第10話 麻布の夜
4月8日ーー夜は、続いている。
終わったはずの初日の当番の延長みたいに、
街は何事もなかった顔で光っていた。
六本木。
ネオン。
笑い声。
香水とアルコールの匂い。
「……すごいですね」
助手席で、アタシは小さく呟く。
「うん。ここはこういう街」
運転席の沙与が、変わらない声で返した。
「綺麗だけど――」
一拍。
「中身は、あんまり綺麗じゃないよ」
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『司令より各局』
無線が入る。
いつもの声。
いつもの抑揚。
「……来たね」
『麻布署管内、通報あり』
「了解。特視603、向かいます」
アクセルが踏まれる。アタシの体がシートへ沈む。
車体が、夜へ滑り出した。
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現場は、西麻布の外れ。
規制線。
赤色灯。
パトランプの反射。
ネイビーブルーの車体が止まる。
「降りよっか」
「はい」
助手席のドアを開ける。
外の空気。
少しだけ、重い。
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「そこ入るな」
低い声。
止められる。
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振り向く。
スーツの男。
無精ヒゲ。
目つきが悪い。
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「……麻布署?」
沙与が短く確認する。
(所轄?)
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「見りゃ分かるだろ」
一歩、近づく。
視線が、上から落ちる。
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「……特視か」
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一瞥。
まず、バディの沙与。
次にアタシ。
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「若いな」
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間。
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「で」
男性が顎を少し動かす。
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「そっちが連れか」
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アタシのことか。肩が、わずかに強張る。
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「新人です」
沙与が答える。
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「へぇ」
煙草を咥えたまま、男は笑うでもなく言う。
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「また厄介なの抱えてんな、岡本」
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その名前に、空気が少しだけ変わる。
岡本って、我らが班長の岡本主任ことよね……アタシはつい話しかけた。
「……岡本班長、ご存知なんですね」
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「何回か顔見てる」
短く返す。
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「その横で動いてたガキもな」
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こう言って視線が沙与へ戻る。空気に煙草の匂いが混じる……
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「まだ岡本と組んでんのかと思ったわ」
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「違いますよ」
即答。
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「へぇ」
煙を吐く。
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「じゃあ今は――何だ」
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一拍。
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「“自分で動いてる側”か」
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沈黙。
否定も、肯定もいらない。
それで十分だった。
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「ーー鬼頭さん。
中、見てもいいですか」
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「……ああ、いいぞ」
軽く顎で指す。
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「ただし」
一拍。
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「“遊びじゃねえ”からな」
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「分かってます」
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規制線を越える。
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現場。
車両。
破片。
そして――
透明な欠片。
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(……また)
視界が、わずかに揺れる。
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「それ」
鬼頭さんが言う。
しゃがみ込んで、欠片を白手袋の指で弾く。
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「最近、増えてんだよ」
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「どこでも」
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沙与が静かに拾い上げる。
観察。
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「……量、多いですね」
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「だろ」
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「ガキが持つ量じゃねえ」
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一拍。
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「でも、ガキが持ってんだよ」
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空気が、少しだけ重くなる。
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「……流れ、追えてます?」
沙与が聞く。
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「追えてたら苦労してねえ」
即答。
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「六本木、西麻布、麻布十番……」
煙を吐く。
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「全部、薄く繋がってる」
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「でもな」
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「線にならねえ」
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沈黙。
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「……誰かが、切ってる」
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その言葉に、アタシの指がわずかに動いた。
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(切ってる)
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「証拠も残らねえ」
鬼頭が続ける。
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「足もつかねえ」
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「綺麗すぎる」
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その一言。
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沙与の目が、わずかに細くなる。
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「……綺麗すぎる、ですか」
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「普通じゃねえよ」
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「こんだけ流れてて、誰も捕まらねえとか」
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「ありえねえだろ」
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その通りだった。
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「……鬼頭さん」
沙与が隣へ顔を向けた。
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「これ、ただの薬物じゃないです」
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一拍。
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鬼頭は、煙を吐いた。微かに頷き
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「だろうな」
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と、軽く言う。
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「ろくなもんじゃねえ顔してる」
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そう言って視線が、アタシへ向く。どうかしたかな……
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「お前」
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「見えてんだろ」
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突然の言葉。
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「……え」
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「さっきから、目が違う」
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沈黙。
言い当てられてしまった。
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「……」
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ふさわしい言葉を探す。
でも。
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「……はい」
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アタシの口から出たのは、それだけだった。
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鬼頭は小さく頷く。
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「死ぬなよ」
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それだけ。
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軽く言う。
でも。
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軽くはない。
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遠くで、サイレンが鳴る。
夜は、まだ終わらない。
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沙与が立ち上がる。
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「……廣目さん」
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「はい」
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「行こっか」
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視線が、前を向く。
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「ここからが本番だから」
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ネオンが、揺れる。
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綺麗な街の中で。
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何かが、確実に流れている。




