抜けているくらいがちょうどいい
医師の名前はアルベール・ライルリヒ。
没落した子爵家の息子だった。
過去にニュクスが彼と交わした言葉はそう多くない。
一度目の人生では姿も名前も知らず、二度目の人生では名前だけ知り労いの言葉をかけ、彼から返礼の言葉をもらっただけだ。
そして三度目の人生では、たった一言。
『王族だからとて、人間をゴミのように扱うのか!』
すでにアンネローゼに功績を奪われ、その彼女を御せなかった姉姫として愚か者の烙印を押されていたニュクスには申し訳なくなるような、慟哭だった。
後に知る。
アンネローゼの発言の後にニュクスが遠ざけられた更に後。
貴族たちにばかり薬が優先された結果、薬を作り出したアルベール・ライルリヒは無実の罪で捕らえられ、その薬の利権を奪われた。
民衆のために尽くした医師の命が散らされたことで、民の不満は更に高まった。
(積み重ねの一つ一つが、あまりにも大きすぎる)
過去の人生で過ちを知るからこそ、ニュクスは『王族としての振るまい』を後回しにすることを選んだ。
人をやり、言葉と金を尽くし、あちらから挨拶に来てもらうなんて悠長なことは言っていられなかった。
「はじめまして、アルベール・ライルリヒ……ですね? 私は……」
少しだけ、ニュクスには名乗りに躊躇いがあった。
今も腐っていると思わずにいられない王家、それは自分の家族なのだ。
それでもグッと持っていた扇子を握りしめ、毅然と前を向く。
「私は、ニュクス・アキレギア・ロレアヌス。この国の第一王女です」
はっきりとした名乗りに、慌てた様子で周囲が膝をつこうとするのをニュクスは止めた。
シグムンドはただ、静かに彼女のすることを見つめている。
「皆、手を止める必要はありません。治療の必要な人に施す治療を止めてまで礼をしてもらいたいとは思っておりません」
「……このような、粗末な医療所になんのご用なのですか。施しをなさるためですか」
「ええ、そうよ」
ニュクスは向けられた苛立ちを、真っ向から受け止めた。
アルベール・ライルリヒは十才の少女に苛立ちをぶつけたことに恥じ入る気持ちがあるのか、あるいは彼女の後ろに立つカルミア公爵家の騎士たちを恐れたのか、スッと視線を外す。
だがニュクスには、彼の嫌味を受け止める必要があった。
それは過去への謝罪でもあると同時に、今、王族として受け止めるべきことでもあったからだ。
「王都内の周辺における医療所の活動記録を調べました」
「……!?」
「それ以外にも、協力者たちに調べてもらった国内の民間医療所の状況も。全てを把握したとは言えませんが、それでも見えてくるものはありました」
過去三度の経験があったからこそ、集めるべき情報と見るべき箇所がわかるだけだ。
それでも、ニュクスはやらなければならないと思ったのだ。
実際、カルミア公爵家を通じて信頼おける貴族たちの協力の下調べてもらった実情は酷いものだ。
良心的な、かつ裕福な領地はそれこそ領民に手を差し伸べることもできるが、裕福ではないところは生活を守るだけで精一杯、王家に阿ることしか知らない貴族家に至っては民衆のことなどほったらかしの現実を突きつけられた。
(……むしろ今の段階で謀反が起きていないことが奇跡なのよ)
諸侯の心の広さには感謝しなければならない。
それとも、諸侯がそれだけ尽くしてくれるのは先代女王やそれよりも前の女王たちの行いによるものであると考えれば先祖に感謝すべきかとも思うが……それでも現状は一刻の猶予もないのだ。
「活発に活動を行い、各地と連動を取っている医療所があることはわかっています」
「……勝手なことをしていると咎めるためにお越しですか」
「いいえ! い、いいえ……違います、そうではなくて……」
思わず強い声が出てしまい、ニュクスは頬を赤らめて口を押さえた。
どうにも三度も人生を送っているが、現段階での年齢に応じた感情に体が釣られやすいようだった。
突如として王女としての威厳を失ってオロオロとする、年相応の恥じらいを見せた少女の姿。
それにアルベール・ライルリヒだけでなく周囲のものが微笑ましく感じたのは言うまでもなく、ニュクスの知らないところで王女は大人ぶって頑張っているだけなのだ……と勘違いをさせるには十分であったのだった。




