第7話 三十四人目の生還者
縦穴を上るのに、下りたときの半分も時間はかからなかった。
急いだからではない。
正確には、ガレンに下から押し上げられたからだ。
「自分で上れます!」
「その速さでは、地上へ出る頃には国が三つほど滅んでいる!」
「靴が滑るんです!」
「だから布を巻いたのだろう!」
「水に濡れて緩みました!」
「異界の靴は本当に役に立たんな!」
「帰れたら製造会社へ伝えておきます!」
狭い縦穴の中で言い争いながら、鉄の足場へ手を伸ばす。
先ほど能力を使った反動が残っており、指先には力が入りにくい。鼻血は止まったものの、耳の奥で高い音が鳴り続けている。
それでも、休んでいる時間はなかった。
頭上から、ドーグの怒鳴り声が落ちてくる。
「急げ! 最後の留め具が半分まで抜けている!」
「水位は!」
ガレンが叫び返す。
「下がっている! だが、扉がもたん!」
俺が縦穴から顔を出すと、ドーグと二人の兵士が鉄扉の左右へ張りついていた。
扉は先ほどより大きく膨らみ、中央から水が噴き出している。右上に残った最後の留め具は、太い釘を途中まで引き抜いたように傾いていた。
その向こうでは、三十四人が叫び合っている。
「水が下がってるぞ!」
「もう膝より下だ!」
「だったら、早く開けてくれ!」
「留め具が外れそうだ! 扉から離れろ!」
ドーグが扉の向こうへ怒鳴った。
しかし、鉄板を隔てているため、どこまで聞こえているか分からない。
「黒部、どうする」
ガレンが縦穴から這い出しながら尋ねた。
「水位の差は?」
「こちらは膝下です」
俺は扉の隙間から流れ出す水へ手を入れた。
勢いは先ほどより弱い。
それでも扉を完全に開けば、人を転ばせる程度の流れは起きる。暗く狭い通路で一人が転べば、その後ろにいる人間も続けて倒れる。
「留め具を壊す前に、扉が開く幅を縄で制限します」
「どこへ結ぶ」
「扉の取っ手と、そこの支柱へ――」
「その支柱は駄目だ」
ドーグが即座に言った。
「上に亀裂がある。扉の力を受けたら折れるぞ」
魔石灯を向けると、確かに柱の上部へ細い割れ目が走っていた。
俺の位置からは、影になって見えなかった。
「ほかに使える場所は?」
「左の壁に古い荷車用の鉄輪がある。壁の奥まで長い杭が入っているから、柱よりは持つ。ただし、一か所だけでは駄目だ。扉の力で杭が抜ける」
「もう一本を、排水路入口の格子へ回せますか」
「距離がある。縄が足りん」
「俺の命綱を使ってください」
腰の縄を外そうとすると、ガレンが止めた。
「帰りはどうする」
「行きと同じ道です。排水路には、壁沿いの鎖があります」
「足を滑らせたら?」
「誰かにつかまります」
「さっきまで二重の命綱が必要だと言っていた男の言葉とは思えんな」
「状況が変わりました。限られた資材を、いま最も必要な場所へ使います」
「自分へ使う分だけ、急に基準を緩めていないか?」
「議論はあとです」
ガレンは納得していなかったが、俺の腰から縄を外した。
ドーグが二本の縄を受け取り、鉄扉の取っ手へ回す。一方を左壁の鉄輪へ、もう一方を背後の格子へ結びつけた。
結び目の形は、俺が知っているものとは違った。
「その結び方で、ゆっくり縄を出せますか」
「港町の荷役人が使う結びだ。荷物の重さを受けながら、少しずつ緩められる」
「強度は?」
「濡れた縄でも持つ。少なくとも、おまえがさっき結んでいた輪よりはな」
「では、任せます」
ドーグが目を丸くした。
「確認しないのか」
「いま説明を聞きました。それに、ここの縄については、あなたのほうが詳しい」
「何でも自分で決めないと気が済まない男だと思っていた」
「俺も、そのつもりでした」
「自覚はあるんだな」
「自覚だけなら、かなり前からあります」
「直す気は?」
「少しずつ」
「それでは、直る前に寿命が来るぞ」
ドーグは呆れながらも、手早く二本の縄を整えた。
俺は鉄扉へ近づき、拳で三度叩く。
「ルカ! 聞こえますか!」
「聞こえます!」
「全員を扉から離してください! 水位は下がりましたが、開いた瞬間に強い流れが起きます!」
「分かりました!」
ルカの返事の直後、別の男――ジェスクが怒鳴った。
「動けない奴が二人いる! 離せと言われても運べねえ!」
「何か浮く物はありますか!」
「木箱が二つある!」
「壊して板へしてください! 意識のない人を一人ずつ載せ、二人で押さえる! 残りは壁際へ並んで、扉の正面を空けてください!」
「俺の息子を最初に出してくれ!」
別の声が割り込む。
「脚を怪我してるんだ!」
「ボリンの母親が先だ! 意識がないんだぞ!」
「年寄りより若い奴を助けるべきだろう!」
「ふざけるな! うちの母ちゃんは、おまえより働いてる!」
扉の向こうで言い争いが始まった。
追いつめられた人間は、全員が譲り合うわけではない。自分の家族を先に助けたいと思うのは、醜さではなく、ごく自然な感情だ。
だからこそ、順番を個人の良心だけに任せてはいけない。
「静かにしてください!」
俺は鉄扉を強く叩いた。
「最初は意識のない二人です! それぞれ運ぶ人を二人つける。その次に、一人で歩けない人。歩ける人は最後です!」
「俺の息子も一人じゃ歩けねえ!」
「なら、三番目です!」
「三番って、どちらの三番だ! 意識のない二人を数えた後か、歩けない中で三番か!」
「そこまで細かく順番を決める時間はありません!」
「おまえが順番を決めると言ったんだろう!」
正論だった。
俺が口を開きかけると、ルカの声が聞こえた。
「こっちは俺が並べます!」
「できますか?」
「親方ほどではありませんけど、みんな顔見知りです。意識がない人、歩けない人、歩ける人に分けます。揉めたら、姉貴より怖い顔をします」
「あなたにできます?」
「やってみます!」
その声には若さがあり、恐怖もあった。
それでも、引き受けると言った。
「分かりました。そちらは任せます」
「姉貴には、俺が少しくらい役に立ったと伝えてください」
「自分で言ってください。俺が褒めても、信じないでしょう」
「たぶん、そうですね」
鉄扉の向こうで、ルカが人々を移動させ始める。
ジェスクの怒鳴り声も聞こえた。
「聞いただろ! 歩ける奴は壁際へ寄れ! 文句がある奴は、外へ出てから俺に言え!」
「さっきまで開けろと騒いでいたのは、おまえだろう!」
「騒いで悪いか! 怖かったんだよ! でも、いまは手を動かせ!」
人間は一貫していない。
つい数分前まで救助隊を罵っていた男が、今はほかの者を落ち着かせている。その矛盾を責めても仕方がない。
「準備できました!」
ルカの声が届く。
「こちらも始めます」
ドーグと兵士一人が、二本の縄の前に立つ。ガレンは扉の正面を避け、右側から最後の留め具へ剣を差し込んだ。
「これを外せば、扉は水圧で開く。いいんだな?」
「一度、途中まで抜いてください。縄へ力がかかったら止める」
「扉が勝手に持っていくかもしれんぞ」
「だから全員、正面へ立たないでください」
「おまえも下がれ」
「隙間から水の勢いを見ます」
「それは俺にも見える」
「流れの変化を判断するのは――」
「黒部」
ガレンが低い声で遮った。
「おまえは、さっき能力を使って倒れた。足にも力が入っていない。その状態で扉の横に立てば、流れに巻き込まれる。俺たちへ任せろと言ったのは、おまえだろう」
「しかし――」
「任せるふりをして、自分だけ一番危険な場所へ残るな」
返す言葉がなかった。
結局、俺はドーグの隣まで下がった。
「始めるぞ!」
ガレンが剣をひねる。
留め具が、金属を削る音とともに少しずつ浮いた。
鉄扉が揺れる。
縄が張り、ドーグの両腕へ力がかかった。
「まだ持つ!」
「もう少し抜いてください!」
ガレンが体重をかけた。
留め具が外れる。
鉄扉がこちら側へ跳ねた。
太い水の塊が通路へ噴き出し、扉の正面へ積もっていた小石や木片を一気に押し流す。
二本の縄が悲鳴のような音を立てた。
「止めろ!」
ドーグと兵士が縄を引く。
壁の鉄輪が軋み、周囲の石が削れた。
もう一本の縄も限界まで伸びる。
扉は、人一人の腕が入るほどの隙間で止まった。
「このまま維持しろ!」
俺は水の流れを見た。
最初は立っていられないほど強かった流れが、少しずつ弱くなっていく。補助水門が機能し、扉の向こうの水位も下がり続けている証拠だ。
「扉の向こう、無事ですか!」
「無事です!」
ルカが答える。
「誰か転んだか?」
「ジェスクさんが尻餅をつきました!」
「余計なことを言うな!」
「怪我は?」
「尻が痛えだけだ!」
「それなら、あとで治療してください!」
「尻を治癒魔法で光らせるのか! 絶対に嫌だ!」
扉の向こうで笑いが起きた。
ほんの少し前まで死を覚悟していた人々の笑いだった。
「縄を半腕分、緩めてください!」
俺の指示で、ドーグが結び目を操作する。
扉がさらに開き、水が流れ出す。
一度に開かない。
水の勢いが落ちるたび、少しだけ縄を緩める。
鉄輪を固定している石が崩れかけたときは、ガレンと兵士二人が体で縄を支えた。ドーグの手のひらから血が滲んでも、誰も止めなかった。
やがて、水位の差がほとんどなくなる。
「全開にします!」
縄を緩め、鉄扉を壁際まで開いた。
扉の向こうには、泥水に浸かり、震えている人々がいた。
年齢も服装もばらばらだった。
鉱石を運ぶ男たちだけではない。選別作業をしていた女性、まだ十五歳にも見えない少年、白髪の老人までいる。正式な雇用記録には残らない、安い労働力として集められた人々だ。
「最初の二人を!」
壊した木箱の板へ、意識のない男女が載せられていた。
ジェスクとルカが一人目を運び、ガレンたちへ引き渡す。
「呼吸はあります!」
「地上へ戻る途中で、ボロスを運んだ兵士と合流できれば引き継いでください!」
次に、もう一人。
その後は脚を怪我した者、腕を折った者、呼吸の苦しい者が続く。
自分の息子を先に出せと怒鳴っていた男は、息子の肩を支えながら順番を守っていた。
「さっきは悪かった」
俺の前を通るとき、男が小さく言った。
「謝る必要はありません」
「でも、あんたにひどいことを言った」
「俺も、家族が中にいれば同じことを言ったかもしれません」
「外にいる奴は、そう言うんだよ」
「そうですね」
男は俺を許したわけではない。
それで構わなかった。
救助は、救った相手と仲良くなるために行うものではない。
二十人。
二十五人。
三十人。
ガレンが一人ずつ数える。
「三十三!」
最後に残ったのは、ルカだった。
「あなたで三十四人目です。早く出てください」
「ジェスクさんは?」
「先ほど出ました」
「木札は?」
「何です?」
ルカは水の中へ手を入れ、泥まみれの木札を拾った。
「その日の作業記録です。誰が、どこを削るよう命じたか書いてあります。親方が、何かあったら持って逃げろと言ってました」
「よく残しましたね」
「途中で三回捨てようと思いました」
「なぜ捨てなかったんです?」
「姉貴に、『都合が悪くなると証拠まで捨てるのは、うちの父親と同じだ』と言われる気がして」
「お姉さんに似ていますね」
「やめてください。いま一番言われたくない言葉です」
ルカが鉄扉をくぐる。
三十四人全員が、生きて外へ出た。
歓声を上げる余裕はなかったが、兵士たちの顔から少しだけ緊張が抜ける。
「移動を始めます」
俺が言うと、ジェスクが近づいてきた。
「待ってくれ。あんたに話がある」
「歩きながらでは駄目ですか」
「監督官のことだ」
俺は足を止めた。
「支柱を削らせた男ですか」
「ああ。ボロス親方は名前を知らねえと言ってたが、俺は顔を知ってる」
「どこで?」
「王城の礼拝堂だ。俺は去年まで、石炭を運ぶ仕事をしてた。あの男は管理局の人間じゃない。神殿の書記官だ」
ガレンの表情が険しくなる。
「名前は」
「ローデン。大司祭オルバスの側仕えだ。召喚の儀式があるから、支柱を鐘が鳴る前に削れと命じた」
赤い法衣の老人――オルバス。
勇者召喚の儀を取り仕切り、地下で紫晶石を採掘していることを問われたとき、目をそらした男だ。
「見間違いではありませんか」
「見間違えるもんか。あいつは左手の小指がない。銀の指輪で隠してたが、俺は荷車の上から何度も見た」
ジェスクは泥だらけの顔で、俺を見据えた。
「それと、もう一つ。崩落が始まる少し前、ローデンは地下から出ていった。俺たちが残っているのを知っていながらな」
「どの道を使った?」
「第三採掘場の奥に、王城へ直接上がる階段がある。役人しか使えない秘密通路だ」
公式図面にない採掘場。
記録にない労働者。
そして、王城の神殿へ続く秘密通路。
事故の原因は地下に埋まっていたが、それを隠そうとしている人間は、俺たちの頭上にいる。




