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第9話 壊れた物は、嘘をつかない

 三十四人の証言と、一人の完璧なアリバイ。


 物語なら、三十四人の言葉が勝つのだろう。


 だが、現実の事故調査では、人数の多さがそのまま真実になるとは限らない。百人が同じものを見たと言っても、最初の一人の勘違いを残り九十九人が信じただけ、ということもある。


 まして、今回は証言する側が無登録の労働者で、疑われた側は大司祭の側近だ。


「あいつを捕まえろ!」


 ジェスクがローデンへ飛びかかろうとした。


 厨房の入口に立っていた近衛兵二人が、すぐに彼の両腕をつかむ。


「離せ! その男が帳簿へ火をつけたんだ!」


「落ち着け!」


「これが落ち着いていられるか! こっちは死にかけたんだぞ!」


 ジェスクは、負傷しているとは思えない力で暴れた。


 足元の毛布がめくれ、治療用の水桶が倒れる。近くに寝かされていた怪我人が怯え、白石が大声を上げた。


「暴れるなら外でやってください! ここには頭を怪我している人もいるんです!」


「俺に言うな! あの野郎に言え!」


「あなたの声のほうが大きいんです!」


「犯人が目の前にいるんだぞ!」


「それでも、患者を踏んだらあなたを先に殴ります!」


「神癒の勇者が殴っていいのかよ!」


「殴った後で治します!」


「治せばいいってもんじゃねえだろ!」


 ジェスクが思わず言い返し、暴れる力が少しだけ弱まった。


 近衛兵は、その隙に彼を壁際へ押さえる。


 ローデンは最初から一歩も動いていなかった。


 泥だらけの作業員たちを、哀れむような目で見ている。


「どうやら、地下で恐ろしい経験をされたようですね」


 穏やかな声だった。


 だからこそ、腹が立つ。


「長く暗所へ閉じ込められ、死の恐怖にさらされた人は、ときに記憶が混乱すると聞きます。自分を苦しめた原因を求め、無関係な人間を犯人だと思い込むこともあるそうです」


「思い込みじゃねえ!」


 ジェスクが怒鳴る。


「俺だけじゃない! ルカも、ボリンも、みんな見た!」


「一人が私の名を口にし、ほかの方がそれを信じたのではありませんか?」


「顔を見たんだよ!」


「炎と煙の中で?」


「左手の小指がない! 銀の手袋をしてた!」


 厨房にいた者たちの視線が、ローデンの左手へ集まった。


 彼は銀色の手袋をゆっくりと外した。


 左の小指は、第二関節から先がなかった。


 代わりに、指輪と一体になった細い銀製の義指が取り付けられている。


「確かに、私は幼い頃の事故で小指を失いました」


 ローデンは義指を見せたまま、かすかに笑った。


「ですが、それは王城で働く者なら多くが知っていることです。私へ罪を着せたい者が、その特徴を利用することもできるでしょう」


「ほら、やっぱり小指がないじゃねえか!」


「小指がない人間は、私一人ではありません。それとも、左手に怪我のある者は全員、犯人なのでしょうか」


「顔も同じだった!」


「恐怖の中で見た顔が、記憶の中にある私の顔へ置き換わった可能性は?」


「そんなわけ――」


「ジェスクさん」


 俺は椅子に座ったまま声をかけた。


「何だよ」


「見たことと、ほかの人から聞いたことを分けてください。地下で男の顔を見た。左の小指がなかった。帳簿へ油をかけ、火をつけた。そこまでは、あなた自身が見たことですか」


「ああ」


「名前は、いつ知りました?」


「前から知ってた。去年まで礼拝堂へ石炭を運んでたと言っただろう。あいつを何度も見た」


「誰かが地下で『ローデンだ』と言った後、初めてそう思ったわけではない?」


「違う。俺が最初に名前を呼んだ」


「分かりました」


 ジェスクは苛立った顔で俺を見る。


「おまえまで俺を疑うのか」


「疑います」


「何だと?」


「ローデンさんの話も疑います。オルバス大司祭の話も、ガレンさんの話も、俺自身の記憶もです。事故調査では、疑わない相手を最初に作った人間から間違えます」


「助けた相手を、嘘つき扱いするのかよ」


「あなたが嘘をついているとは言っていません。記憶は、本人に悪意がなくても変わります」


「ずいぶん気分の悪い話だな」


「そうですね。俺も、するたび嫌になります」


 ジェスクは俺をにらんだ。


 納得はしていない。


 だが、先ほどのように暴れはしなかった。


「アルフレッド様」


 ローデンが細身の貴族へ向き直る。


「このような騒ぎを長引かせれば、負傷者の治療にも差し支えます。私は別室へ下がってもよろしいでしょうか」


「その前に確認する」


 アルフレッドの声は静かだった。


「崩落が起きた時刻、おまえはどこにいた」


「礼拝堂です。召喚の儀式で負傷された方々の無事を祈るため、大司祭様と祈祷を行っておりました」


「間違いないか、オルバス」


 赤い法衣の老人がうなずく。


「間違いございません。ローデンは崩落直後から私とともに礼拝堂へ入り、皆の無事を祈っておりました」


「崩落直後とは、何分後です?」


 俺が尋ねると、オルバスが不愉快そうに眉を寄せた。


「異界人。いまはアルフレッド様がお尋ねになっておられる」


「時間を知りたいだけです」


「混乱の中で、いちいち時を測っていた者などおらん」


「では、ローデンさんが崩落の瞬間から礼拝堂にいたと証言できるわけではない?」


「大きな違いではない。少なくとも、救助活動が始まった頃には私といた」


「祈祷中、ずっと顔を見ていましたか」


「神へ祈るとき、相手の顔など見ぬ」


「途中で席を外した可能性は?」


「ない!」


「顔を見ていないのに?」


「声を聞いておる! 祈りの言葉を、隣で唱えていた!」


 オルバスの声が大きくなった。


 ローデンが穏やかに口を挟む。


「黒部殿は、私が祈りながら地下へ行き、火をつけ、また戻ってきたとお考えなのですか?」


「まだ何も決めていません。秘密階段なら、神殿と第三採掘場を短時間で往復できます」


「そのような階段が本当にあるのですか?」


「あなたが逃げた階段です」


「ですから、私は地下へ行っておりません」


 話は同じ場所を回り始めていた。


 証言だけでは決着しない。


「ルカさん。木札を」


 俺が手を出すと、ルカは胸元へ入れていた布包みを渡した。


 開くと、焼け焦げた作業記録の木札が現れる。


 表面には日付、作業場所、削る深さが書かれ、右下には銀色の蝋で印が押されていた。


「これは、今朝ボロスさんへ渡された命令書です」


 ローデンの表情が、ほんのわずかに変わる。


 俺は見逃さなかった。


「押されている印に、見覚えは?」


「神殿事務局の印です。私個人の物ではありません」


「誰が使えます?」


「大司祭様、私、ほかに上級書記官が三名」


「使用記録は?」


「神殿の機密事項です」


「紛失したことは?」


「何をお聞きになりたいのです」


「この印を使い、支柱を削る命令を出した人間がいます。あなたでないなら、誰かが印を勝手に使ったことになる」


「違法採掘を行っていた者たちが、罪を逃れるために偽造したのでしょう」


 その一言で、助けられた作業員たちがざわめいた。


「俺たちがやったって言うのか!」


「ふざけるな!」


「牢へ入れると脅したのは、おまえらだろう!」


 ローデンは騒ぎを恐れる様子もなく、作業員たちへ向き直った。


「無登録で王城地下へ立ち入り、国有資源である紫晶石を採掘した。それ自体が重い罪です。皆様が被害者だという点を考慮しても、すべて不問にできるとは限りません」


 声が止まった。


 作業員たちは互いの顔を見る。


 さっきまでローデンを指さしていた男が、そっと手を下ろした。


「ただし」


 ローデンは、彼らの動揺を確かめてから続ける。


「混乱の中で誤った証言をしたと認め、真摯に調査へ協力するなら、神殿から寛大な処置をお願いすることもできます。未払いの賃金や、ご家族への見舞金についても検討いたしましょう」


「証言を取り下げれば、金を払うという意味ですか」


 俺が尋ねる。


「そのようには申しておりません」


「そう聞こえました」


「異界から来たばかりの方には、我が国の慈悲深い制度が理解しにくいのでしょう」


「制度の話は、あとで勉強します」


 俺は作業員たちを見た。


「いま決めなくて構いません」


 ジェスクが驚いた顔をする。


「何を言ってるんだ。こいつは俺たちを黙らせようとしてるんだぞ」


「分かっています。それでも、皆さんには家族がいる。証言すれば処罰されるかもしれない。補償を受けられなくなるかもしれない。いま怒りに任せて約束し、明日になって後悔するより、考えて決めてください」


「正しいことを話せと言わねえのか」


「言いたいですよ」


「だったら言えよ」


「俺が正しさを要求して、あなたの家族へ金を払うわけではありません」


 ジェスクが黙った。


 マルタは隣にいたルカの腕を強くつかんでいる。


「ルカ。あなたは、もう何も話さなくていい」


「姉貴」


「家へ帰りましょう。母さんには、地下で働いていたことも、今日のことも、私から説明します。証言なんてしたら、牢へ入れられるかもしれない」


「でも、死んだ人もいる」


「あなたまで死んだら、母さんはどうなるの」


「俺が黙ったら、また同じことをするかもしれない」


「だったら、ほかの誰かが話せばいいでしょう!」


 言ってから、マルタは自分の言葉に傷ついたような顔をした。


 ほかの誰か。


 事故の後では、何度も聞く言葉だ。


 誰かが報告すると思った。


 誰かが止めると思った。


 誰かが責任を取ると思った。


 そして、全員が同じことを考えた結果、誰も動かなかった。


「ごめんなさい」


 マルタが小さく言った。


「でも、怖いの。あなたが正しいことをして、それで全部失うのが怖い」


「俺だって怖いよ」


 ルカは姉の手を振りほどかなかった。


「怖いから、少し考える。いま答えを出せと言われても、たぶん姉貴と喧嘩になるだけだ」


「もう十分喧嘩しています」


「それは、いつものことだろ」


 二人は互いに目をそらした。


 和解ではない。


 だが、相手の怖さを聞こうとはしている。


「その木札を、こちらへ渡したまえ」


 アルフレッドが手を差し出した。


「王国の責任で保管する」


「受領記録を作ってください」


「何だと?」


「誰が、何時に、どの状態で受け取ったかを書き、立ち会った人全員に署名してもらいます」


「私が証拠を隠すと疑っているのか」


「あなた一人のためではありません。受け取った後で木札がなくなれば、最後に持っていたあなたが疑われる。記録は、預かる側も守ります」


 アルフレッドはしばらく俺を見た。


 怒るかと思ったが、逆に小さく笑う。


「なるほど。面倒な男だ」


「よく言われます」


「紙と筆を用意しろ」


 近衛兵が紙を持ってくる。


 木札の焼けた範囲、書かれている内容、銀色の印を一つずつ確認し、アルフレッド、ガレン、ジェスク、ルカ、俺が署名した。


 俺はさらに、ポケットから黒い楔とボルトを取り出す。


「こちらも保管してください。水門を動かなくしていた楔と、支柱の補強材から外れたボルトです」


 黒い金属に刻まれた塔の印を見て、ローデンの目が一瞬だけ止まった。


「その印は?」


 俺が尋ねる。


「古い神殿の意匠に似ています。ただ、そのような金属片など、どこにでもあるでしょう」


「ずいぶん早く、価値がないと判断するんですね」


「価値があるようには見えませんから」


「壊れた物は、見た目だけでは分かりません」


 俺は黒い楔を布へ包んだ。


「人間は、事前に話を合わせられます。嘘をつく練習もできます。でも、壊れた物は嘘の練習をしません。誰が、いつ、どんな力を加えたか、必ず何かを残します」


「《事故鑑定》で私の罪を見たとでも?」


「まだ、この楔には使っていません」


「では、ただの脅しですか」


「いいえ。これから調べるという連絡です」


 ローデンの笑みが、わずかに薄くなった。


 そのとき、厨房の奥から激しい金属音が響いた。


 伝声管だ。


 ガレンが真っ先に走り、壁の蓋を外す。


 短い音が七回。


 次に、二回。


 長い音が三回。


「第六層からだ」


 ガレンが管へ耳を当てたまま言う。


「生存者、七十二名。東側作業坑に避難中」


「状態は?」


 俺も近づく。


 返ってきた打音を、ガレンが数える。


 途中で、その顔色が変わった。


「換気装置停止。魔石灯、消灯。呼吸困難者あり」


「空気が悪くなっている?」


「ああ。それに、東側作業坑は魔物の飼育区画に近い。隔壁が壊れていれば、何が入り込んでいるか分からん」


 先ほど救出した三十四人の治療さえ、まだ終わっていない。


 救助隊も疲れ切っている。


 それでも地下では、さらに七十二人が助けを待っている。


「黒部さんは行かせません」


 背後から白石の声がした。


「能力の反動が残っています。少なくとも三十分は休んでください」


「七十二人に、三十分待てと言えますか」


「だからといって、倒れる人を連れていけません」


「では、能力は使いません」


「信用できません」


「俺も、自分をあまり信用していません」


「開き直らないでください!」


 ガレンが伝声管の蓋を閉じ、俺たちの間へ入った。


「黒部は地上で図面を見ろ。俺が先に降りる」


「公式図面を信用するんですか」


「しない。だから、現場から合図を送る。おまえは上で情報を整理し、進む道を指示しろ」


「地下の破損に触れなければ、《事故鑑定》は使えません」


「使わないと約束したばかりだろう」


「約束ではなく、提案です」


「やはり地下へは連れていけん」


 ガレンと白石が、初めて完全に意見を一致させた。


 これはかなり不利だった。


「分かりました」


 俺が言うと、二人とも疑いの目を向ける。


「本当に分かったのか?」


「地上で図面を確認します。ただし、現場の状況が図面と違えば、すぐ知らせてください。判断できない場合は、俺も下ります」


「最初から、それを狙っていないだろうな」


「まさか」


「黒部さん」


 白石の声が低くなる。


「半分くらいは狙っています」


「正直に言えば許されると思わないでください」


 俺たちが言い争っている横で、ローデンが静かに笑った。


「事故鑑定士殿は、真相の追及より人命を優先なさるのですね。実にご立派です」


「何が言いたいんです」


「いえ。ただ、地下は危険です。大切な証人が、次の崩落で命を失わないようお祈りしております」


 露骨な脅しではない。


 だからこそ、聞き流せなかった。


 俺はローデンを見た。


「祈っていただかなくても結構です」


「なぜでしょう」


「あなたの祈りが始まった日に、地下が崩れましたから」


 ローデンの顔から、笑みが消えた。


 その表情を覚えておきたかったが、いまは七十二人の呼吸のほうが先だった。


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