16.二百年以上前の教本
アドルフの言葉に従って、ミネルヴァはおずおずと顔を上げる。
(離婚って言われてしまうかしら。でも、今まで秘密にしていた私がいけないのよね)
被害者はアドルフだ。
できの悪い妻を知らず知らずのうちに貰っていたのだから。
「ミネルヴァ。この本はあまりにも古い」
アドルフの言っている意味がわからず、ミネルヴァは目を瞬かせた。
「この本がいつ書かれた本か知っているか?」
「わかりません」
「少なくとも二百年前にはあった本だ」
「二百……」
「つまり、君のおばあさまのおばあさまの……ずっと昔の令嬢に向けられて書かれた化石のような本ということだ」
アドルフは「こんなのどこで見つけてきたんだ?」と興味深げに捲る。
「暗記と言っていたな?」
「は、はい。半分は覚えたのです。でも、まだ半分は……」
「この本を半分も暗記したのか!?」
アドルフは驚いているような、呆れているような顔でミネルヴァを見た。
ミネルヴァは肩をすくめながら、小さく頷いた。
「半分も」ではない。「半分しか」覚えられていない。それが申し訳なく思った。
「そもそも使っている字も今とはだいぶ違う。なにせ二百年以上前の本だ。読めたもんじゃない」
「大丈夫です。残りも頑張ります!」
完璧な夫人になるためだ。
努力は惜しまないつもりだった。しかし、ミネルヴァの気合いとは反対に、アドルフは眉根を寄せたままだ。
なんだか話が噛み合っていないような気がする。
「この本に書いてあったから、ドレスをいらないと言ったのか?」
アドルフの問いに、ミネルヴァは小さく頷いた。
『夫人の嗜み全集』には結婚の心得がしっかりと書かれている。
『嫁いですぐ行うと嫌われし行動』とういう項目だ。
『金遣い荒いこと。ドレスを何着も欲するのは夫を落胆させ、世間から後ろ指をさされる。夫人の義務を果たせし者のみ許されること』
この「夫人の義務」とは世継ぎを産むことだと別の項目で書かれている。
だから、その義務を果たすまでの数年間はドレスを買わないのが一番だということだ。
そのため、可能な限りたくさんのドレスを持参したほうがいいとも書いてあった。
それは継母の教えとしっかり一致する。
アドルフが深いため息をついた。
「ミネルヴァ、落ち着いて聞いてほしい」
「はい」
「この本は古すぎる。これは遥か昔、二百年以上前の常識だ。二百年前は大飢饉があった時期だ。貴族も節制を強いられた」
「はい」
「豊かになった今の時代、これを参考にしている令嬢は国中探してもミネルヴァしかいないだろう」
ミネルヴァは目を瞬かせた。
アドルフの言っている意味を飲み込むまでに時間がかかったのだ。
(意味がわからないわ)
アドルフはミネルヴァに何を伝えたいのだろうか。
ミネルヴァは『夫人の嗜み全集』をジッと見つめる。
ミネルヴァは継母の教えと、この本を頼りにずっと生きてきた。
完璧な夫人となるため。未来の夫に恥をかかさないため。そして、ヴァイゼン侯爵家のために。
「では、これは間違いですか?」
「間違いとは言わない。二百年前は正解だった。だが、今はの時代にはそぐわないということだ」
「そぐわない……」
「つまり、今の時代は新婚だろうと、ドレスを好きなだけ買ってもいいということだ」
アドルフが優しく笑う。
ミネルヴァの心臓がほんの少しはねた。
彼がミネルヴァの手を取る。
「明日、一緒にドレスを買いに行こう。どうだ?」
まだ、彼の言っていることの半分も理解でいていなかった。
けれど、気づけばミネルヴァは小さく頷いていたのだ。
◇◇◇
シュダルン公爵家の馬車はドレスサロンの前に到着した。
サリ曰く、国中で一番有名で、令嬢の中では憧れのドレスサロンだという。
ミネルヴァにはよくわからなかったが、窓からちらりと見えるドレスを見ただけで、気持ちが上向きになった。
「アドルフ殿下、夫人。ようこそお越しくださいました」
店員が並んでミネルヴァたちを迎え入れる。
どの店員の服装もお洒落だった。屋敷に勤める使用人のようなお仕着せはないようだ。
それぞれ、洗練された服装でミネルヴァたちの前に立っている。
その中でも「店主だ」と名乗った女性は誰よりも輝いていた。社交界の中心にいるような華やかな女性だ。
「突然悪いな」
「殿下に起こしいただけて感動しております。このたびはご結婚おめでとうございます。国中の女性が涙をのんだことでしょう」
「世辞はいい。妻に合うドレスが見たい」
「かしこまりました。どうぞこちらへ」
店主に案内され、アドルフとサロンの廊下を歩く。
後ろから、サリが続いた。
廊下にもドレスが飾られていて、ミネルヴァはつい視線を彷徨わせていた。
表情を取り繕うことなど、すっかり忘れるほど美しい空間だ。
案内された部屋にはたくさんのドレスが並んでいる。
(どれもふわふわキラキラ)
ミネルヴァは部屋中を見回した。
どこもかしこもドレスだらけ。しかも、どれもレースやリボンがふんだんに使われた可愛らしいものだ。
「夫人はまだお若いため、若い方に人気のデザインを用意しております。もし、もっと大人っぽいのがよろしければ、ご用意させていただきます」
店員がにこやかに言った。
「ミネルヴァ、どうだ?」
「はい。素敵です」
「奥さま、こちらなどいかがでしょう? 今日見た花にそっくりな色をしておりますよ」
サリが見せたドレスはオレンジ色と黄色の生地で作られた、太陽のようなドレスだ。
たしかに散歩のときに見た花にそっくりな色をしている。
「せっかくだ試着してみたらどうだ?」
「へ……? こ、これを私が着るのですか!?」
「きっと奥さまに似合います。断言できます」
アドルフとサリの勢いに負けて、ミネルヴァは目を泳がせた。
今の時代なら新婚でもドレスを買ってもいいことはわかった。けれど、こんなに華やかなドレスを自分が着ることは想像もしていなかったのだ。
「肩を出すのは……」
「それも本に書いてあるのか?」
「はい」
「それも古い。今も出し過ぎはよくないが、この程度なら常識の範囲内だ。みんな着ていただろう?」
ミネルヴァは小さく頷く。
けれど、継母は「最近の若い子はわがままで着ている」と言っていた。
「ここには誰もいない。試着だけなら誰にも迷惑はかからないだろう?」
「そうですが、もっと落ち着いたドレスのほうが」
とても可愛いけれど、抵抗がある。
今まで肩どころか腕も出したことがなかったのだ。
「せっかくですから、挑戦してみてはいかがですか? きっと奥さまに似合うはずです」
サリがアドルフの援護をする。
ミネルヴァは結局二人の押しに負け、「では一着だけ」と頷いてしまったのだ。
そのあとは一瞬だった。
女性たちに誘われ、着ていたドレスが脱がされたと思ったら、新しいドレスに着替えさせられていたのだ。
気づけばひらひらふわふの中にミネルヴァはいた。
鏡に映るミネルヴァはまるでおとぎ話の世界に迷い込んだようだった。
ミネルヴァがずっと憧れていたドレスだ。ふんだんのレースと可愛らしい刺繍。
キラキラ輝く笑顔を見せる令嬢たちと同じドレスを着てる。
それは、「完璧な夫人」のためにミネルヴァが諦めたものだった。
肩が少しスースーした。
いつもは大きなパフスリーブに守られているからだろうか。
「奥さま、なんて可愛らしいのでしょう……! まるで妖精のようです!」
「わ、私は妖精ではありません!」
ミネルヴァは慌てて言った。
屋敷でこっそり「妖精さん」をしていることは誰にも秘密だ。
「わかっております。さあ、旦那さまに見ていただきましょう」
「へ……!? だ、アドルフさまにも見せるのですか!?」
ミネルヴァは思わず素っ頓狂な声を上げた。




