妻という存在
シグムンドには、事情がよくわからなかった。
えらいひとに連れられてきたところでは、自分の色をいやそうな目で見る人はいても殴ってくることも、蹴られることも、腐った食べ物を与えられることもなかった。
石を投げられることもなければ、氷水に突き落とされることもない。
だから、シグムンドは恩を返さなければならなかった。
幸い戦うことには向いていたらしい。
その結果、もっとえらいひとが褒めてくれる……という話になった。
よくわからないが、従う以外なかった。
断る理由もなかったからだ。
なにせ、辺境伯は喜んでいそうだったから。
その辺境伯も、王家に呼び出されたことよりも他の中央貴族とつながりを作れることを喜んでいたのだが、それをシグムンドは知ることもなかったし知る必要もなかった。
ただ、時間が過ぎるのを待つだけだった。
いつもと変わらない。どこにいたって同じ。
誰が主人になろうが、自分の価値はその人に尽くすだけ。
それがシグムンドのあり方だったのだ。
ところがそれが一変した。
第一王女ニュクス・アキレギア・ロレアヌスの夫に指名され、難色を示されるだろうと思ったのにそのニュクスは彼に微笑みかけたのだ。
誰にも向けられたことのないほど、優しい笑顔で彼のことを『旦那様』と言ったのである。
(……胸が、うるさい)
戦っている時以上の高揚感が、終わらない。
よくわからないが、これからシグムンドは辺境伯の下では働けず、カルミア公爵家の預かりとなるらしい。
兵士ではなく、客のようなもので勉強をするのだと言われた。
それが、王女のためになる、と言われればシグムンドは頷く他にない。
どうせどこにも行く当てなんてないのだ。
(ニュクス・アキレギア・ロレアヌス……)
自分よりも小柄な、黒髪の少女。
妻と言われてもよくわからないというのが正直な感想であるが、少なくともシグムンドはあの紫色の目は綺麗だと思った。
すぐには一緒に暮らせない、教養を身につけもっと洗練した礼儀作法を知る必要があるとカルミア公爵に言われた時にシグムンドは「よくわからない」と思った。
だが、ニュクス・アキレギア・ロレアヌスという王女は特殊な環境にいるのだ、と言われて目を瞬かせる。
王女。この国の、一番目の姫。
誰にも彼にも跪かれ、敬われるべき人。
シグムンドですらそれを知っているというのに、そんな人が特殊な環境にいるとはどういうことなのか。
カルミア公爵は言った。
『シグムンド。そなたは王女の夫として、これより誠心誠意を尽くさねばならん。あの方は、王家に残された良心。唯一の希望。それを守るのが、そなたの役割と心得よ』
シグムンドにはまだまだ難しいことはわからない。
宮廷とは何かを知らないし、王家の事情なんてものはもっと知る由もない。
でも、妻となった人を守れというならわかりやすくてよかった。
(あの子は、おれのこと、だんなさまって言った……)
妻、夫、夫婦……そうしたものに対する知識も理解もまるで足りていないシグムンドだが、カルミア公爵に連れられて訪れた王女の住まい。
そこは豪奢ではあるのに寂しくて、王城の中にはあんなに人がいたのに、とシグムンドが零すほどに人が少なく静かだった。
そこに現れた少女はシグムンドを見るなり笑顔になってくれて、また鼓動が跳ねる。
(かわいい)
黒髪の女の子。
自分よりもずっと小さくて頼りない姿をしているのに、キラキラとした目は宝石したみたいだしその白い肌は雪のようだとシグムンドは目を離せない。
それは初めて生活に余裕が出て、生き物を愛でた日の時のようだった。
食うか食われるかしか知らない日々の中で辺境伯の下、自分の馬を与えられて世話をしていく内に芽生えた感情。
それに似ていた。
(でも……馬とは違う。これは、なんだ?)
シグムンドは何も知らない。
彼はこれからカルミア公爵家の下で、多くのことを学んでいく。
ただ今は、今だけは。
(……妻っていうのは、可愛いってことなんだろうか?)
純粋に、目の前の少女に心奪われるのであった。
13才の少年だけど中身は育っていないため、ピュアピュア。




