第11話 見えすぎた夜
保安麻布署の廊下は、昼間より静かだった。
夜勤者の足音。遠くの無線音。
漂うコーヒーの匂い。
「……お待たせしました」
書類を抱えた男が、角からひょこりと現れる。
二十六歳くらい。スーツはきちんとしているが、目だけが少しそわそわしていた。
「あ、えっと……廣目保安官、ですよね」
「そうです。さ、佐倉さん?」
「はい! 佐倉 悠斗です、刑事課の」
丁寧な礼。
アタシは書類を受け取りながら、横目でその表情を読んだ。
(……第六、気になってる。めちゃくちゃ)
隠せてない。
冷静を取り繕って、隣にいるべき人のことを話題に出した。
「鬼頭さんは?」
「別件の現場です。あの……毘乃木保安官は」
逆にアタシの隣にいるはずの人を聞き返された。数分前の駐車場でのやりとりを思い出す。
「あぁ、警察署の方に諸用があるって」
「そうですか」
少しだけ、残念そうな顔。
(やっぱバレバレじゃん。……興味、あるのかな)
「何か聞きたいことありますか?」
思わず聞いた。佐倉が、一瞬固まる。
「……いえ、その」
誤魔化すように手が振られる。いや、その反応はむしろ気になっちゃうよ。
「遠慮しなくていいですよ」
「……第六って、やっぱりすごいんですか。夜回り=保安と言ったら特視隊みたいなとこ、あるじゃないですか」
出た。
アタシは少しだけ笑う。
「すごいかどうかは、まだ分からないですけど」
一拍。
「ろくでもないのは確かです」
佐倉が、きょとんとした顔をした。
それだけで十分だった。
⸻
『司令より各局』
走っていた車内に、無線が入る。
「……来た」
助手席からマイクに手を伸ばす。
「了解。特視603、急行します」
聞いていた沙与の足がアクセルを踏む。
車体は、夜の道へ滑り出す。
⸻
現場は、六本木の裏路地だった。
人が、多い。
騒ぎを聞きつけた野次馬。
逃げようとする人。
怒号。
「よし、降りよう」
沙与の声にドアを開ける。
外の空気が、一気に流れ込む。
その瞬間——
(……あ)
視界が、開く。
人の熱。全員分。
動線。重心。次の動き。全部が、同時に来る。
(多い)
絞れない。
どこを見ても情報が来る。
男。女。子供。
熱の色が違う。動きの速さが違う。
(どこ……どれ……)
多すぎる。息が上がる。
「……廣目さん?」
沙与の声が、遠い。
(分かってる。見えてる……)
でも。
足が、動かない。
情報が多すぎて、どこへ向かえばいいか。
どれが正解か。分からない。
「廣目さん」
もう一度。
近い。でも届かない。
視界の奥で、沙与が動く。
一人で、若い男の前へ出る。
迷いのない足取りで。
瑛梨はその場に、立ったまま——
⸻
あっという間に制圧完了。
ただ、その際に沙与の視線は首元へ……四葉の蒙古斑が、半分ほど消えかけていた。
「……消えかけてる」
誰にも聞こえない声で、そう呟いた。
所轄に引き渡され、野次馬の人波が引いていく。
赤色灯だけが、静かに回っている。
瑛梨は、まだそこにいた。
足元のコンクリート。
自分の手。
拳銃のホルスター。
触れていない。
「……行こっか」
平然と、沙与が戻ってくる。
いつもの声。責めない。
でも。
何かを、見ている。
⸻
車内。
エンジン音。無線の低いノイズ。
それだけが流れる。
信号が赤になる。
車が止まる。
沈黙。
瑛梨は、フロントガラスを見ていた。
街の光が、滲む。
(言わなきゃ。言わなきゃいけない)
「……毘乃木さん」
「ん?」
「さっき」
声が、少しだけ揺れる。
「見えすぎました」
一拍。
「全員分の動きが、同時に来て……絞れなかったです。
足が、止まりました……ごめんなさい」
言い切る。
沈黙。
信号が、青になる。
でも沙与はすぐに動かない。
一秒。
二秒。
「……そっか」
短く言う。
それから、アクセルをゆっくり踏む。
車が動き出す。
「廣目さん」
「はい」
「それ、いつから?」
「……今日が、一番ひどかったです。前は……何となく見えるくらいで」
「なるほど」
淡々と聞く。でも、聞き流していない。
「……OJTとして聞くね」
一拍。
その言葉で、空気が少しだけ変わる。
「能力が不安定な時期に、無理に絞ろうとすると逆効果になる」
「……え」
「もし見えすぎたら、一回全部手放す。
捨てる感覚。
全員じゃなくて、一人だけ選ぶ練習から始める」
「一人……」
「そう。
対象を絞るのは技術だから。最初から全部を見ようとしなくていい」
淡々と言う。
でも、それは経験から来る言葉だった。
(……この人も、最初から出来たわけじゃない)
胸の奥が、少しだけ緩む。
「……はい」
「それと」
沙与が続ける。
「次、同じことが起きたら報告して。現場で止まるのは、私も困る」
「……はい」
「あなたが動けない分、私が動くから。でも——」
一拍。
「それが続くのは、あなたの為にも現場の為にもならない」
きつくない。
でも、逃げ場がない。
OJTの目線。指導者の言葉。
「……分かりました」
「うん」
それだけ。それ以上は言わない。
沙与の目線が前に戻る。
フロントガラスの向こうで、夜の街が流れていく。
アタシは小さく息を吐いた。
重さは残る。
でも、少しだけ形が変わった気がした。
(一人だけ、選ぶ)
その言葉が、静かに胸に落ちる。
まだ、できない。
でも——できるかもしれない、という気がした。
夜は、まだ続いている。




