12.雪とキャロットケーキ
誰にも見えないように、ほんの少し。
(よかった。喜んでくれたみたい)
ミネルヴァは内心ホッと息を吐く。
今のミネルヴァにできることは少ない。
それなのに、シュダルン公爵家の人たちはミネルヴァにたくさんのものをくれる。だから、少しでもお返しがしたかった。
最近では毎朝、みんなが寝静まる中、ミネルヴァはできることを探してはこっそり行っている。
今のミネルヴァにできる最大限の恩返しだった。
◇◇◇
今日もアドルフの指導のもと、ダンスの練習に励む。
初日には数えられないほどアドルフの足を蹴り、踏み続けた。
しかし、十日も過ぎれば、その量も減ってきている。それでも、ミネルヴァは彼の足を蹴るたびに数をかぞえた。
「うまくなったな」
「本当ですか? でも、五回も蹴ってしまいました」
「そうだったか? 気づかなかった」
アドルフはさらりと言って、ミネルヴァの頭を撫でる。
絶対に気づいていたはずだ。
アドルフに「痛くはないか」と尋ねようとした瞬間、ふわりと甘い香りが鼻腔をくすぐった。
優しい甘さを含んだ香りに誘われ、ミネルヴァは視線をさまよわせる。
「奥さま、休憩にいたしましょう。本日はキャロットケーキですよ」
大きなケーキ乗せたワゴンを押すサリが目に入り、ミネルヴァは目を輝かせた。
サリは席にアドルフとミネルヴァ、二人分の紅茶とケーキを並べる。
ミネルヴァは席に座り、皿に載ったキャロットケーキをまじまじと見つめた。
「雪が乗っているわ」
三角に切られたケーキの断面は黄金色だ。
キャロットケーキという名前からオレンジ色を想像していた。
その上にはまっしろなものが乗っていた。
まるで地面を隠す雪のようだ。王都ではあまり降らないが、寒い日の朝窓を開けたときの感動に似ている。
真っ白な雪に初めて足を乗せる瞬間が、ミネルヴァは大好きだった。
「上に乗っているのはクリームチーズです」
雪のように白いクリームチーズは、どんな味がするのだろうか。
ミネルヴァは三角の先をフォークで切り取る。
この瞬間が一番贅沢だと思う。
きれいな三角の先は、なんだか一番特別な場所に感じるのだ。
野菜の人参と甘いケーキ。そして雪のようなクリームチーズ。まったく味の想像ができない。
(ケーキだから甘いのかしら? それとも人参の味がするのかしら?)
一口大になったキャロットケーキを口に運ぶ。
瞬間、ミネルヴァは目を瞬かせた。
甘いともからいとも違う、独特の香りが鼻に抜けたのだ。
「スパイスを使っているそうなので、少し癖があるかもしれません」
この独特の香りはスパイスなのだろうか。
すぐにクリームチーズの酸味が口の中に広がる。
(すっぱくて甘くて、あとちょっとピリピリして不思議だわ)
甘いだけではないのだ。口の中が忙しい。
けれど、嫌いではない。むしろ不思議な感覚をもう一度味わいたくて、ミネルヴァは急いで二口目をフォークで刺した。
「うまいか?」
アドルフのお決まりの質問に、ミネルヴァは何度も頷く。
シュダルン公爵家でまずいものなど出された記憶はない。ミネルヴァが知らないたくさんの料理を毎日出してくれる。
(しあわせ)
ミネルヴァは咀嚼を繰り返しながら、幸福に浸った。
実家では食べることは作業だった。
固いパンと野菜の切れ端が入った味のないスープ。乾燥した肉を咀嚼するのは大変だった。
けれど、シュダルン公爵家は違う。
ふわふわの柔らかいパンが出るのだ。スープにはいつも具材がたっぷりで、ミネルヴァは毎日知らない味に出会っている。
毎日が新雪の中を探険しているみたいだ。
「ダンスもじゅうぶん上手くなった。どうだ? もう一度パーティーに出てみないか?」
「まだ早いです。五回も蹴ってしまいます」
パーティーでダンスを踊るには早いのではないか。
蹴らなくなるまでは、屋敷での練習を続けたほうがいいのではないかと思うのだ。
こんな調子ではアドルフまで笑われてしまう。
「こういうのは実践を重ねたほうがうまくなる。素振りをしていても魔獣を倒せないのと一緒だ」
アドルフの例えは時々よくわからない。
けれど、ミネルヴァはダンスに関しては初心者だった。経験を積んだアドルフが言うのだ。
彼が正しいのだろう。
ミネルヴァは両手に拳を握り、口を真一文字に結ぶ。
「わかりました。がんばります」
「がんばらなくていいんだがな」
アドルフは苦笑をもらし、ミネルヴァの頭を撫でた。
◇◇◇
アドルフが選んだパーティーは前回よりも小規模のものらしい。
ミネルヴァは再び一張羅のドレスに着替え、アドルフの隣りに立った。
アドルフの隣りでたくさんの挨拶を受けるのは前回と同じだ。
人の波が去って、アドルフは小さく息を吐いた。
「必要だとわかっているが、挨拶はどうも苦手だ」
「アドルフさまにも苦手があるのですね」
ミネルヴァは目を丸くした。
ミネルヴァから見たアドルフはすべてが完璧だ。
どこから見ても隙がない。いつも余裕のある大人の男性だ。
弱音のような言葉を耳にして驚いた。
「苦手のない超人なんて、この世にはそうそういない」
アドルフの言葉はなぜか、ミネルヴァには慰めのように聞こえた。
ミネルヴァには苦手なことがいっぱいだ。
感情を隠すのは幼いことから苦手だった。
嬉しければ笑い、悲しければ泣く。そういう子どもだった。
淑女として感情を隠すのは難しい。
アドルフのように、苦手でもそつなくこなせるようになるだろうか。
ミネルヴァは彼の顔を見上げる。
すると、音楽隊が演奏を始め、ダンスホールが人で賑い始めた。
(いよいよだわ。あそこで、私も……)
ワクワクとは違うドキドキが全身を支配する。
ミネルヴァは全身を強ばらせた。
今日は「気分ではないので」は禁止だ。アドルフから誘われたら「喜んで」と言わなければならない。
「ミネルヴァ」
「はひっ!」
突然、アドルフに声をかけられて、ミネルヴァは素っ頓狂な声を上げた。
「軽食でもどうだ?」
「軽食……?」
「ああ。ここの屋敷の料理人の作る軽食はうまいと評判だ」
「でも……」
ミネルヴァはしばらくのあいだ思案する。
継母の言葉が頭を過った。
『いい? 外で食事をするだなんてもってのほかよ。淑女は人に食事をする姿を見せるものではないの。晩餐に呼ばれたときだけになさい』
パーティーで軽食に群がるのは、恥ずかしい行為だと長年教えられた。
ミネルヴァはただの一度も料理を口にしたことはない。
お茶会でも、ミネルヴァは甘い匂いに囲まれながら、紅茶以外を口にはしなかった。
「少し小腹が空いてしまったんだ。付き合ってくれないか?」
「はい。付き合います」
ミネルヴァは即答した。
アドルフの付き添いならしかたない。
そう何度も自分に言い聞かせながら、ミネルヴァは彼の腕を掴む。
パーティー会場の端や別室には、軽食コーナーが設けられている。
このパーティーはメイン会場の隣が軽食コーナーになっているようだ。
テーブルの上に乗った料理にミネルヴァは目を奪われた。
見たこともない量の軽食がところ狭しと並ぶ。
「一番乗りだな」
軽食コーナーにはまだ誰もいなかった。
「たくさんあります」
「ああ。何がおいしそうだと思う?」
アドルフに問われ、ミネルヴァは一つ一つ見て行った。
小さな皿に盛られた一口分の食事。
おいしいから、一口分だけ用意しているのだろうか。
ミネルヴァはクラッカーにクリームチーズが乗っているものを指さした。
「これはどうですか」
クリームチーズはこの前、食べておいしかったから確実だ。
その上に黒い粉がかけられていて、少し不安ではあったが。
「おいしそうだ。いただこう」
アドルフはクラッカーを一気に口に入れて咀嚼する。
ミネルヴァはその様子を見つめた。
食べている姿すら様になる。
「おいしいですか?」
「ああ。ミネルヴァもどうだ?」
アドルフがクラッカーを持って、ミネルヴァの口元に近づける。
ミネルヴァはクラッカーをまじまじと見つめた。
「今は誰もいない。家にいるのと同じだ」
アドルフが誘惑の言葉を口にする。




