第8話 逃げる犯人を追わなかった
三十四人を見つけたことと、三十四人を地上へ帰せることは、まったく別の仕事だった。
意識のない者が二人、自力で歩けない者が五人。腕を折った者、頭から血を流している者、寒さで唇が紫色になっている者もいる。
水位が下がったからといって、全員が元気に歩き出せるわけではない。
「歩ける人は、怪我人を真ん中にしてください。前と後ろに、灯りを持つ人を一人ずつ置く。隣の人と肩か腰をつかみ合って、離れないでください」
俺が説明すると、ジェスクが泥水の中から手を上げた。
「腰をつかむのは女相手でもいいのか?」
「いま聞くことですか」
「あとで、どさくさに紛れて触ったと言われたくねえ」
「言わないよ。あんたになんか触られたって、自慢にもならないからね」
選別作業をしていたらしい中年の女性が、すぐに言い返した。
「それはそれで傷つくんだが」
「生きて帰ったら、ゆっくり傷つきな」
周囲から乾いた笑いが起きる。
死にかけた直後だからこそ、くだらないことを言いたくなる人間もいる。緊張を保ち続けられるほど、人の心は丈夫ではない。
「互いの体を直接つかむのが嫌なら、服の裾でも、縄でも構いません。ただし、暗闇で離れたら必ず声を上げる。恥ずかしがって黙らないでください」
「迷子になった子どもみたいだな」
ジェスクが言う。
「迷子になった大人は、子どもより見つけにくいんです」
「それも異界の事故調査で学んだのか?」
「駅の避難訓練で、何度も学びました。大人は、自分だけなら大丈夫だと思って勝手な方向へ行きます」
「駅って何だ?」
「説明すると長いので、生きて地上へ出てからにしましょう」
「その言い方は卑怯だな。気になって死ねなくなる」
「効果があるなら、何度でも使います」
隊列の先頭はドーグが務め、ガレンは歩けない少年の肩を支えた。
俺は最後尾に回ろうとしたが、ガレンに前へ押し出された。
「おまえは俺の前を歩け」
「最後尾の確認が必要です」
「足元がふらついている人間を最後に置けば、気づかないうちに消える」
「そこまで弱っていません」
「では、まっすぐ歩いてみろ」
「暗い地下で?」
「できないだろう」
「それは誰でも同じです」
「いいから前へ行け。隊長は俺だ」
「さっき、俺は部下ではないと――」
「いまだけ部下になれ。地上へ出たら、好きなだけ辞表を書け」
「雇用契約を結んだ覚えがありません」
「なら、無断欠勤として牢へ入れる」
理屈が無茶苦茶だった。
だが、押し問答を続ける時間もない。俺はガレンの前へ入り、隊列の中央近くを歩くことにした。
第三採掘場へ戻る頃には、水は足首ほどまで下がっていた。
紫晶石の袋が積まれた空洞へ入ったところで、先頭のドーグが拳を上げる。
「止まれ」
全員の足が止まった。
「何か聞こえますか」
「音じゃない。臭いだ」
ドーグの言葉で、俺も気づいた。
湿った岩と泥の臭いに混じり、焦げた油の臭いがする。
「灯りを低くしてください」
魔石灯の光量を落とす。
採掘場の奥、公式図面にない壁際から、橙色の光が漏れていた。
よく見れば、そこには上へ続く細い石段がある。入口を紫晶石の袋で隠し、簡単には見つからないようにしてあった。
「神殿へ通じる秘密階段だ」
ジェスクが声を潜めた。
「親方から、絶対に近づくなと言われていた」
「誰かいる」
ガレンが剣を抜く。
石段の中ほどに、灰色の外套を着た男が立っていた。
男の足元には帳簿や木札が積まれ、その上で小さな炎が燃えている。手にしていた油壺から、最後の一滴を振りかけたところだった。
「おい!」
ジェスクが隊列から飛び出しかけた。
「あいつだ! ローデンだ!」
灰色の男が振り返る。
痩せた顔、薄い唇、神官らしく短く整えた髪。左手には銀色の手袋を着けていたが、小指の部分だけが不自然にへこんでいた。
「止まれ!」
ガレンが叫ぶ。
「王国地下迷宮守備隊長ガレン・ロッソだ! その場から動くな!」
ローデンは答えなかった。
俺たちを一度見渡し、三十四人が生きていることを確かめるように目を細める。
そして、手にしていた油壺を床へ叩きつけた。
燃えていた帳簿から炎が走り、床へ広がった油へ燃え移る。
「下がれ!」
ガレンが俺の前へ出た。
ローデンはその隙に石段を駆け上がる。
「ドーグ、ここを頼む! 俺はあいつを追う!」
「待ってください!」
俺はガレンの腕をつかんだ。
「離せ! 支柱を削らせた本人だぞ!」
「火が補強材へ回ります!」
「兵士を残す!」
「この人数を、三人だけで地上まで運ぶつもりですか!」
「ここで逃がせば、証拠を消される!」
「もう消しています!」
炎は床を舐め、紫晶石を入れた袋の間へ広がろうとしていた。
石自体が燃えるわけではない。しかし、袋も荷車も補強材も木製だ。この場で火が大きくなれば、煙で人が死ぬ。天井を支える木材まで燃えれば、再び崩落する。
ガレンが俺の手を振り払う。
「あの男を捕らえれば、事故の真相が分かる!」
「その証言をする三十四人が、ここにいるでしょう!」
「次の事故を起こされるかもしれない!」
「いま起きている事故を放り出して、次の事故を止めに行くんですか!」
ガレンの足が止まった。
その間に、ローデンは石段の上へ達する。
振り返った男の口元が、ほんのわずかに笑ったように見えた。
直後、壁から突き出していた縄を引く。
「何を――」
石段上部の支えが外れた。
岩が崩れ、階段の半ばを押し潰す。もう少しガレンが進んでいれば、巻き込まれていた。
粉塵が噴き上がり、ローデンの姿が見えなくなる。
「くそっ!」
ガレンが剣を床へ叩きつけた。
「怒るのはあとです! まず火を止める!」
「水をかけるな!」
ジェスクが叫んだ。
「油が広がる! 泥をかぶせろ!」
「歩ける人は、壁際の泥を布や板ですくってください! 怪我人は煙が来ない排水路側へ移動! 口と鼻を濡れた布で覆って!」
隊列が崩れた。
助かったばかりの人々を、もう一度働かせなければならない。
「俺たちは怪我人だぞ!」
脚を引きずる男が怒鳴った。
「外へ運んでくれるんじゃなかったのか!」
「動けない人には頼みません! 右腕が使える人、泥を渡してください!」
「何で俺たちが!」
「補強材へ燃え移れば、また天井が落ちます!」
「それを止めるのが、救助隊の仕事だろ!」
「人数が足りません! 助けられる側でいたければ、ここで待っても構いません。ただし、天井はあなたが被災者か救助者かを区別しません!」
「言い方ってもんがあるだろう!」
「あると思います! 考える時間をください!」
「そんな時間ねえだろ!」
「だから、その板を持ってください!」
男は悪態をつきながら、壊れた木箱の板を拾った。
人は、納得しなければ動かないわけではない。納得できなくても、腹を立てながら手を貸すことがある。
ルカとジェスクが泥をすくい、炎へ投げる。
ドーグは燃えていない紫晶石の袋を引きずり、火から遠ざけた。ガレンと兵士二人は、意識のない者を排水路側へ運ぶ。
俺は燃え広がる油の先を見た。
炎が木製の支柱へ届くまで、十メートルもない。
「そこへ泥を集めてください! 火を追うのではなく、補強材の手前へ壁を作る!」
「火を消さなくていいのか!」
「全部消そうとすれば間に合いません! 燃やしてもいい場所と、燃やしてはいけない場所を分けます!」
「帳簿が燃えるぞ!」
年配の作業員が火の中へ手を伸ばそうとした。
「俺たちの給金記録だ! あれがなくなったら、働いてたことまで消される!」
「入らないでください!」
「でも、あれがなきゃ、死んだ連中の家族は一銅貨も受け取れねえ!」
男は炎のそばへ走った。
ルカが背後から腰へ飛びつき、二人で泥の中へ転がる。
「離せ、坊主!」
「死んだら、受け取る家族が一人増えるだろ!」
「俺が取らなきゃ、誰が証明する!」
「木札がある! 俺が持ってる!」
「一枚だけで、全員分をどう証明するんだ!」
「だったら、あんたが生きて証言しろ!」
二人は取っ組み合うようにしながら、炎から離れた。
作業員は泣いていた。
「証言したって、役人が信じるもんか……。俺たちみたいな日雇いの話を、誰が聞くんだよ」
何も言えなかった。
この世界へ来たばかりの俺には、王国がどこまで彼らの証言を認めるか分からない。
ただ、日本で何度も見た。
記録にない作業。
契約書にない命令。
現場だけが知っている危険。
事故の後になって、そんな指示は出していないと切り捨てる人間。
「俺が聞きます」
言えるのは、それだけだった。
「何だって?」
「あなたたちが、いつ、誰から、どんな命令を受けたのか。地上へ戻ったら一人ずつ聞きます。名前も、作業時間も、削った場所も、全部書き残します」
「異界から今日来たばかりのあんたが?」
「ええ」
「明日には、王国の奴らに追い出されるかもしれねえぞ」
「そのときは、記録を持って追い出されます」
「盗人になる気か」
「証拠を隠すよりはましです」
男は泣きながら笑った。
「変な奴が呼ばれたもんだ」
「俺もそう思います」
泥の壁が炎の進路を遮る。
燃えていた油は、やがて広がる場所を失った。残った帳簿と木札の大半は黒く崩れたが、木製の補強材までは届かなかった。
煙は残っている。
長居はできない。
「もう一度、隊列を作ります!」
俺が声を上げると、人々が咳き込みながら集まってきた。
先ほど文句を言っていた男は、今度は自分から負傷者の肩を担いでいる。帳簿を取りに行こうとした作業員も、ルカが持っていた一枚の木札を布で包み、胸元へ大事そうに入れた。
ガレンが俺の隣へ来る。
「追えば、捕まえられた」
「かもしれません」
「あいつがまた誰かを殺したら、どうする」
「分かりません」
「俺を止めたのは、おまえだぞ」
「はい」
「ここでは正しかったと言いたいのか」
「三十四人を置いて追うよりは、正しかったと思います。ただ、ローデンを逃がした結果まで正しくなるわけではありません」
「次に死人が出れば、おまえにも責任がある」
「そうでしょうね」
「否定しないのか」
「自分が選んだ結果ですから」
ガレンはしばらく俺を見た。
「おまえは、もっと簡単に答える男だと思っていた」
「俺も、以前は簡単に答えられると思っていました」
「以前?」
「事故報告書には、原因と対策を短く書かなければなりません。短くすれば、誰かが読んでくれる。でも短くするほど、そこからこぼれる事情が増える。いつからか、正しい答えより、誰にも嫌われない答えを探すようになりました」
「今回は嫌われるほうを選んだのか」
「ジェスクさんたちには、すでに十分嫌われています」
「聞こえてるぞ!」
前方からジェスクの声が飛んできた。
「嫌ってはいるが、地上までは言うことを聞いてやる!」
「ありがとうございます!」
「礼を言われると、こっちが間違ってるみたいで腹が立つな!」
隊列が動き始めた。
煙の残る第三採掘場を抜け、排水路へ入る。
帰り道は、行きより長く感じた。
負傷者を板へ載せ、狭い場所では数人がかりで少しずつ送る。途中で何度も休み、そのたびに人数を数え直した。
三十四人。
救助隊六人。
誰も欠けていない。
ボロスを地上へ運んだ兵士とは、排水路の中ほどで合流した。白石へ引き渡したあと、戻ってきたらしい。
「黒部殿、命綱は?」
「扉を開けるために使いました」
「俺が戻るとき、絶対に必要だと三回も念を押したでしょう!」
「状況が変わりました」
「勝手すぎませんか!」
「俺もそう思います」
「そこで認められると、怒りにくいんですが!」
若い兵士は文句を言いながら、自分の予備縄を俺の腰へ結んだ。
地上の食料庫へ出たときには、最初の崩落から二時間近くが過ぎていた。
厨房は臨時の治療所へ変わり、床一面に毛布が敷かれている。白石は負傷者の間を走り回り、真田と岸本は水や担架を運んでいた。
「来ました!」
先頭のドーグが叫ぶ。
「生存者三十四名! 意識不明二名、重傷五名!」
厨房にいた人々が一斉に振り向いた。
歓声が上がりかけたが、白石がそれを遮る。
「喜ぶ前に道を空けてください! 歩ける人は壁際へ! 意識のない二人を先にこちらへ!」
助かった人々が次々と治療所へ運ばれる。
その中で、マルタがルカを見つけた。
「ルカ!」
「姉貴」
マルタは弟へ駆け寄り、勢いのまま頬を平手で打った。
乾いた音が厨房へ響く。
「痛っ! 何するんだよ!」
「何するんだよ、ではありません! 無登録で地下へ入っていたなんて、どうして黙っていたの!」
「言ったら止めただろ!」
「当たり前でしょう!」
「だったら、黙ってて正解じゃないか!」
もう一度、マルタの手が上がった。
ルカが両手で頭を守る。
「待って! 今度は怪我してる!」
「さっきも怪我人でしょう!」
「一回目は、怪我してると知らなかっただろ!」
「知っていても叩きました!」
「ひどくないか!」
「ひどいのはあなたです! もし死んでいたら、私は……私は、母さんに何と……」
最後まで言えず、マルタは弟へ抱きついた。
ルカは困ったように両手を浮かせたあと、姉の背中へ回す。
「悪かったよ」
「謝り方が軽い!」
「だって、姉貴が力いっぱい締めるから息ができないんだよ」
「そのくらい我慢しなさい!」
「助かった直後に姉貴に殺される!」
泣きながら怒る姉と、怒られながら笑う弟。
きれいな再会ではない。
だからこそ、本当に帰ってきたのだと思えた。
「黒部さん」
白石に呼ばれた。
彼女は俺の顔を見るなり、目を細める。
「能力を使いましたね」
「一度だけです」
「一度ならいいと、誰が言いました?」
「水も飲みました」
「水を飲めば帳消しになると思っています?」
「気休めにはなりました」
「口だけは元気そうですね」
白石が俺の顎をつかみ、顔を左右から確認する。
「目を動かしてください。右、左。指は何本に見えます?」
「二本です」
「本当は三本です」
「冗談です」
「患者の冗談は嫌いです」
かなり本気で怒っていた。
「治療が必要な人がほかにいます」
「だから、自分は後でいいと?」
「俺は歩けます」
「歩ける人が突然倒れると、余計に手がかかります。そこへ座ってください」
「でも――」
「座る」
「はい」
逆らうと本当に殴られそうだったので、俺は壁際の椅子へ座った。
そのとき、厨房の入口でジェスクが叫んだ。
「あいつだ!」
全員が振り返る。
開いた扉の向こうに、灰色の神官服を着た男が立っていた。
泥一つついていない服。
整えられた髪。
左手には、銀色の手袋。
地下の秘密階段で、帳簿へ火を放って逃げた男だった。
ローデンは赤い法衣の大司祭オルバスと、アルフレッドの後ろに控えていた。
「そいつが支柱を削らせた!」
ジェスクが男を指さす。
「地下にいた! 証拠へ火をつけて逃げたのを、俺たちは見た!」
ローデンは驚いたように目を見開いた。
それから、ひどく穏やかな声で言った。
「それは、奇妙なお話ですね」
「何が奇妙だ!」
「私は崩落が始まってから今まで、オルバス大司祭様とともに負傷者のため祈りを捧げておりました。多くの方が、それを見ております」
オルバスが重々しくうなずく。
アルフレッドは何も言わず、椅子に座った俺を見ていた。
ローデンの口元に、わずかな笑みが浮かぶ。
「異界より来られた事故鑑定士殿。危険な地下から多くの民を救ってくださったこと、心より感謝いたします」
逃げたはずの男は、俺たちより先に地上へ戻り、すでに自分が地下にいなかった証人まで用意していた。




