A Place for Hekatē/幕間
仮想世界で、コイツの居場所はなくなった。
現実でも逆探知されて、逮捕待ったなしだろう。
これにて、オレの本日のHekatēとしての業務は、無事完遂。
「よっしゃっ、終わった~!!!」
「月城」
伸びをしたオレにかかったのは、低く、渋みのある呼び声だった。
振り返ってみる。
――
「ひふみ警部補って、係長に反発とかしないですよねぇ」
所属する捜査四課の昼休み。
同じ課で働く後輩の一言に、オレは笑って、おかずをつまんでいた箸を止めた。
そりゃ、いちいちイラついてたら仕事が進まねーし。
ニコニコしとく方が得だし。
面倒事は、画面の中だけで充分だ。
「……役職が上の奴に反発して、得ってあるか?」
紅い制服姿のオレは、メロンパン片手にそう言った。
けれど、後輩は苦い顔をしている。
「だって……階級は同じなのに、部長の息子ってだけで係長に抜擢されるなんて嫌じゃないですか!?
本当は月城先輩が就くポジションだったのに」
その最後の言葉に、ちょっと口が止まる。
人事の気まぐれは、いつも突然だ。
だから、1年前の人事で聞かされた申し訳程度の謝罪なんて、食べて忘れるに限る。
(……ま、皆が思う「もっと情報捜査員としてのびのび働きたい」って気持ちは叶えてやりたかったけど……親の肩書きには勝てねーわな)
チラリと壁掛け時計を見る。
「くっちゃべってるのはいいが、あと25分で昼休み終わるぞ。ごちそうさん」
立ち上がった拍子に、金の前髪が揺れる。
休憩室の自動ドアが開いた。
「あ! ひふみさん」
(……コイツは昼休みっつー概念を知らないのか)
「なんです、係長」
オレは、できる限りの笑顔を繕った。
「ちょっとだけ、いいかな」
ちょっとだけ。
上の人間が使うその言葉は、だいたい長い。
「――例の解析、午後イチまでに見てもらえないかな」
「午後イチ、ですか」
「君ならすぐだと思って」
出た。
できる人間にだけ発生する、無料の時短魔法扱い。
「あ。それと」
……出たよ。
「この報告書、チェック終わったから第六に届けてもらっていい?」
ドサドサと出てきた、色とりどりのバインダー。
全部、第六が上げてきた報告書だった。
ただし、返すのは「提出し直してこい」という意味だ。
本来は、係長の業務のひとつだろ。
やれよ、それぐらい。
本部棟の床は、そんなに高級か。
「……承知しました。午後イチの解析も、確認しておきます」
笑顔は便利だ。
少なくとも、この罵倒を外に漏らさずに済む。
「ありがと~。月城さん、第六と付き合い長いからさ〜助かるよ」
「いえ。確認しておきます」
付き合いが長い、ね。
便利な言葉だ。
人に仕事を投げる時だけ、関係性を褒める。
――
すっと開くエレベーターの扉。
地下2階の第六フロアは、設計のおかげか、太陽の光がしっかり届くから明るい。
重い台車を押して出たところで、声がかかった。
「月城君」
声をかけてきたのは、第六特視隊隊長、雪園正雄だった。
手には、紙コップのコーヒー。
視線はオレではなく、台車の上のバインダーに落ちている。
「……また雑に投げたな。君が届けに来るのも珍しい」
「お疲れ様です。
係長が、会議が立て込んでいて行けないそうなので。こちら、確認済みの返却分です。……今日、藤井主任いますよね?」
雪園隊長は苦笑い気味に、「藤井はいるが」と答えた。
それから、再びバインダーへ視線を落とす。
「……1人で運べる量じゃないだろう、それ」
――
ガラガラと廊下に響く音。
「……すみません。台車を押してもらって」
前を行く雪園隊長に、そう言った。
代わりに、オレの両手が抱えているのは、コンテナ1個分だけ。
「謝ることじゃない」
雪園隊長は、前を向いたまま言った。
「謝る相手がいるとすれば、それは君じゃない。投げた側だ」
オレはどうしてか目を伏せた。
「……そういうものでしょうか?」
「そういうもんだ」
雪園隊長は、台車を押す速度を変えずに言った。
「できる奴に仕事が集まるのは仕方ない。だが、便利に使っていい理由にはならん」
突き当たりの手前を右折し、少し歩いたところで、ガチャ、と主任執務室の扉が開く音がした。
「……藤井主任、いるんじゃなかったんですか」
「いるとは言った。今ここにいるとは言ってない」
「詐欺師の論法ですね」
「情報捜査員に言われるとはな」
そんな掛け合いをしつつ、コンテナを丸テーブルへ置いた。
さて、四課へ戻らないと。
「……月城君、まだ休憩時間じゃないのか?」
午後イチまでに見なきゃいけない解析依頼があるので。
そう言いかけて、口をつぐむ。
何をうっかり言ってる……第六には関係のないことなのに。
「休むのも仕事だ。
……少し、もらってほしいものがあるんだ。何か言われたら、俺に強引に引き止められたとでも言っときなさい」
ガサッ、と紙袋を開けてみる。
中には、ギフト用の焼き菓子と紅茶のセットが2つ入っていた。
今、オレが座っているソファーの前に置かれているものと同じものだ。
黄金色のフィナンシェ。
「この間、使節団が見学に来ただろう……その時にもらったんだが、あいにく俺は、甘いものも紅茶も好きじゃなくてな」
「……これ、オレにですか」
「他に誰がいる」
「藤井主任」
「藤井にはもう、やった。本間にも第六の給湯室にも、ウチの嫁にもな……ただ、残り2つの貰い手がいなくてなぁ……だから、もらってやってくれ」
「……そこまで配って残ったなら、もはや在庫処分では?」
「そうとも言う」
「言うんですね」
「言わない方が受け取りやすいか?」
「……言われた方が、受け取りやすいです。では、ありがたく在庫処分に協力します」
「助かる」
助かる、はこっちの台詞だと思った。
けれど、それは言わなかった。
不意に、隊長室のPCから通知音が鳴る。
雪園隊長が途端に渋い表情を浮かべた。
(……この音は、セキュリティアップデートを促す音では?)
「隊長、アップデートなさらないんですか?」
オレの質問に、「設定のどこを触ればいいのか分からなくてな」と困った口調で言った。
なるほど。
「見ましょうか?」
言ってから、しまったと思った。
休むのも仕事だ、と言われたばかりなのに。
「休憩時間を削る気はないぞ」
「焼き菓子1個分の範囲で」
「……交渉が上手いな」
「情報捜査員なので。よいっしょ」
ソファーから立ち上がり、向こうの机へ移動して画面を覗き込む。
オレは元々、共同指令部の情報システム部に勤めていた。
まぁ、その後、捜査四課に引き抜かれたけど。
よし。
できた、できた。
「これでしばらく待てば、アップデート完了です」
「助かった」
隣で一緒に様子を見ていた雪園隊長が言った。
「在庫処分の対価としては高くつきましたね」
「焼き菓子1個分だろう」
「情報システム部時代なら、もう1個請求してるところです」
その冗談に、雪園隊長は懐かしむように言った。
「そうだったな。月城君の専門分野は、情報セキュリティだったか」
「はい。情シスのあの当時は、第六の南主任とよく喧嘩してましたね。お騒がせしました」
「喧嘩、というより、南が毎回負けていた記憶があるが」
「ログの提出を求めただけです」
「南はそれを喧嘩と呼んでいた」
「ログを出さない方が悪いですよ」
「……耳が痛いな」
コンコンコン。
「失礼します。正雄隊っ……あれ!? ひふみちゃん、どうしたの?」
「南主任」
タブレット端末を持って固まった女性が、メガネの奥で目をパチクリさせている。
「何それ」
「焼き菓子です」
紙袋を見せる。
「正雄隊長、またそういう渡し方したんですか。まぁいいです。あ、実はこれなんですが……」
2人のやり取りを眺めつつも、帰るタイミングを逃してしまったことに内心焦る。
割り込むのも悪いし。
南主任は「じゃね」とオレに笑顔で言って、去っていった。
そこでふと、回覧文書を思い出す。
「南主任、今月で辞めちゃうんでしたね……」
「そうだが、俺が引き止められることでもない。業務上は正直困るがな」
「ですよね……」
だって、第六の捜査面における情報部分を支えていたのは、南主任なんだから。
「……南主任がいなくなったら、第六の情報チームは?」
「あれはそもそも、南が大昔に自主的に作った非公式チームだ。俺が都合よく使っていた。
本当は公式にしてやりたかったが……当時の保安総監が首を縦に振らなかった」
直属部の部長でもある保安総監が認めなかったチーム、か。
「……公式じゃないものを、そこまで使ってたんですか」
「必要だった」
「必要なら、公式にするべきだったのでは」
「だから、しようとした」
その声は、少しだけ苦かった。
「……月日が流れて、保安総監には新たな者が就き、またチャンスが巡ってきたのに……今度は主力がいなくなる。
物事ってのは、上手くいかないもんだ」
――
後日。
Uranus庁舎、本部棟最上階の一室は、現場とは空気が違った。
流れている空気そのものが。
その主は、景色ではなく、提出された用紙へ目を落としていた。
牡丹色の瞳が怪訝に歪む。
「なんだ、これ。近江」
出入口付近の影で業務をしていた秘書へ、声をかける。
「はい。何でしょうか、迦梨屋総監」
すらりとしたウルフカットの女性が、両袖机のそばへ歩み寄る。
その手には、深緑の手帳が握られていた。
「この提言書は、第六から上がってきたんだったな?」
「はい」
「誰が書いた?」
「……そこに雪園正雄警視長と」
「それは、まとめた奴だろ。
私が聞きたいのは、書いた張本人……第六は私の古巣だが、こんな具体的かつ実用性の高い文を書く者はいない。
南が書く文の癖でもない。
かといって、雪園が手直ししているわけでもなく……これは第三者が書いている」
一拍、沈黙が挟まる。
「だから聞いてるんだ。誰が書いた、と」
牛革製の椅子がキィと鳴り、その主が机の方へ顔を向ける。
黒髪に牡丹色のインナーカラーをした、この若き総監。
その目線の意味を、近江秘書は知っている。
「かしこまりました」
――
雪園隊長に話したことをまとめた、あのレポートはどうなったんだろう。
提出して3週間目に入ろうとしている。
「ハッション!」
またか。
こんなにくしゃみが出るなんて……花粉症じゃないはずなのに。
あれ。
おい、コピー用紙が切れてる。
「補充しとけよ……印刷できねー」
席を立った時、背後を通った女性職員たちが言う。
「近江秘書が東棟に来てるらしいよ」
「直属部の人でしょ!」
「うん。支援課の総監秘書だって」
総監秘書。
その単語で、足が止まりかけた。
……ま、オレには関係ない。
コピー用紙の方が切実だ。
関係ない、はず。
棚の奥にあったコピー用紙を引き出した瞬間だった。
「月城ひふみ警部補で、お間違いありませんね」
背後から、落ち着いた声がした。
腕の中の紙束が、急に重くなる。
振り返ると、そこにはウルフカットの女性が立っていた。
(モデルみたい)
ハッとする。
襟に付いているバッジが白金色。
直属部。
(待て待てっ、落ち着け落ち着け! オレは無関係)
「……コピー用紙なら、今補充します」
「その件ではありません」
「失礼ながら……つ、つきしろって苗字の者は他にもいるかと」
「月に城と書くのは、あなただけです」
「違います」
「そうですか。では、ここ最近で上司に担当外の業務を押しつけられたことは?」
オレは思わず、反対側の席をチラ見した。
あれ。
なんか係長、しょぼくれてね……ん、注意されたのか。
近江秘書に。
(怖っ)
「えと……こ、心当たりは、ほんのり」
「そうですか。
その際に、雪園正雄警視長にお会いしましたね?」
「ちょっとだけ。え、会釈レベルです」
「ほう。
会釈レベルで、こちらの提言書まで書くことになるのですか?」
差し出された、本部棟専用の通信端末。
そこに映る用紙の文字は、間違いなくオレの筆跡だった。
思わず目を合わせる。
近江秘書はニコッと微笑み、「参りましょうか」とだけ言った。
これはもう、ついて行くしかないかも。
ただ、その前に。
「……コピー用紙は」
「置いていってください」
「でも、補充しないと誰かが印刷できません」
「村上係長に補充していただきます」
「……係長に?」
「はい」
それは少しだけ、総監室へ行く理由になった。
――
近江秘書の後について歩く。
最初のうちは、見慣れた東棟の廊下だった。
けれど、角を2つ曲がったあたりで、知らない扉の前に出た。
案内表示はない。
近江秘書が白金色のバッジをかざす。
短い電子音。
扉が、音もなく開いた。
その先に伸びていたのは、黒い御影石の床だった。
……いや、待て。
こんな道、知らない。
少なくとも、オレが見たことのある図面にはなかった。
ここは本来、壁のはずなんだ。
(……高度経済成長期に建てられた官庁建築)
その言葉が、頭の隅で浮かぶ。
財力が違う。
今のUranusが改修で隠したものが、壁の内側にそのまま残っている。
普段歩いている廊下の床は、コンクリート風の灰色だ。
汚れが目立たず、滑りにくく、いかにも実務向け。
現場職員が多少乱暴に歩いても、誰も気にしない床。
けれど、扉の向こうは違った。
床が高級とかいう次元じゃなかった。
本当に高級な床は、現場職に踏ませないらしい。
「あの、近江警視正……ひとつ質問よろしいですか?」
「どうぞ」
「ここって、図面上だと壁ですよね」
オレの質問に対し、近江秘書は「そうですね」と言った。
それから、静かに続ける。
「ここは、一般の職員が知る必要のない場所ですので」
つまり。
知ってしまった今のオレは。
その戸惑いを見抜いたのか、先を行っていた近江秘書の足が止まった。
ゆっくりと、こちらを振り返る。
「今回はレアケースですので、目をつぶっておいてください」
そう言って、近江秘書は再び歩き出した。
ヒールの音が、黒い御影石の上を静かに渡っていく。
見なかったことにするんだ。
全部。
『地上20階です』
エレベーターの扉が開いた。
足が出なかった。
赤い絨毯が、エレベーターホールの奥までまっすぐ伸びている。
深い木目の壁。
丸みを帯びた装飾。
静かすぎる照明。
近江秘書のヒールの音すら、絨毯に吸われて消えていく。
(……庁舎だよな、ここ)
自分のパンプスの底が、急に汚れている気がした。
「月城警部補」
呼ばれた。
いいのか。
このエレベーターの敷居溝を跨いだら、戻れなくなる気がする。
「お待ちしています」
扉を押さえた近江秘書が、一言そう添えた。
逆に急かされた方が楽になれそうなくらい、ここの空気は吸うだけで重かった。
ようやく踏み出した先で、赤い絨毯が足音を飲み込んだ。
もう、本当に戻れない。
「――大丈夫でしょうか。間もなく、この扉を開けますが」
自動ドアの前で、近江秘書はそう確認した。
正直、大丈夫ではないですね。
だって、この秘書室を通ったら、眼前はもう総監室じゃないですか。
ここまで来て「やっぱりコピー用紙を補充してきます」とは言えない。
「一応こちらは裏口なので、まだマシかとは思いますが……大丈夫ですか?」
だから自動ドアだったのか。
表はどんな扉なんだろう。
たぶん、もっとひどい。
……いや、やめよう。
余計な想像を働かせるな。
想像しただけで、胃が重くなる。
深呼吸して、オレは頷いた。
それを確認した近江秘書は前を向き、自動ドアのボタンを押した。
数歩進んで、木目のルーバーの奥へ回る。
「失礼いたします。
迦梨屋総監、今朝の件で月城ひふみ警部補をお連れしました」
「ご苦労。通せ」
近江秘書が、その場からこちらへ下がる。
それは、オレに対する「前へ出なさい」という暗黙の命令だった。
緊張はする。
怖くないわけがない。
けれど、待たせてはいけない。
赤い絨毯の上で、もう一度だけ呼吸を整える。
それから、オレは木目のルーバーの奥へ踏み出した。
オレは、第一声をどう発したのか覚えていない。
覚えていない、というより。
その姿を認識した途端、思考が完全に飛んだ。
黒いソファー。
そこに座る、黒髪。
ブルートパーズのイヤリング。
牡丹色のインナーカラー。
こちらを見る、同じ色の瞳。
胸に金の4つの芝桜。
オレが言い終わると同時に、ホクロのある口元が微笑んだ。
「突然探しに行かせて、混乱させたことは申し訳なかった。
私の秘書は怖くなかったかな?」
オレは首を横に振るのが精一杯だった。
「そうか。ならいい。
探してもらったのは、少し……いや、四課にいる君の意見を直接聞きたくなったからだ。
実に良いものだったのでな」
一拍。
「座って」
「……し、失礼します」
促されたソファーに腰を下ろす。
目線の先には、功労賞や調度品が並んでいた。
つまり、上座。
……いいのか。
いや、総監が座れと言った。
だから座った。
座ったけど。
(これ、座っていい位置か?)
そうこう悩んでいるうちに、目の前へ紅茶が置かれた。
いい茶器。
いい香り。
いい席。
胃だけが、ぜんぜん良くない。
「本題の前に……村上の件はすまなかった」
(はい?)
「パワーハラスメントは、もう少し厳罰化を図ってもいい。……村上には、お目付け役を置くべきだったな」
付箋の上を、ペン先が走る音がした。
「こういうものは、一度見逃すと慣例になる」
総監は付箋から目を上げずに言った。
「慣例になれば、次は誰も違和感を持たなくなる。そうなる前に潰すべきだった」
いや待て。
オレは今、総監に謝られているのか。
村上係長の件で。
カチッ、とペン先をしまう音がした。
まるで、今ここで決定事項が確定したような音だった。
「さて。余談はほどほどにして、本題に移ろう。
まず確認だが、この提言書は君が書いたもので間違いないな?」
テーブルの上に差し出された用紙の束。
表紙には、シンプルに「第六特視隊提言書」の文字。
(……これはオレが入れてないから、雪園隊長だろう)
提出者は、雪園正雄。
「中身を確認してくれても構わないぞ」
「では、失礼します」
嘘であってほしい気持ち以上に、雪園隊長がオレのレポートをどうまとめたのかが気になった。
1ページ目。
3ページ目。
28ページ目。
……間違いなく、オレが書いた。
オレが雪園隊長に話した時よりも、ずっと具体的で、実用的な形に整えられている。
でも。
でもだ。
(あの時、紅茶とフィナンシェに釣られて、雪園隊長にペラペラ話したオレを、今のオレは殴りたいっ!
金の延べ棒で頭をかち割る勢いで!!)
「これは確かに、私が書きました」
「そうか。やはり、月城君が書いたものか。
……率直に述べると、四課である君がここまで特視隊のことを理解し、実用に耐える形で書ける。
その洞察力は素晴らしい」
「お褒めいただき、光栄です」
口ではこう言ったが、総監の仰った“実用”というワードがどうしても引っかかる。
(なんせ、この提言書は……)
「それで、月城君。君を慕っている四課の者も、何名かこちらへ移す」
「……はい?」
「君だけを抜けば、残された者が困る。君のやり方を知る者も必要だ。
それに、腐らせるには惜しい」
帰りたい。
そう思っていたはずなのに、その一言で喉の奥が詰まった。
自分だけの話なら、まだ逃げ道を探せた。
けれど、部下の名前を出されると、足元にあった退路が音もなく閉じる。
「勘違いするな。人質ではない」
「……」
「何より、君にはあるのだろう?
叶えてやりたいものに、守りたいもの。
それをこちらも守ると言っている」
「それは……非常にありがたいのですが、迦梨屋総監」
一拍、間が落ちる。
「僭越ながら、この提言書は、あくまで私と雪園警視長の雑談の延長線上を切り取ったものです」
……何言ってんだ、オレ。
うっかり……うっかり、部下と“実用”なんていうワードを耳にしたばっかりに。
口が動いてしまった。
(目上、しかも最上位の方に対して、何を言ってるんだろう)
「切り取ったもの?」
「はい」
目線が合った。
(……やべ。スイッチ入れた)
総監の体が微かに前のめりになった。
「続けて」
「はい。では、お言葉に甘えて話を続けさせていただきます」
あぁマズい。
帰るどころのレベルじゃなくなったぞ。
心は焦るのに、口は喋る。
2090年代における、ジェミニ犯罪等に関わる情報量。
その情報を活用すべきメリット。
還元することで、現場にもたらす恩恵。
(あーよくないっ、よくないぞ……これは)
これじゃ、提言に留まらない。
運用領域のところまで行ってしまうぞ。
部外者の四課であるはずのオレが、完全に設立を後押ししている形に捉えられかねない。
よりにもよって、なんで相手が直属部の部長も兼ねてる人なんだ。
(オレのアホっ)
でも、1つだけ言いたい。
この漂う圧を前にして、黙秘は無理だ。
それは姿勢なのかもしれないし、目の奥の鋭さなのかもしれない。
もしくは、同意する声色か。
……いや、そうだけど、そうじゃない。
「属人化を避け、業務のブラックボックス化をさせないことが目的です」
「うむ。実によい提案だ」
総監が感心したように笑った。
そう、これだ。
笑顔そのものが、圧になっているんだ。
優しく肯定するはずの表情が、人を従える甘美なものに変わる。
そんな魔術を可能にしてしまえるのは、神か悪魔くらい。
「――なるほど。で、実施に際してはどの程度の規模が適切だ?」
そして多分、オレもそこに並んでしまっている。
お菓子よりも甘い、その笑顔の列に。
――
「この廊下の先が、東棟の捜査三課・四課のフロアです。それでは、失礼いたします」
御影石の通路の終わりで、近江秘書が一礼した。
それと同時に、扉が閉まる。
オレも行くか。
足裏に、慣れたコンクリート風の灰色の床の硬さが戻ってくる。
「……あの場所はマズい」
地上20階のあそこは。
人間が長居するとこじゃ……ない。
……気持ち悪い。
咄嗟に手で口を覆う。
手洗い、近いのはどこだ。
頼むから、しゃがみ込むなよ。
排水管へ、ジャージャーと水が流れていく。
キュッという音とともに蛇口を止めて、オレは顔を上げた。
あー……気持ち悪かった。
しかし、思考があの場所から帰ってこない。
(……本当にあの場所は、人間が長居するようなところじゃない。
それなのにオレは、結局、甘い毒を口にしてしまった気がする)
脳裏に、出されたあの紅茶が浮かんだ。
「……帰らないと」
「――月城」
低く、渋みのある声で名前を呼ばれて、脳裏の紅茶がふっと消えた。
顔を上げる。
赤絨毯はない。
御影石の通路もない。
白金色のバッジも、牡丹色の笑顔もない。
あるのは、Hekatēの端末画面と、終わったばかりの業務ログ。
それから、7年前に焼き菓子を寄越した男の顔だった。
画面越しの前髪には、目玉焼きのヘアピンも映っている。
「終わったか」
その一言に、オレはゲーミングチェアを回した。
「ええ。仮想側は潰しました。現実の方も、もうじき拾えます。で?」
……その紙袋は、なんですか。




