15.夫婦円満の秘訣
結婚前、継母ミネルヴァを部屋に呼び出し言った。
『当面のあいだドレスを新調しなくていいように、新しいドレスを用意したわ』
『おかあさま、ありがとうございます』
『嫁いだばかりの夫人が新しいドレスを買えば、金遣いが荒いと後ろ指をさされるわ。だから、数年は持っているドレスを着ていないさい』
『はい。おかあさま』
ミネルヴァは素直に頷いた。
そもそもドレスを自分で選んだことはない。いつも継母が『淑女にふさわしいドレス』を用意してくれている。
だから、ほんの少し安心すらした。もし、自分で選んだドレスが場にそぐわず、夫の評判が下がってしまったら申し訳ないからだ。
けれど、今は違う。
(一緒にお買い物に行きたかったな……)
ミネルヴァはソファーのクッションを抱きしめた。
(アドルフさまに、嫌われてしまったかしら?)
けれど、継母の教えをそのままアドルフに言うことはできなかった。
それは継母の教えに反することだから。そして、夫婦円満のためでもある。
『いい? これらの教えは母が娘に教えていくものなの。夫になる人には言ってはいけないわ』
『どうしてですか?』
『そういうものなのよ。夫に知られずに教えをそつなくこなす。それが、夫婦円満の秘訣よ』
アドルフとは仲良くしていたい。
けれど、ミネルヴァが不器用なせいだろうか。アドルフをがっかりさせていることが多い。
ダンスのときもそうだ。
初めて一緒に行ったパーティーでダンスを断ったときも同じ顔をしていた。
(おかあさま。私がそつなくこなせないせいなのでしょうか?)
継母に問う。
継母は厳しいけれど、ミネルヴァのことをいつも気遣ってくれる優しい人だ。
どこに出ても恥ずかしくないようにと、幼いころからたくさんのことを教えてくれた。
(とっても難しいわ)
教えを守ることも、アドルフに嫌われないようにするのも今のミネルヴァには難問のように感じる。
ミネルヴァは深いため息をついた。
(いけないっ! この時間は刺繍の時間なのに……!)
ミネルヴァは慌てて刺繍道具を取り出す。
スケジュールすら忘れるなんて、恥ずかしいことだ。
ミネルヴァは唇を噛みしめる。
しかし、その日は何度も指に針を刺してしまった。
◇◇◇
翌朝になっても悩みが消えることはなかった。
どうすべきだったか、そればかり考えてしまう。
(アドルフさまの誘いを受けるべきだったのかしら? でも、そしたら「金遣いが荒い女を妻にした」とアドルフさまが笑われてしまうわ)
ミネルヴァは朝食を咀嚼しながら考える。
いつもはおいしい食事なのに、味がわからなかった。
「ミネルヴァ、大丈夫か?」
心配そうにアドルフがミネルヴァに尋ねる。
何を心配されているのかわからず、ミネルヴァは首を傾げた。しかし、視界に包帯が巻かれた指を見て気づく。
「はい。大丈夫です。少し刺繍をしていたときに失敗してしまっただけですから」
「それは昨日も聞いたが……」
アドルフが眉根を寄せる。
ミネルヴァは食事の半分を残して手を置いた。
(散歩をする時間だわ)
ミネルヴァは立ち上がると、アドルフに淑女の礼をとった。
「アドルフさま、お先に失礼します」
「あ、ああ。何か困っていることがあるなら、相談してくれ」
「はい。大丈夫です」
ミネルヴァは逃げるように食堂をあとにした。
これ以上アドルフの前にいると変なことを口走ってしまいそうだったのだ。
慌ててサリが追いかけてくる。
「奥様、本当に大丈夫ですか?」
サリが心配そうにミネルヴァの顔を覗き込んだ。
ミネルヴァは首を傾げた。何かおかしいことがあったのだろうか。
「はい。大丈夫です」
ミネルヴァはいつものように返事をしたけれど、サリは納得していない様子だった。
「今日のお食事は口に合いませんでしたか?」
「おいしかったと……思います」
よく覚えていないというのが正解だ。
(何を食べたのだったかしら? そんなことより……)
ミネルヴァはアドルフの顔を思い出して、小さくため息をつく。
(また困った顔をさせてしまったわ。やっぱり昨日断ったのがいけなかったのかしら?)
そんなつもりはなかったのに。
ミネルヴァは両手で頬を叩く。ペチッと小さな音が庭園に響いた。
サリが眉尻を下げる。しかし、そんなことを気にする余裕は今のミネルヴァにはなかったのだ。
「そういえば、奥様、知っておりますか?」
サリが穏やかな声でミネルヴァに尋ねた。
「最近、この屋敷に妖精さんが現れるそうです」
彼女の言葉にミネルヴァは小さく肩をはねさせる。
心臓が早歩きになった。
「そ、そうなの?」
「はい。朝起きると困りごとが解決しているそうなんです。不思議でしょう?」
「ほ、本当ね。不思議ね」
サリは細かくどんなことが起こっているのか語ってくれた。
どれもミネルヴァが誰も起きていない早朝にやっていることだ。
「みんな、妖精さんが来て喜んでいるのかしら?」
「もちろんですよ。妖精さんに会ったらお礼がしたいとみんな言っております」
「そう……」
ミネルヴァはほんの少しだけ頬を緩ませた。
(みんな喜んでくれているのなら、よかったわ)
みんなの役に立てることはとても嬉しい。しかも、シュダルン公爵家のみんなはミネルヴァにとてもよくしてくれているのだ。
彼らに報いることができることが、今のミネルヴァの救いだ。
ミネルヴァの胸が少しだけあたたかくなった。
◇◇◇
散歩のあとは読書の時間だ。
今日も今日とて、ミネルヴァは決められた時間に決められたとおりに動く。
頭の中は悩み事でいっぱいだったが、身体は勝手に本を開いていた。
読書と言っても、何でも読めるわけではない。
ミネルヴァに許されているのは、『夫人の嗜み全集』を含めた数冊の本のみだ。
これを完璧に暗唱できるまでにならないと、完璧な夫人ではない。
だから、ミネルヴァはこれ以外の本を読んだことはなかった。
(きっとアドルフさまは怒っているわ)
文字はほとんど読めていない。
けれど、頭の中が忙しかったせいだ。ミネルヴァはページを捲る。
(やっぱり、今から謝りに言ったほうがいいかしら?)
「――ヴァ?」
(でも、なんと言っていいかわからないわ。教えのことは言えないもの)
言わないことこそが夫婦円満の秘訣だと継母が言っていた。
もし、教えのことを話してアドルフとの仲に亀裂が入ったらと想像すると、言うことは躊躇われる。
すると、突然肩が叩かれる。
「ミネルヴァ?」
「ひゃっ!?」
ミネルヴァは大きな悲鳴を上げてしまう。同時に手にしてた本を放り投げる。
本は重たい音を立てて床に転がった。
ミネルヴァのすぐ側にいたのはアドルフだ。彼はわずかに目を見開いたあと、眉根を寄せた。
「わ、悪い。何度も呼んだんだが……」
「も、申し訳ございません」
「いや、集中していたのに悪い。少し話をしたくて来たんだが、あとのほうがよかったか?」
鼓動が激しく鳴り響く。
ミネルヴァはどうにか頭を横に振った。
「だ、大丈夫です」
「悪いな、読書中に」
アドルフが申し訳なそうに、床に転がった本を手に取った。
ミネルヴァは大慌てで立ち上がる。
落ちた拍子に本にかけていたカバーが剥がれていたのだ。
「あっ! それは――……!」
それをアドルフに見つかってしまうのはよくない。
結婚前に継母から何度も言われていたのだ。
『いい? 結婚前にこの本を覚えていないのは、恥ずかしいことよ。だから、屋敷の人間には見つからないようになさい。殿下に見つかるなんてもっての他よ』
ミネルヴァは顔を青くした。
「ミネルヴァはいつもこんな本を読んでいるのか?」
「あの……それはその! 今日、たまたま確認のために……」
ミネルヴァの声が段々と小さくなる。
完璧とはほど遠いミネルヴァに、きっとアドルフは落胆しているだろう。
ミネルヴァは彼の顔を見ることができず、俯いた。
(素直に謝ったほうがいいわ)
ミネルヴァはそのまま深く頭を下げた。
「申し訳ございません。実はまだ覚え切れていないのです」
「何をだ?」
「夫人のための本です。本来なら全部暗記できないといけないのに、まだ半分しか覚えられていません」
彼の小さなため息が聞こえる。
ミネルヴァの胸がキュッと締めつけられた。
きっと、落胆させてしまっただろう。この本は本来、すべて暗唱できるまでになっていないと継母は言っていた。
けれど、ミネルヴァに少し難しかったのだ。
「ミネルヴァ、こちらを見てよく聞くんだ」
彼の言葉が重々しく部屋に響いた。




