18.ミネルヴァの正解探し
ミネルヴァの言いたいことが伝わらなかったようだ。
サリは困ったように眉尻を下げる。
「正解とはどういうことでしょうか?」
ミネルヴァは思案する。
正解とは何か。ミネルヴァにもわからない。
「アドルフさまに、私の信じていたものは古いと教えてもらったわ」
「いつも読んでいらっしゃった本が、少し古いものだと聞いています」
「はい。私にはどこが今と違うのかわからないの」
「つまり、奥様は今の時代に考えを合わせたいということですね?」
「はい」
ミネルヴァは大きく頷いた。
「わかりました。私は何をしたらよろしいでしょうか?」
「私の行動が少しでもおかしかったら、すぐに教えてほしいの」
「なるほど……。わかりました」
「よろしくお願いします」
ミネルヴァは鏡に向かって深々と頭を下げた。
頼れるのはサリとアドルフだけだ。
サリは子爵家の出だと聞いた。貴族の令嬢のことも詳しいだろう。
「頭を上げてください。私はいくらでもお付き合いしますから」
「ありがとう」
サリは満面の笑みを見せた。
ミネルヴァはホッと安堵のため息をつく。
断られてしまったら、もう頼る人はいないからだ。
◇◇◇
ミネルヴァが食事の席についてすぐ、アドルフも食堂に顔を出す。
いつも通りの朝食が始まった。
「おはようございます」
「おはよう。よく眠れたか?」
「はい。よく眠れました」
本当は深夜まで眠れてはいない。だから、今日はとても眠かった。
「昨日は歩き回ったから疲れただろう? まだ疲れが取れていないようなら、ダンスレッスンは休みにしよう」
「平気です。頑張ります」
「なら、いつも通りに」
アドルフとミネルヴァが会話をしている中、朝食が運ばれる。
パンはぐるぐると巻かれ、三日月の形をしている。この形のパンは見たことがなかった。
「これはクロワッサンだ」
ミネルヴァはクロワッサンをジッと見つめる。
どんな味がするのだろうか。
今日は一緒にバターが置かれていない。パンと一緒にバターが出されることが多いのだ。
忘れているのかと思ったが、アドルフの席にもバターはなかった。
「それは、そのまま食べていい」
アドルフが見本のようにクロワッサンを一口大にちぎって口に放り込む。
ミネルヴァも真似をして、クロワッサンを口に含んだ。
じわりと広がったバターの味に、ミネルヴァは目を丸くする。
鼻に抜けるほどバターの風味が強い。
「どうだ? うまいか?」
いつもの問いにミネルヴァは何度も頷く。なんと罪深い味だろうか。
たっぷりのバターをかじったような、そんな雰囲気すら感じる。
すると、食堂の端で佇んでいたはずのサリが、ミネルヴァの側に来て遠慮がちに口を挟んだ。
「旦那様、奥様、お食事中に失礼致します」
ミネルヴァは食事の手を止め、顔を上げる。
「一つお伺いしますが、お食事中に言葉を出さないのも、本の『教え』にあるのでしょうか?」
ミネルヴァはわずかに悩んだあと、小さく頷く。
アドルフの眉根がわずかに寄った。
「ミネルヴァが食事中静かになるのは、おいしいからではないということか?」
「どうやら、そう本に書いてあるからのようです」
食堂が静まりかえる。
ミネルヴァはクロワッサンを飲み込むことができず、小さく咀嚼を続けながら二人の顔色を伺った。
(また、迷惑をかけてしまったのかしら?)
アドルフが子どもを諭すような優しい声色で言った。
「ミネルヴァ、食事の席では話をするものだ」
「……そうなのですか?」
思わず声に出してしまい、慌てて両手で口を押さえる。
しかし、二人の視線を感じゆっくり手を下ろした。
「そう、本に書いてあったのか?」
「はい。『食事の席で音を出してはらない』と」
「『喋ってはいけない』とは書いていないんだろう?」
「はい。ですが、『言葉も音だ』とおかあさまが言っていました」
『夫人の嗜み全集』はとても難しい本だ。文章が独特で意味がわからないところも多い。
そんなときは継母がどう解釈されるのか、細かく示してくれるのだ。
「おかあさまが、か。実家ではいつも静かに食事をしていたのか?」
「はい」
継母との食事はいつも静かだった。
幼いころはつい口を開いて、注意されたことは何度もある。静かに食べる練習のために、一人で食事をとっていたこともあった。
「これも間違った教えなのでしょうか?」
「すべてが間違っているわけではない。食器の音を出すのはよくないことだ。けれど、話しをすることはマナー違反ではない」
「そうなのですね」
ミネルヴァは眉尻を下げる。
「私としても返事をもらえたほうが嬉しい。初めは難しいだろうが、ゆっくり慣れていってくれないか?」
「はい。がんばります」
しかし、ミネルヴァはすぐに時計を見上げた。
散歩の時間だ。
立ちあがろうとするのをサリが静止する。
「奥様、もしかして時間通りに行動するのも、『教え』が関わっているのではありませんか?」
ミネルヴァは困ったように眉尻を下げ、頷いた。
「『規則正しく生活すること』と」
「奥様は本の内容を超解釈する天才であられますね」
「そうなのかしら?」
「はい。規則正しくと言われて、毎日同じ時間に同じことをするのは奥様くらいだと思います」
また失敗してしまった。
今日は失敗続きだ。それくらい、ミネルヴァは間違っていたのだろう。
「では、時間が過ぎても食事をしていてもいいのかしら?」
「もちろんです。少しくらい散歩の時間が短くなってもいいではありませんか。読書の時間をずらしてもよろしいのですよ?」
「そうなのね。難しいわ」
実家では、決められた時間を一分でも違えれば叱られていた。
「だから奥様はいつも時計を気にされていたのですね。守らなければならない時間は私が管理しますから、安心して過ごしていいのですよ?」
「はい」
(違うことがたくさんで混乱しそうだわ)
「そのスケジュールは母君が決めたのか?」
「はい。完璧な淑女になるための完璧なスケジュールです!」
ミネルヴァは強く頷いた。
「どんなスケジュールなんだ?」
「朝食をとったあとは散歩をして、そのあとは読書の時間です」
ミネルヴァは決められたスケジュールを指を折りながら説明した。
もう十年、この時間を守っている。
アドルフとのダンスレッスンが入って少し変わってしまったが、それ以外は変えていない。
「それを毎日こなしていたのか?」
「はい。規則正しく生活するのは間違っているのでしょうか?」
「スケジュールに拘る必要はない。きっと、本の作者はさしずめ『夜遅くまで遊びあるくな』と言いたかったんだろう」
「難しいです」
ミネルヴァは眉尻を下げる。しかし、感情を表に出ていることに気づいて。唇を真一文字に結んだ。
すると、すかさずサリが尋ねる。
「奥様、そのお顔も教えですか?」
「はい。もしかして。これも間違いですか?」
「どのような教えなのですか?」
「『感情を表に出してはならない』と」
それを聞いた瞬間、アドルフが吹き出した。
「悪い。そうか。それは感情を隠している顔だったのか」
「はい。感情を隠すのが一番苦手です」
「そうだな。ミネルヴァの顔はどちらかというと素直なほうだ」
彼は笑いながらミネルヴァの頭を撫でる。
褒められてはいないけれど、怒ってはいないようだ。
「無理に感情を隠す必要はない。少なくとも、うちでは」
「そうですよ。ここには奥様の敵はおりません。笑いたいときは笑っていいのですよ」
(笑いたいときは笑う……)
想像すると難しい。
ミネルヴァは両手で両頬を何度ももんだ。
「その顔でいるように、母君が指導したのか?」
「はい。私は小さいから威厳が出るようにと」
「なるほど。スケジュールも母君が?」
「はい。おかあさまが考えてくださいました」
「そうか。どうして母君はミネルヴァに間違いを教えてきたんんだろうな」
アドルフの問いにミネルヴァは眉根を寄せる。
しかし、すぐに思い至ってミネルヴァは立ち上がった。
「おかあさまも知らないのかもしれません!」
アドルフとサリは目を丸くする。
この本は継母から受け継いだものだ。継母もこの本で育ったに違いない。
『夫人の嗜み全集』はとても古くて、今の時代には合わないものだと教えてあげないと、継母も大変な思いをしてしまうかもしれない。
「おかあさまに教えてあげたほうがいいのでしょうか?」
「そうだな。せっかくだ。二人会いに行けるように手紙を送っておこう」
「はい。よろしくお願いします」
ミネルヴァはアドルフに深々と頭を下げた。
まだミネルヴァには正解の区別がうまくつかない。けれど、正解を知っているアドルフと一緒ならば安心だ。
◇◇◇
ミネルヴァは緊張した面持ちで馬車を降りる。
実家に帰るのは、結婚して初めてだ。
「緊張しているのか?」
「はい。おかあさまを驚かせてしまうと思うと」
ミネルヴァは眉尻を下げる。
ミネルヴァは先日ドレスサロンで買ったドレスを着た。
新婚でも新しいドレスを買っても問題ないのだと、教えるためだ。
アドルフやサリに提案されたドレスは可愛かったが、肌が出るドレスだったため却下した。
ミネルヴァにまだその勇気はなかったといういうものある。
それ以上に、そこまですると継母が卒倒してしまうのではないかと思ったのだ。
アドルフはミネルヴァの頭を撫でる。
「大丈夫だ。側にいるから」
「はい。ありがとうございます」
どうしてだろう。アドルフがいると思うだけで安心する。
彼が軍人だからだろうか。
すると、屋敷から継母と使用人たちが出迎えに出てきた。




