11.猫のパンチ
アドルフが苦笑をもらす。
「危なかったな」
「申し訳ございません」
「こんなことで謝る必要はない。最初はみんなこんなものだ」
感情を表に出してはいけないという教えも忘れ、ミネルヴァは眉尻を下げた。
考えることが多すぎて、表情のことまで意識できなかったのだ。
「何回も教えてくださっているのに、ご迷惑をおかけして申し訳ございません」
ダンスができないばかりに、クロイとサリ、そしてアドルフの時間を奪ってしまっている。
夫人として役に立つ予定のはずが、迷惑ばかりかけていることに申し訳ない気持ちが勝った。
(これでは完璧な夫人からはほど遠いわ)
ミネルヴァは肩を落とす。
すると、クロイが笑いながら言った。
「落ち込む必要はありません。殿下のエスコートが下手なんですよ。殿下はいつもダンスの練習をサボってましたからね」
アドルフがギロリと睨んだが、彼は気にしている様子はなかった。
彼は肩をすくめるといそいそと部屋の端へと逃げていく。
アドルフは小さくため息をついた。
「何がこわい? 踊っているあいだ、何かに気を取られているように感じたが」
「アドルフさまの足を踏みそうで」
ミネルヴァは小さく言った。
すぐ側にアドルフの足がある。それが気になってしかたなかったのだ。
「私の足くらい好きなだけ踏めばいい」
「もし、怪我をしたら大変です」
「大丈夫だ。私は強い。ヴァイゼン侯爵……父君から聞いていないか?」
「それは、聞いています」
結婚が決まったときにアドルフのことは父から聞いている。
王族でありながら軍に所属し、王族でありながら前線で仲間とともに戦う素晴らしい人だと。
『アドルフ殿下なら安心だ』
父が目を細めて言ったのを覚えている。
何が安心なのかはよくわからなかった。
父はミネルヴァがダンスが苦手なことを知っている。
もしかしたら、父は足を踏んでも怪我をしないくらい強いから、アドルフなら安心だと思ったのかもしれない。
「君がいくら踏んでも涙も出ない。魔獣の攻撃に比べたら猫のパンチのようだ」
(猫……)
ときどき、アドルフは猫を例えに出す。
猫が好きなのだろうか。
ミネルヴァはどう答えていいかわからず、ただ目を瞬かせた。
「奥さま、気にする必要はありません。私も最初のころは兄の脛に痣をつくる天才でした」
サリがミネルヴァを勇気づける。
しかし、脛のあざを想像して、ミネルヴァは胸が締めつけられた。
夫であるアドルフを痛めつけるなど、淑女としてあってはならないことだ。
「痛いのはいやよ」
「その程度の痛みは私にとって痛みではない。そんなに不安なら、平気かどうか試してみよう」
アドルフがミネルヴァの手を握った。
これは淑女として乗り越えなければならない試練なのだろう。
ミネルヴァはしっかりと頷いた。
「はい。わかりました」
アドルフはミネルヴァの腰を強く抱く。二人の距離が縮まった。
ミネルヴァは慌てて顔を逸らす。
アドルフの顔がこんなに近くにあると、緊張してしまう。
アドルフは知らないのだ。自分自身の顔が整っていることを。
そして、その顔にジッと見られるとミネルヴァが緊張してしまうことを。
「いいか? まず足元ではなく私を見るんだ」
アドルフの手がミネルヴァを顎を捉える。
トクンッと心臓がはねた。
ミネルヴァは口を真一文字に結び小さく頷く。
「そのまま。いち、に……」
「あっ! 申し――……」
「踏んでもいい。そのまま続けるんだ」
アドルフの言葉は講師として厳しかったけれど、声はいつものように優しかった。
彼の足を何度も踏み、彼の脛を何度も蹴りながら、一日目の練習を終えたのだ。
(いっぱい蹴ってしまったわ)
アドルフはけろりとしている。けれど、ズボンの下では脛が真っ青になっていないか心配だ。
あんなに蹴られたら、ミネルヴァだったら立てていないかもしれない。
ミネルヴァが謝ったとしても、アドルフからの返事は決まって「構わない」か「気にするな」だし、痣が消えることはない。
彼の足を踏むたびに思うのだ。
やはり、継母が言ったことは正しいのではないのかと。
『あなたにダンスの才能はないわ。殿方の足を蹴って恥をかくくらいなら、ダンスをお断りしたほうが体面を保つことができるわ』
ミネルヴァが部屋の隅で静かに落ち込んでいると、アドルフがミネルヴァの肩を叩いた。
「初日にしては上出来だった」
「痛くないですか? たくさん蹴りました」
「大丈夫だと言っただろう? 夫が信用できないか?」
ミネルヴァは慌てて頭を横に振る。
こんな立派な人を信じられないなどあるのだろうか。
「君は真面目だから、すぐにうまくなる」
「完璧に踊れるようにがんばります」
アドルフは苦笑をもらした。
「完璧である必要はない。とりあえず、一曲それっぽく踊れるようになればいいだろう」
それっぽくとアドルフは簡単に言うが、ミネルヴァには少し難しい気がした。
どこまでいけばそれっぽくなるのか、皆目見当もつかない。
「がんばります」
◇◇◇
どんなにミネルヴァが足を蹴っても、アドルフは文句一つ言わず練習に付き合ってくれた。
何度も挫折しそうなったけれど、アドルフの「昨日より上手になっている」という言葉を支えに、ミネルヴァは毎日練習を続けた。
「ねえ、聞いた? また出たらしいわ。妖精さん」
「次はどこ?」
「食堂よ。シルバーがピカピカになっていたらしいわ。料理長がビックリして朝から腰を抜かしたって」
ミネルヴァは使用人たちの会話を聞いてほんの少しだけ口角を上げた。




