17.憧れのドレス
それはミネルヴァにとって、想像もできないことだ。
(肌を男の人に見せるだなんて……)
何度も継母から「いけないこと」だと教わった。
『夫人の嗜み全集』にもしっかりと書かれている。『夫人の嗜み全集』がとても古い本だということは理解したのだが、長年染みついた感覚は簡単には取れない。
肌を出した姿を見られるのはとても恥ずかしのだ。
「旦那様は奥様の夫なのですよ? 見せなかったらがっかりします」
「がっかり……。それはいやよ」
アドルフのがっかりした顔は苦手だ。
できれば笑っていてほしい。笑っているとミネルヴァは幸せな気持ちなる。
「では、可愛いドレス姿を見ていただきましょう」
「はい。がんばります」
ミネルヴァは小さく頷いた。そして、試着室の扉をそっと開ける。
扉の向こう側ではアドルフが本を読みながら待っていたようだ。
「あ、あの……。アドルフさま」
ミネルヴァは扉の隙間から顔を出し、アドルフの名を呼んだ。
彼はようやく気づいたようで、本から顔を上げた。
「着替え終わったか?」
「はい。終わりました」
「どうして顔だけ出しているんだ?」
「それは……」
恥ずかしいからだ。
それを言うのも恥ずかしくて、ミネルヴァは唇を噛みしめる。
(が、がんばります……!)
気合いを入れると、ミネルヴァは勢いよく扉を開ける。そして、彼の顔を見ていられず、ギュッと目をつぶった。
「ど、どうでしょうか?」
こういうドレスを着るのは初めてだ。おかしくはないだろうか。
しばらくの沈黙のあと、アドルフがぽつりと呟いた。
「よく似合っている」
「ほ、本当ですか?」
「ああ、本当だ。今まであのドレスを着ていてくれてよかった」
「どういう意味でしょうか? やっぱりあのドレスのほうがいいですか? 着替えてき――」
「違う。そういう意味じゃない」
アドルフの言いたいことがわからず、ミネルヴァは目を瞬かせる。
このドレスが似合わないということではないのか。
「もしこの可愛いドレスを着ていたら、君の結婚はもっと早く決まっていただろう」
真面目な顔で言うアドルフにミネルヴァは再び目を瞬かせた。
「そんなことはないと思います」
結婚は親が決めるものだ。
父がアドルフを選んだのだから、ミネルヴァがどんなドレスを着ていても、この結婚は変わらなかったと思う。
うしろからサリの笑い声が聞こえて、ミネルヴァは振り返った。
「旦那様、その言葉では奥様には通じないと思います」
サリが呆れ気味に言う。
彼女の言葉の意味がわからず、ミネルヴァは首を傾げた。
「ご安心ください。旦那様はドレスが似合っていて、とても可愛いと言いたかったのです」
「そうなのね。ありがとうございます」
ミネルヴァはホッと胸を撫で下ろす。
もし似合っていないのなら、早く着替えたかった。
「奥様、他にも素敵なドレスがたくさんあります。試着をしてみましょう」
「え……一着だけじゃ……」
「一着も二着も変わりません」
「そうかしら?」
「そうですよ。あ、このドレスはいかがでしょう?」
サリが新しいドレスを指さす。
こうして、気づけばミネルヴァは二着どころではなく何着も試着を繰り返すことになったのだ。
そのたびに店員のみならず、サリやアドルフも褒めてくれた。それが少しだけむずがゆい。
肩を出す恥ずかしさは変わらなかったけれど、少しだけ悪くないと思うようになった。
「えっ!? これをすべて買うのですか!?」
ミネルヴァは思わず大きな声を出してしまい、慌てて両手で口を押さえる。
完璧な淑女は大声を出さないものだ。
「気に入っていただろう?」
「ですが……」
とても可愛くて、ミネルヴァがずっと憧れていたドレスに似ている。けれど、どれも肩も腕も出ているドレスだ。
今の時代はもう着ても大丈夫だと、頭では理解している。しかし、染みついた考えが「やめておいたほうがいい」と言っていた。
「すぐに着なくてもいい。とりあえず買うだけだ。それならどうだ?」
「着ないかもしれないドレスを買うだなんて。それこそ無駄遣いです」
ミネルヴァは眉根を寄せる。
「ミネルヴァ。何時間もサロンにいたのに、一着も買わなかったらどうなると思う?」
「わかりません」
「明日には『アドルフ・シュダルンは妻に一着もドレスを買い与えない守銭奴』と言われるだろう」
「それはだめですっ!」
ミネルヴァは再び叫んだ。
無駄遣いはよくない。しかし、アドルフが悪く言われるのはもっとよくない。
彼は王族で軍人で、国を守る英雄なのだから。
「私のために、このドレスを買わせてくれ。これは私のわがままだ」
「……わかりました」
アドルフが小さく笑う。そして、ミネルヴァの頭を撫でた。
「ありがとう」
「いえ。私のほうこそ教えてくださり、ありがとうございます。もう少しで、アドルフさまに迷惑をかけるところでした」
ミネルヴァはホッと胸を撫で下ろす。
「今着ているドレスは肩も腕も出ていない。これなら、着ても平気か?」
「はい。とても安心します」
フリルやレースは少ない。
けれど、刺繍が施されたドレスはとても可愛かった。
腕や肩は隠れているけれど、ミネルヴァの今まで着ていたドレスとはぜんぜん違う。
「なら、これはこのまま着ていこう」
「はい」
店員たちが次々と荷物を馬車に運ぶ。
荷馬車が一杯になった。
「さあ、次に行こう」
「次? 帰るのではないのですか?」
「せっかく外に出たんだ。行きたいところがある。付き合ってくれるか?」
「もちろんです。おともします」
何時間もアドルフを付き合わせてしまった。ドレスサロンなど、男性にはつまらない場所だろう。次はミネルヴァが付き合う番だ。
ミネルヴァは拳を握り強く頷いた。
◇◇◇
帰宅してからもミネルヴァは夢見心地だった。
いまだ雲に乗ったようなふわふわした気持ちだ。
アドルフが「行きたい」と行ったところは、カフェだった。
サリがこっそり教えてくれたのだが、とても有名なカフェなのだとか。
そこの一室を貸し切ってくれて、おいしいスイーツを食べさせてもらった。
それだけでは終わらない。
とても広くて綺麗な庭園を散歩して、池にあったボートに乗った。
どれもミネルヴァには初めてのことだ。
アドルフが笑うたび、幸せな気持ちが増えていった。
きっと、今日という日は一生忘れないだろう。
人生の初めてがギュギュッと詰まった一日だった。
(楽しかった)
ミネルヴァはふかふかの布団を抱きしめる。
もう寝ないといけない時間から、一時間も過ぎていた。
しかし、眠れそうにない。気持ちが高ぶっていて、眠くならないのだ。
ミネルヴァはそっとベッドから抜け出る。
裸足のまま、衣装部屋に移動した。そして、衣装部屋に置いてあるランプをつける。
衣装部屋の一番手前には、今日買ったひらひらでふわふわのドレスが並んでいた。
ランプの灯りを受けて、わずかにキラキラと光っている。
(キラキラ。ふわふわだわ)
ミネルヴァは衣装部屋の床に座ると、ドレスたちを見上げる。
自然と頭の中に音楽が流れた。――アドルフと初めて踊ったダンスの曲だ。
アドルフとのダンスはとても楽しかった。
このふわふわのドレスで踊ったら、もっと楽しいだろうか。
(きっと私はたくさん、迷惑をかけていたわ)
とても古い教えを信じていたせいで、アドルフたちに苦労をさせてしまった。
(迷惑をかけてばかりは、やっぱりいやよ)
みんなには笑っていてほしい。
そして、その中にミネルヴァ自身も一緒にいたい。
そのためには自分が変わらなければならない。そう、思った。
◇◆◇
サリはいつも決まった時間になると部屋のカーテンを開ける。
その数時間前にミネルヴァは起きているのだが、いつも眠っているふりをしていた。
そのほうがこっそりと「妖精さん」をすることができるからだ。
今日もサリ決まった時間にカーテンを開けた。
「奥様、おはようございます。よく眠れましたか?」
「はい。よく眠れました」
「よかったです。では支度をしましょう」
「はい」
いつものように着替えをし、身支度をする。
鏡台に座って、ミネルヴァは鏡越しにサリをまっすぐ見た。
「サリ、お願いがあるの」
「なんでしょうか?」
ミネルヴァは小さく拳を握る。
(変わるって決めたのよ)
「正解を教えてほしいの」
ミネルヴァの言葉にサリは首を傾げ、目を瞬かせた。




