裏側
金蘭。かつて王国の都として発展した街は、帝国の支配下に置かれてもその輝きを失うことはなかった。大河の河口近くという交通の要所にあるため、大陸の内陸部と外縁部の商人が行き来して金を落として行く。
良くも悪くも商人たちによって成り立つ街であるので、商人たちによって組織される商連合会は、高い税金と引き換えに自治を得ることができた。そのおかげでというべきか、金蘭を治める諸侯、雁章の面倒事といえば、年に何回か訪れる帝国からの使者を歓待し、ご機嫌を伺うことくらいだ。
雁章は、つい先刻その皇帝からの勅使をなんとか送り出し、やっと面倒事が片付いたとほっとしていたところだった。そこにまた家臣がやってきて、謁見を申しでる者がいると言う。
「何、謁見だと?そのような者、放り出してしまえ」
全く、この家臣は長年仕えてきて主人の心も解らないのだろうか?雁章は指で小刻みに卓子を叩き、苛立ちを隠そうともしなかった。
「それが、龍族の者と申しておりまして」
遠慮がちに、家臣が言葉を繋ぐ。
「何?」
龍族ときいて、雁章ははたと考え込んだ。立派に整えたひげを片手でしごきながら、頭の中に打算がよぎる。
「女か?」
「はい。願いを聞き届けて貰えば、どのような礼もすると。かなり切羽詰まった様子にみえました」
なるほど、家臣も馬鹿ではなかったようだ。雁章が何を望むのか、きちんと心得ているものとみえる。
「よい。通せ」
雁章は先ほどの怒りなど忘れて、すっかり機嫌を直した。
龍族。誇り高きその種族は、容姿が揃って麗しいことでも有名だ。かつては王国の貴族と結びつき、権勢を恣にしていたと聞くが、帝国の支配が始まってからは迫害が強まった。しかし端麗な容姿から、今は奴隷として多く後宮に入れられているという。
「お連れしました」
通された女は叩頭すると、頭から被っていた黒い布を取り去った。雁章はごくりと息を飲み、その姿に釘付けになる。黒檀のように艶やかな髪と水も弾きそうな瑞々しい白い肌。そして何より──その揺らめく炎の色を宿した瞳。
「焔と申します、雁章様。お願いがあって参りました」
その女は、睫毛を伏せて婉然と微笑んだ。
飛焔は内心、焦る心をなだめすかすのに必死だった。言葉と微笑みが現実を上滑りしていく中、己の龍玉を、袖の中でそっと握りしめる。微かに主と繋がるそれが、彼の主がまだ無事であることを教えてくれた。それだけが唯一の救いだった。
つい数日前。荒らされた無人の祭壇を見た時、飛焔の心は凍った。
今回の儀式の一部は、翠嵐の臣下である飛焔に任せられていた。十五年前の悲劇を繰り返さないためにも、飛焔はかなり慎重に準備を進めた。与えられた権限の中で、精一杯の態勢を整えたはずだった。
怯える主に不安を感じさせないよう、笑顔で送り出した後すぐ、儀式の危険についてもっと言っておくべきだったと後悔した。夏至に行われる龍族の成人の儀式は、一部の人間たちにはとても有名なものである。親の庇護下にある龍が、初めてその腕を離れる日。そして、雲上原の中でも最も下界に近い廟までやってくる日だ。成人の儀式に向かった龍を助けることは、一族といえども許されない。稀ではあったが、そこに目をつけ、未熟な龍の誘拐を企む人間が現れる場合がある。
嫌な予感はあたった。いっこうに帰ってこない、彼の小さな主。長老の制止を振り切って洞窟に足を踏み入れてみれば、あちこちの結界は弛み、警備の龍たちは血を流してぐったりと倒れていた。
飛焔は血相を変えてすぐに捜索の手配をし、自身も女に化けて野に降りた。翠嵐をさらった者がどのような者かは解らなかったが、早く助け出さなくては手遅れになる。河を越えればすぐに江南だ。対龍感情の格段に悪い江南に入られてしまっては、飛焔もうかつに手を出せない。
普通の龍ならばまだいい。彼女はその特殊な生まれ故に、龍としての知識もろくに知らず、世間知らずに育ってしまった。いや、そう育てたのは他ならぬ飛焔だ。親をなくし、天涯孤独になった彼女を、真綿にくるむように、大切に、大切に育てるはずだった。
それがかえって仇になるとは。純真無垢な心は、悪人にとっては付け入る隙になる。飛焔は翠嵐が聡明なことを知っていたが、悪意をしらない彼女が根っからの悪人に利用されてしまう姿を容易に想像できた。
例え悪人の手から逃れたとしても。
数年前ならばたとえ幼い龍が街に出ても、そう案ずることはなかった。それが今の皇帝になってからはどうだ。龍族の売買が堂々と表の市で行われ、龍族の身体は薬として切り刻まれ、どこの店にも並ぶようになった。もはやこの国は、龍族にとって危険な国になりつつある。
前の皇帝の治世の折りには、龍族といえば下にもおかぬ扱いであったのに。その頃なら、官軍も使えただろう。なのに、今はこうしてへりくだり、不躾な視線に身を晒さねば港の一つも閉められない。
「ふむ。そなたが龍族の者か」
「はい」
飛焔は気をひきしめた。港を塞ぎ、翠嵐を探すにはこの者の協力が不可欠だ。その舐めるような視線に鳥肌がたつが、幸運だったと思わねばならない。清廉潔白な人物相手ではどうしようもないが、好色な者だからこそ、飛焔は己の身を使って要求を飲ませられるのだから。
「そなた、なんでも、と言ったな」
「もちろんでございます。」
「良いだろう。近う寄れ」
飛焔は大人しく命令に従った。男の手が伸ばされ、飛焔の頭を、うなじを、無遠慮になで回す。まるで、春をひさぐ女に対するように。
このような扱いは、誇り高い龍族にとって、自害する方がましといえる程の屈辱だった。ましてや飛焔は、龍族の中でも王族に匹敵する位にある。しかし、飛焔は己の誇りの捨てどころを、間違えるつもりはなかった。一度自らを捧げると決めた主のためならば、龍族はどのようなことも成し遂げる。
主に仕えることこそが自分の誇りだ。
飛焔は己の心が男の醜い欲でどんよりと濁っていくのを感じたが、目をつぶって耐えた。これも、全て主のためだ。飛焔のあいする、彼女のため。無邪気な彼女の姿を思い浮かべるだけで、ささくれる心が慰められた。
「雁章様。これ以上は…」
飛焔は、女に化けた自分がどのように見えるのかをよく心得ていた。やんわりと、この先は要求を飲んでからだと告げて、色を含んだ目を細める。男はいいだろう、と頷いた。
「港を閉めろ。男と、銀髪に碧の目をした子どもの二人を探すんだ」
飛焔は内心で勝った、とほくそ笑んだ。
夜半。街の裏通りの酒場は、後ろ暗い者たちでひっそりと賑わう。ぽっかりと地下への入り口を開けた古びた酒場「黒鷲」も、その例に漏れず、昼間とはまた違った雰囲気に包まれていた。
「よお、こっちだ」
細長い店内の奥に座る男が、手をあげて入り口に気安く呼びかけた。丁度店内に入って来た客は、特に答えることもせず、無言で男の真向かいにこしかける。相変わらず、無表情で何を考えているかわからない奴だ。男は苦笑すると、店主を呼んで、酒を頼んでやった。
「久しぶりだなあ、昴流。どうだ商売の方は?おまえ、こんどは龍の子どもにまで手を出したのか?」
「…ああ」
少しの親しみをこめた男の言葉に対して、まるで石ころを見るかのような無関心さで、男──昴流が頷いた。
「噂じゃあ、よく懐いてるみたいじゃないか。おまえがえげつないっていうのは知ってたけどなあ。ほんとう、血も涙もない奴だ」
もう慣れっこなのだろう。男は昴流の態度にも怯まず、くく、と笑って酒をあおる。強い酒が喉を焼いた。
「特に用もないのに、気安く声をかけるなと言っただろう」
昴流は少し不機嫌そうに、眉をひそめた。すぐに男は、悪い、と謝った。昼間、雑踏の中で昴流をみつけて、思わず手を上げてしまったのだ。その後、昴流の横にいる子どもに気づき、しまった、と思った。
もの凄い殺気を感じたので慌てて逃げたが結局捕まえられ、夜中に酒場で会うことになったのだ。
「まあいい。何か動きがあるか」
昴流が机に出した硬貨を受け取りながら、男は素早く頭を巡らせた。
「そうだな、最近官吏のところに、龍族の女が接触した。港を閉めるらしい。おまえの連れている龍を探しているみたいだぞ」
「まずいな。あんな小さな龍なのに、もう守護がついているのか」
「そうだな。もしかしたら、位の高い龍の子かもな」
昴流の闇の色をした瞳の焦点が少しぼやける。きっと、その怜悧な頭脳で色々と策を巡らせているのだろう。男は、昴流の頭の中など想像しない。昴流の考えていることなど、きっと、へどが出るような残酷なことに違いないのだ。
「そういえば、おまえが前に連れてた龍族の女。あの後江南でどうなったんだ?」
「知らない。あっちで商人に渡した後のことは」
「おまえに惚れるなんて、馬鹿な龍だよなあ。泣き叫んでる女を平気で売り飛ばすような奴の、どこがいいんだか」
男は心底解らない。この無表情な男の、どこを見たら甘い幻想など抱けるのだろう。
「そういえば、おまえの連れてる龍はどうなんだ?おまえの嫌うような、高慢で生意気なやつか?」
男は純粋に興味があった。それまで、ずっと成人した龍のみを商品として扱って来た昴流が、初めて連れている子どもの龍。昴流と子どもという組み合わせは些か珍妙で、街でみかけた時は自分の目を疑ったほどだ。何か心境の変化でもあったのかと勘ぐりたくもなる。
「龍らしい龍だ。純粋で矜持が高く、畏れをしらない。そして……どうしようもないくらい、愚かだ」
しかし返ってきた言葉は相変わらず容赦がなく、どうしてか男は少し安堵を覚えたのだった。




