ヴィトラ協会
第2章 ヴィトラ協会
午後四時。
オットーとネルソンは、女子トイレの前に立っていた。
ネルソンは頭上の看板を見つめる。
それからオットーを見る。
そして、もう一度看板を見る。
「……本当にここで合ってるんだよな?」
「うん」
「本当にあの男とここで会うんだよな?」
「うん」
「女子トイレで?」
オットーは頷いた。
ネルソンは頭を掻いた。
「なんで秘密組織の待ち合わせ場所が女子トイレなんだよ?」
「知らない」
「お前、気にならないのか?」
「気になる」
ネルソンはオットーを見つめた。
「だったら、もうちょっと気になってる感じ出せよ」
オットーは肩をすくめた。
実際、気になっていた。
ものすごく。
昨夜、空から現れた男にヴィトラ協会へ招待されて以来、オットーの頭からそのことが離れなかった。
本に書かれていた謎の技術。
あれは本当に存在していた。
ヴィトラ。
すべての人間の中に存在する生命エネルギー――Vital Energyを操る技術。
本には、そのエネルギーを操作することで、普通の人間なら不可能だと考えるようなことさえ実現できると書かれていた。
Googleではフィクションだとされていた。
だが今、目の前に現れた男は、本来なら不可能なことを実際にやってみせた。
オットーに、招待を受けるかどうか迷う理由などなかった。
ネルソンを説得するには、少し時間がかかったが。
「一応確認するけど」
ネルソンが言う。
「ここであの男と会うって、俺たち二人とも納得したんだよな?」
「もちろん」
「それで、いかにも罠ですって感じの場所に入るわけじゃないよな?」
「その可能性はある」
ネルソンの目が見開かれる。
「全然安心できねえ!」
オットーは小さく笑った。
「大丈夫」
「お前ってさ……たまに落ち着きすぎじゃないか?」
そのとき。
女子トイレのドアが開いた。
二人が振り返る。
そこに立っていたのは、昨夜の男だった。
男は笑みを浮かべる。
「ちゃんと来てくれたようだね」
ネルソンの表情が一瞬で険しくなる。
「お前……」
男が外へ出る。
「私の名前はアレクサンダー」
そして二人を交互に見る。
「そして今日から、君たちの師匠になる」
「師匠?」
ネルソンが自分を指差す。
「何の?」
アレクサンダーは笑った。
「ヴィトラを教えるための師匠だ」
オットーの目が鋭くなる。
やはり――本当だった。
アレクサンダーは女子トイレへ振り返った。
「ついてきなさい」
そのまま中へ入っていく。
二人も後を追った。
アレクサンダーは個室の一つの前で立ち止まった。
そしてドアを開ける。
「中へ」
ネルソンは男を見つめた。
「……は?」
「二人ともだ」
ネルソンは個室を指差す。
「俺たちに、そこへ入れって?」
「そうだ」
「なんで先にあんたが入らないんだ?」
アレクサンダーは首を横に振る。
「私が先に入ったら、君たちはついて来られない」
「なんでだよ?」
ネルソンの顔が怪訝そうに歪む。
「意味が分からないんだけど」
アレクサンダーはただ笑った。
オットーが前へ出る。
「分かった」
「オットー!」
ネルソンの制止を無視し、オットーは個室へ足を踏み入れた。
その瞬間――
姿が消えた。
ネルソンが固まる。
「……オットー?」
返事はない。
ネルソンはアレクサンダーへ振り返る。
「兄貴はどこだ?」
「向こう側だ」
「向こう側ってどこだよ!?」
アレクサンダーは落ち着いたままだ。
「安心しなさい」
ネルソンはアレクサンダーの襟を掴んだ。
「兄貴に何かしてたら――」
「だったら、君自身が中へ入って確かめるんだな」
ネルソンが止まる。
アレクサンダーは微笑んだ。
「仮にこれが罠だったとしても、君の兄はすでに向こう側にいる」
ネルソンは個室を見つめた。
気に入らない。
だが、理屈は通っている。
「……それもそうだな」
ネルソンは手を離す。
「分かったよ」
そして個室へ入る。
姿が消える。
アレクサンダーも続いて中へ入った。
ドアが閉じた。
---
ネルソンが目を開く。
「うわ……」
隣では、オットーも前方を見つめていた。
「……うわ」
二人は、巨大な草原の真ん中に立っていた。
目の前には、巨大な建物がそびえ立っている。
あまりにも大きく、ネルソンは頂上を見るために首を思い切り上へ向けなければならなかった。
その右側には、さらにもう一つ巨大な建物がある。
最初の建物よりは少し小さい。
左側には、それよりずっと小さな建物があった。
まるで寮のようだ。
二人の後ろにアレクサンダーが現れる。
「ようこそ」
ネルソンがゆっくり振り返る。
「どこへ?」
「我々の本部へ」
オットーは辺りを見渡す。
「ここが……ヴィトラ協会?」
「そうだ」
アレクサンダーは一番小さな建物を指差す。
「あれが寮だ」
ネルソンが見る。
「部屋はいくつ?」
「十室」
「十?」
「そうだ。普段はほとんど使われていない。訓練生は修行中、あそこで生活する」
オットーがすぐに尋ねた。
「僕たちは一人部屋?」
アレクサンダーがオットーを見る。
「もちろん」
オットーは頷いた。
「よかった」
ネルソンが笑う。
「そこ気にするのかよ?」
「自分の空間は欲しい」
「まあ、それは分かる」
アレクサンダーは右側にある大きな建物を指差した。
「あれが評議会図書館だ」
オットーの目が見開かれる。
「図書館?」
「そうだ」
オットーはその建物を見つめる。
そして――
表情が完全に変わった。
「おおおお……」
ネルソンが彼を見る。
「出たよ」
オットーにはほとんど聞こえていない。
「本……」
アレクサンダーが苦笑する。
「そう。本だ」
「何冊?」
「たくさんある」
オットーの目が輝く。
ネルソンは呆れたように首を振った。
「信じられねえ……」
アレクサンダーは最後の建物を指差した。
「そして、あれが本部だ」
巨大な建物は敷地の中央にそびえ立っている。
「そこが、いずれ君たちの訓練場所になる」
「いずれ?」
ネルソンが聞き返す。
アレクサンダーは頷いた。
「少し問題がある」
「問題?」
「今の君たちは、まだ中へ入れない」
ネルソンが眉をひそめる。
「なんで?」
「あの建物へ入るには、自分自身の生命エネルギーを使う必要がある」
オットーが建物を見る。
「つまり、自分の生命エネルギーを操れるようになるまで……」
「入ることはできない」
ネルソンが肩をすくめる。
「じゃあ、別の場所で修行すればいい」
「その通り」
アレクサンダーは寮を指差した。
「今は、あそこで修行してもらう」
---
オットーは本部を見渡した。
「それで、実際にヴィトラを習えるようになるまで、どれくらいかかる?」
アレクサンダーが彼を見る。
「気が早いな」
「ここに来たのは、習うためだから」
ネルソンも頷く。
「確かに」
オットーは腕を組んだ。
「すぐに結果が出なければ、興味を失うかもしれない」
アレクサンダーが笑う。
「結果、ねえ……」
コートの内側へ手を入れる。
「それなら、見せてやろう」
取り出したのは、小さな容器だった。
中には、いくつかの錠剤が入っている。
ネルソンが目を向ける。
「それ、何?」
「近道だ」
オットーはすぐに警戒する。
「何が入ってる?」
「自分の生命エネルギーを、ほぼ一瞬で感じられるようになる薬だ」
オットーの目が細くなる。
「副作用は?」
「ない」
「……怪しい」
アレクサンダーは笑った。
「ただし、渡す前に一つ約束してもらいたい」
「何?」
「この薬のことは、誰にも話さないこと」
ネルソンが瞬きをする。
「なんで?」
「その……少々、禁じられている」
オットーが容器を見る。
「なぜ?」
アレクサンダーの笑みが少しぎこちなくなる。
「評議会は、こういう薬を使うことをズルだと考えている」
「じゃあ、なんで俺たちに渡すんだ?」
「君たちは結果を求めているからだ」
オットーは黙った。
どう見ても納得していない。
しかしネルソンは、容器から一錠取り出した。
「まあいいだろ」
そして飲み込む。
オットーがネルソンを見る。
「ネルソン」
ネルソンは待った。
しかし――
何も起こらない。
ネルソンはアレクサンダーを見る。
「……これだけ?」
アレクサンダーは笑った。
「一分ほどかかる」
ネルソンは腕を組んだ。
「なんだよ。つまんねえな」
アレクサンダーはもう一錠、オットーへ差し出す。
「君の番だ」
オットーは動かない。
「いらない」
ネルソンが彼を見る。
「なんで?」
「薬が禁じられている理由を説明してない」
アレクサンダーはため息をついた。
「評議会は、人間は自分の生命エネルギーを自然に操れるようになるべきだと考えている。この薬は、その過程を早める」
「つまり、ズルってことか」
「本質的にはそうだ」
オットーはそれでも受け取らない。
「僕は嫌だ」
ネルソンが呆れたように目を回す。
「いいから飲めよ」
オットーが反応するより早く、ネルソンは薬を一錠掴み、オットーの口へ押し込んだ。
オットーの目が見開かれる。
「ネルソン――」
そのまま飲み込む。
一瞬。
何も起こらない。
だが――
「うあああっ!」
ネルソンが突然、腹を押さえた。
オットーが振り返る。
「ネルソン?」
ネルソンが膝をつく。
「何だこれ!?」
空気が妙な圧力に満たされる。
何かが、ネルソンの体の中で動き始めた。
血ではない。
心臓の鼓動でもない。
もっと深いところにある何か。
生まれたときから、知らず知らずのうちに持っていたもの。
生命エネルギー。
それが、ネルソンの体中を駆け巡り始めた。
ネルソンの表情が変わる。
苦痛が、次第に驚きへと変わっていく。
「俺……」
荒い息を吐く。
「感じる……」
アレクサンダーは静かに見守っていた。
「よし」
ネルソンは自分の手を見る。
「俺の中に……ある」
目を見開く。
「本当に、俺の中に何かある……」
オットーはその様子を見つめていた。
本には生命エネルギーについて書かれていた。
ヴィトラについても書かれていた。
だが――
読むことと、自分自身の生命エネルギーを感じることは全く違う。
アレクサンダーがオットーを見る。
「君の番だ」
オットーは迷った。
そして、息を吸う。
薬を飲み込む。
直後――
「うああっ!」
オットーも片膝をついた。
両手で腹を押さえる。
同じ感覚が体中へ広がっていく。
ずっとそこにあったもの。
なのに、一度も気づかなかったもの。
何年も本を読んで探し続けていたもの。
自分自身の生命エネルギー。
感じる。
初めて、はっきりと感じる。
いつものオットーからは想像できないほど、表情が崩れていた。
そして――笑った。
面白かったからではない。
嬉しかったからだ。
「これが……」
目を閉じる。
「……生命エネルギー」
---
「ちゃんと立て」
アレクサンダーの声で、二人は我に返った。
オットーとネルソンは立ち上がる。
「まだ操ろうとするな」
アレクサンダーが言う。
「今は、ただ感じろ」
ネルソンが目を閉じる。
オットーも同じように目を閉じた。
「最初の目標は単純だ。自分の生命エネルギーに慣れること」
アレクサンダーは二人の周囲を歩く。
「ヴィトラとは、このエネルギーを操る技術だ。その技術を学ぶ前に、まず自分が何を操るのかを理解する必要がある」
オットーは注意深く耳を傾けていた。
「寮へ行け。そして、これから二日間、自分の生命エネルギーを感じる練習をしろ」
「その後は?」
ネルソンが尋ねる。
「訓練開始だ」
ネルソンが笑う。
「やっとか」
アレクサンダーは本部へ向き直った。
「また後で会おう」
歩き始める。
ネルソンが目を開いた。
「待て」
アレクサンダーが止まる。
「どこ行くんだ?」
「帰る」
ネルソンが本部を指差す。
「ここに住んでないのか?」
「住んでいない」
「じゃあ、どうやって出るんだ?」
アレクサンダーは歩き続ける。
「出口は中にある」
ネルソンは呆然とする。
「中って、何の中だよ?」
アレクサンダーは答えなかった。
ただ、巨大な中央の建物へ向かって歩いていく。
オットーは、遠ざかっていく彼の姿を見つめた。
やがて、アレクサンダーが見えなくなる。
オットーは自分の手を見下ろした。
何年もの間、ヴィトラは奇妙な本に記されたただの言葉だった。
だが今――
そのヴィトラを可能にするエネルギーを、自分自身の中に感じている。
ずっと考えていた。
本当に存在するのか。
今なら分かる。
存在する。
そして初めて――
オットーは、それを操れるようになる日が待ちきれなかった。




