ほら、ほら、思い出していただけたかしら?
ぱぁん、と派手な音を立てたのは、ニュクスだった。
正確には――ニュクスがアンネローゼを叩いた音だった。
アンネローゼが呆然とした様子で叩かれた手を見て、のろのろとした動きで自分が叩かれたのだ、と気付いて呆然としていた。
「だめよ、アンネローゼ。それはしてはいけないこと」
厳しい姉の声など初めて聞いたのか、アンネローゼがびくりと身を竦ませた。
やってはいけないことだ、と言い切られて何が恐ろしかったのか、彼女はそれはもう大きな声で、火のついたように泣き始めた。
「……痛かったのね、可哀想に。でも……」
周囲はなんとも言えない表情だ。
ニュクスが再度アンネローゼを慰めようと手を伸ばしたところで、大きな声がした。
「これは何事なの!」
「お、おかあさまあ!」
現れたのは女王、ベアトリスであった。
味方の登場にアンネローゼが駆け寄る。
ぐすぐすと泣く愛娘を見て、キッとニュクスを睨み付ける図は周囲から見れば滑稽でもあった。
「おねえさまに、たたかれた……」
「なんですって!?」
とはいえ、手である。
十才の子が八才の子の手を叩いた行為自体は褒められたものではなかったが、それにしてもアンネローゼの反応は異常なまでに大げさだった。
「女王陛下、申し訳ございません」
「あなた、自分が何をしたと――」
「私が、アンネローゼを叱りましたからどうか極刑はお許しくださいませ!!」
被せるような大きな声に、周囲がハッと息を呑んだ。
同じように女王も息を呑んだが、それは被せられた内容があまりにもおかしいものであったからに過ぎない。
ニュクスは伏せた顔の下で、小さく嗤った。
だがことさら大きな声で続ける。
「陛下が定めた勅令にはまだ至っておりません!」
人々は忘れていない。
ベアトリスが女王となった際に定めた、愚かな勅令――【王城内に飾られた、王家所有の秘蔵の花瓶を壊した者を処刑対象とする】というものを。
カルミア公爵家に悲劇をもたらした、愚かな行動。
「だ、からって、ニュクス……アンネローゼを叩くだなんて」
はく、とベアトリスが困惑した様子で怒りを向けるどころか、真っ青になっていく姿を周囲はただ見守るしかできない。
「手を叩いてしまったことは申し訳ございません。ですが、勅令を覆すことはできません。ですので慌てて叱りましたが……どうか、どうかお許しくださいませ」
愚かな勅令から可愛い妹を守るために必死の行動をとった姉姫。
その元凶である女王と、その胸に抱かれながら意味がわからないという様子のアンネローゼに多くの人々の視線が刺さる。
「そ、それでもアンネローゼを叩くだなんて……」
尚も言い募ろうとするベアトリスに、今まで一言も発さずに奥に座っていた老公爵が立ち上がる。
ゆったりとした足取りに、冷たい眼差し。
その存在に気付いた女王が小さな悲鳴を上げたことを、アンネローゼだけが不思議そうに見上げていた。
「……アンネローゼ姫がご無事でようございましたな、女王陛下。ニュクス姫は大変機転が利いてらっしゃる」
一連の流れを、よりにもよってカルミア公爵が見たのだ、と察したベアトリスが更に顔色をなくしてアンネローゼを連れて踵を返す。
「戻るわよアンネローゼ!」
「えっ!? お姉様を罰してくださるんじゃないの!?」
「いいから!」
「えっ……!?」
思い通りにならないどころか、母親の聞いたことのないような怒りに似た声に怯えながらアンネローゼも去って行く。
「……騒ぎになってしまったけれど、お茶会にいたしましょう。カルミア公にも気に入っていただけたなら嬉しいわ」
「無論。とても気に入りました」
老公爵が花瓶を見て、ニュクスを見る。
その目は爛々と怒りに燃えていたが、ニュクスをエスコートするために手を差し伸べてくれたことで――彼らの関係が、よりいっそうはっきりと周囲に伝わった。
この事件はメイドの口からメイドの口へ――愚かな勅令を再び、人々に思い出させる事件として語られるのであった。




