと呟いた。
「今どき、修道院でも砂糖の味は知っているだろう」
「奥様はずっとひどい環境にいたのですね」
サリが瞳を潤ませた。
日が経つにつれて、彼女はミネルヴァに傾倒していっている。
アドルフとしてもそのほうが助かるのだが、最近は過保護さが増しているような気がした。
「ヴァイゼン侯爵は何も知らなかったのでしょうか? たしか奥様を溺愛されていると聞きましたが」
「侯爵はほとんど辺境の地にいる。気づかなかった可能性は大きい」
継母は巧妙だ。
『夫人の嗜み全集』の教えを誰にも言わないようにしているようだった。
年に一度か二度しかミネルヴァに会えないヴァイゼン侯爵が気づかないのも無理はない。
しかもヴァイゼン侯爵は根っからの軍人だ。女性の変化に疎くてもおかしくはない。
「ヴァイゼン侯爵家で少しだけ使用人たちに話を聞く機会があったのだが……」
アドルフは昨日のことを思い出して、ゆっくりと息を吐いた。
◇◇◇
アドルフが一人になることができたのは、継母が「ミネルヴァと二人きりになりたい」と言ったときだった。
ミネルヴァから『おかあさまと二人きりで話をする時間がほしいです』とお願いされていたこともあって、アドルフはあっさりと承諾した。
『ミネルヴァの部屋が見たい』と言い、屋敷の使用人に案内してもらっていたときのことだ。
アドルフは使用人に尋ねた。
『ミネルヴァはここではどんな子だった?』
『とても優秀で、われわれは助かっておりました』
『そうか。私たちも助かっている』
『そうでしょう。公爵夫人としてご活躍されていることでしょう。われわれは少し大変な思いをしておりますが』
使用人は苦笑をもらす。
アドルフは首を傾げた。たった一人屋敷からいなくなったくらいで困ることがあるだろうか。
夫人がいなくなったなら話はわかる。しかし、ミネルヴァはただの娘。
逆に娘が減れば仕事が減って楽になると思うのだが。
『お嬢さまは屋敷のことなら料理以外のことはなんでもできますから。帳簿つけから何から何まで。いなくなってからはてんやわんやです』
『帳簿つけも?』
使用人の言葉に、アドルフは目を丸くした。




