19.初めての反抗
継母はアドルフに淑女の礼をとった。
「殿下、ようこそお越しくださいました」
「おひさしぶりです。このたびは突然申し訳ございません」
「あら? 親族になったのですから、いつでも大歓迎ですわ」
彼女は笑みを浮かべたまま、ミネルヴァに視線を向ける。
彼女はミネルヴァを見た途端、わずかに眉根を寄せる。けれど、それも一瞬だ。
すぐに笑顔に戻った。
ミネルヴァは緊張した面持ちで継母に声をかける。
「ただいま帰りました。おかあさま」
「ミネルヴァ、おかりなさい。元気にしていた?」
「はい。とても元気です」
「こんなところに二人を留めておいたら怒られてしまうわね。中へどうぞ」
継母ミネルヴァとアドルフを応接室へと案内した。
屋敷の中はミネルヴァのいたころと変わらない。
しかし、どこか遠くに着てしまった気分だ。もう、ここはミネルヴァの居場所ではない。そんな気持ちだった。
屋敷のメイドがスイーツと紅茶をテーブルに置いていく。
(初めて見るわ)
ケーキの形をしているけれど、薄い布のような生地とクリームが何層にも重なっている。
断面からはフルーツが見えた。
「最近、巷で流行っているそうですの。よろしかったらぜひ」
(スイーツは食べてはだめ。きっとこれも間違いなのよね)
アドルフとサリには確認を取っていない。
けれど、おそらくそうだ。
きっと、ミネルヴァが今ここで食べたら継母は怒るに違いない。
(でも、食べなかったらアドルフさまが変に思うわ)
間違いだと知ってなお、正せないミネルヴァにがっかりするかもしれない。
(どうしたらいいのかしら?)
「ミネルヴァ、うまいぞ。ほら」
アドルフがフォークで一口分を切り取ると、ミネルヴァの口元に差し出す。
ミネルヴァは思わず口を開けてしまった。
気づいたときにはもう遅い。ケーキはミネルヴァの口の中だ。
いけないとわかっていたけれど、口の中に広がるクリームの甘さにミネルヴァは頬を緩めた。
フルーツの酸味が甘さを緩和する。
薄い生地の正体はわからなかった。けれど、わずかな甘みがあって柔らかい。ミネルヴァは味わうように咀嚼した。
「うまいだろう?」
ミネルヴァは何度も頷く。
言葉を発してもいいということはわかっている。しかし、口の中に食べ物が入っているときは例外だと教えてもらった。
「ほら、もう一口」
アドルフがすかさずケーキをミネルヴァの口に運ぶ。
困ったことに彼に差し出されると、つい口を開けてしまう。
「とても仲がよろしいのね」
継母の高い声にミネルヴァは肩を跳ねさせる。
すっかり継母の存在を忘れてしまっていた。
ミネルヴァはおそるおそる継母に視線を向けた。叱られることを覚悟していたのだ。
しかし、継母笑顔のままだった。
(よかったわ。怒っていないみたい)
ミネルヴァはホッと胸を撫で下ろす。
いつもであれば、その場で膝立ちにさせられ、反省を促されただろう。
膝に痣ができるまで怒られることはよくあることだった。
「殿下、少し娘を借りていいでしょうか?」
「もちろん。では、私が席を外しましょう。ミネルヴァが生活した部屋を見せていただいてもいいですか?」
「構いませんわ。案内させますね」
継母が使用人を呼ぶ。彼女は使用人にアドルフの案内を頼んだ。
「では、失礼」
アドルフはミネルヴァの頭を撫でると使用人とともに部屋を出て行った。
シンッと部屋が静まりかえる。
どのくらい無言の時間が続いただろうか。
(なんと言えばいいのかしら?)
ミネルヴァが伝えたいことは一つだけだ。
今まで教えてもらってきたことは間違いだったかもしれない。
たったそれだけだけれど、どう切り出していいのかわからなった。
(きっと、突然言われたら驚くわ)
すぐに信じられなくてもしかたない。
ミネルヴァはとても驚いたし、アドルフたちの言葉を信じたくない気持ちもあった。
ずっと間違いを真実だと思って生きてきたのだ。
自分が間違っていたのだと受け入れるはとてもこわい。
(でも、知らないふりをするなんてだめよ)
継母に黙って、一人だけ幸せになるのは間違っている。
ミネルヴァはドレスのスカートを握りしめた。
せっかく新しく買ってもらったドレスに皺が寄る。慌てて皺を伸ばした。
継母はいつもミネルヴァのことを考えてくれていた。
(そうよ。おかあさまにも本当のことを教えないと!)
「お――」
「どう? あちらには迷惑はかけていない?」
ミネルヴァが言葉を発しようとした瞬間、継母が尋ねた。
ミネルヴァは言葉を飲み込み、小さく頷く。
「はい。頑張っています」
「そう。殿下とは、とても仲がいいみたいね」
「はい。アドルフさまは、とてもよくしてくださいます」
ミネルヴァは胸を張って言った。アドルフやシュダルン公爵家のみんなはみんな優しい。
天国のような場所だ。
未熟なミネルヴァを追い出しはせず、あたかかく迎え入れてくれた。
どんなに素晴らしいところに嫁いだか、わかってほしかったのだ。
しかし、継母は大きくて深いため息をつく。
「だったら、どうしてよくしてくださっている殿下の顔に、泥を塗るような真似をしたの?」
棘のある言葉に、ミネルヴァは身を強ばらせた。
「結婚して数年は節制し、ドレスの購入を控えるように教えたのを忘れたの?」
「覚えています」
「だったら、なぜドレスの新調をしたの?」
「アドルフさまが買ってくださいました」
「ミネルヴァ、そういうときは断るように教えたでしょう?」
ミネルヴァは唇を噛みしめた。
継母に怒られると胸が締めつけられ、思うように言葉が出ない。
「このままでは金遣いが荒い女だと嫌われるわ。いい? これからはしっかり教えたことを守るのよ?」
継母が早口で言う。
「ミネルヴァ、聞いているの?『はい』と言いなさい」
ミネルヴァは小さく頭を横に振った。
「ア……アドルフさまはそんなことを言う方ではありません……!」
「何を言っているの? おかあさまの言うことが聞けないの?」
「おかあさま。落ち着いて聞いてください」
ミネルヴァはゆっくりと息を吐いた。
心臓が早歩きになる。
「おかあさまの教えてくださったことは、少し間違いがあることがわかりました」
ミネルヴァは遠慮がちに言った。教えがまったく現代に則してしないと言ったら卒倒してしまうと思ったからだ。
想像どおり、継母は眉根を寄せる。
信じたくない。そんな顔だと思った。
「殿下にそう言われたのね?」
「はい。そうです」
「馬鹿ね。どうしてその言葉を信じるの?」
ミネルヴァは手を握りしめた。
「アドルフさまは正しいです」
「その証拠はどこにあるの? あの方は軍人よ。私たち貴族女性のことはわからないわ」
「アドルフさまだけではありません。サリも言っていました。サリは子爵家の令嬢です」
貴族の女性が言っていると言えば理解してくれると思った。
「いい? 子爵家の令嬢が侯爵家と同じ教育を受けているわけがないの」
「でも、みんなもっと自由です。きっと、この教えが間違って――」
「あなたは私の言うことを聞いていればいいの!」
継母が怒鳴り声を上げた。彼女がそんなふうに大きな声を上げるのは初めてだった。
ミネルヴァは驚きに目を見開く。
彼女はミネルヴァの腕を引くと、ミネルヴァ床の上に跪かせた。
「いつものように『はい』と言いなさい! そう、教えたでしょう?」
ミネルヴァはゆっくりと起き上がって、継母を見上げた。
そして、頭を横に振る。
「言いません。おかあさま、私たちは間違っていたのです」
継母の頬がひくりと動く。
彼女が手を上げた。ミネルヴァは覚悟を決めて固く目を閉じる。
しかし、その手がミネルヴァの頬を打つことはなかった。
「お義母さま。それ以上はやめていただきたい」




