第6話 三十四人を救えば、九人が沈む
保守用の縦穴は、想像していたより狭かった。
壁へ打ち込まれた鉄の足場を使い、俺が先に下りる。背中と壁の隙間は拳ひとつ分もなく、体の向きを変えることさえできない。上からはガレンが続き、俺の腰へ結ばれた命綱を握っていた。
「足を滑らせても、急に引くな」
俺が言うと、頭上から不機嫌な声が返ってくる。
「なぜだ」
「この幅では、体が壁と縄の間に挟まります。落下は止まっても、肋骨が折れるかもしれない。少し落としながら、徐々に止めてください」
「注文の多い荷物だな」
「自分で下りています」
「俺から見れば、縄の先につながった荷物だ」
「その荷物が落ちると、あなたも道連れですよ」
「余計に切り離したくなってきた」
ガレンは文句を言いながらも、命綱の扱いは慎重だった。
問題は俺の靴だった。
召喚されたときに履いていた、黒い革のビジネスシューズ。床のきれいな事務所を歩くには困らないが、濡れた鉄の足場とは相性が悪い。二段下りるごとに靴底が滑り、膝や肘を壁へぶつけた。
「異界では、その靴で地下へ潜るのか」
「普段は書類の山へ潜っていました」
「見た目ばかりで、ずいぶん役に立たん靴だな」
「王国の正式図面ほどではありません」
「そこまでひどくない」
「では、この靴にも長所がありますね」
少し下りたところで、ガレンが止まれと言った。
何をするのかと思えば、自分の腰に下げていた布袋を裂き、細長い布を二枚作る。それを俺の足元へ落とした。
「靴の上から巻け。少しは滑りにくくなる」
「備品を勝手に裂いていいんですか」
「王国軍の物だ。俺の責任で処理する」
「あとで弁償を求められませんか」
「そのときは、異界の勇者に奪われたと言う」
「俺は役立たずの事故鑑定です」
「では、役立たずに奪われた情けない隊長になる。おまえは細かいことを気にしすぎだ」
「事故の原因は、たいてい細かいことですよ」
「知っている。それをおまえの口から何度も聞かされるのが嫌なんだ」
靴へ布を巻くと、確かに滑りにくくなった。
「ありがとうございます」
「急に素直になるな。落ち着かん」
「文句を言われても、ありがとうございます」
「そうか。なら、早く下りろ」
縦穴の奥からは、水の流れる音が響いていた。
最初は遠く聞こえていた音が、下りるにつれて大きくなる。途中から壁自体が細かく震え始め、鉄の足場も一定の間隔で揺れた。
頭上のガレンが、低い声で尋ねる。
「この振動は危険か」
「分かりません」
「分からんのか」
「分からないものを、分かったように言うほうが危険です。少なくとも、足場の留め具に大きな緩みはない。いまのところは下りられます」
「いまのところ、か」
「絶対に安全だと言ってほしいですか」
「言われたところで、おまえが言うなら疑う」
「ずいぶん信用されましたね」
「信用しているから、嫌な答えでも聞いている」
その言葉には、皮肉がなかった。
俺は返事をしなかった。
信用という言葉を向けられると、どこか居心地が悪い。仕事では何度も言われたが、家庭では最後まで応えられなかった言葉だからだ。
「おまえ、家族はいるのか」
心を読まれたような質問だった。
「元妻と、十七歳の娘がいます」
「元妻というのは?」
「離婚した妻です」
「夫婦が別れられるのか」
「この国では違うんですか」
「貴族なら教会の許可が必要だ。平民も、そう簡単ではない。子どもは妻と暮らしているのか?」
「ええ」
「娘とは会っていたのか」
「月に一度という約束でした」
「約束でした、という言い方は便利だな。実際には?」
「仕事が入れば、行きませんでした」
自分で口にすると、思った以上にひどかった。
美羽は最初の頃、会えないと分かるたびに怒った。次は泣いた。そのうち、「仕事なら仕方ないね」と先に言うようになった。
聞き分けがよくなったのではない。
期待しなくなっただけだ。
「地下へ下りている場合ではないと思ったか?」
ガレンが尋ねる。
「少しは」
「それでも下りた」
「地上へ戻る方法が分からない以上、ここで考えても仕方ありません。それに、娘が中にいたら助けろと怒鳴ると思います」
「どんな娘だ」
「父親の言うことは聞きません」
「賢いな」
「あなたまで、そう言いますか」
「会ったことはないが、おまえの言うことを全部聞く人間が幸せだとは思えん」
「否定できないのが腹立たしいですね」
話しているうちに、足元の空間が開けた。
縦穴の底には、円形の保守室があった。深さは胸ほどまで下りてきた水で満たされ、中央には巨大な金属製の水門装置が立っている。
俺は最後の足場から水へ下りた。
冷たさで息が止まりそうになる。
「深いか?」
「腰くらいです。ただし、床が見えません。ゆっくり下りてください」
ガレンも水へ入る。
保守室の壁には三本の水路がつながっていた。
一本は三十四人が閉じ込められている西側区画。もう一本はさらに下層へ伸び、最後の一本は大量の土砂と紫晶石の袋で塞がれている。
中央の水門装置には、大きな鉄輪が付いていた。
ガレンが両手をかけ、力を込める。
鉄輪は少しも動かなかった。
「錆びついている」
「待ってください」
「見るだけなら、早くしろ。上の扉がいつ壊れるか分からん」
魔石灯を近づける。
鉄輪から水門へ力を伝える軸が、途中でひび割れていた。歯車の隙間には、黒い金属の楔が深く打ち込まれている。
自然に入り込んだ物ではない。
「誰かが動かないよう固定しています」
「水門を閉じたあとで、か?」
「ええ。しかも、外すことを考えていない打ち方です」
「壊すぞ」
ガレンが剣を抜いた。
「先に排水先を確認します。水門を開けたあと、どこへ流れるか分からない」
「ここに下層へ向かう水路がある。迷宮の底へ落ちるだけだろう」
「地下に、ほかの生存者はいないんですか」
ガレンの動きが止まった。
「……第四警備詰所がある」
「何人です?」
「今日の配置なら九人だ」
「連絡は?」
「取れていない」
答える声が低くなる。
「二次崩落で詰所への階段が潰れた。生存は確認できていない」
「死亡も確認できていない」
「ああ」
もし水門を全開にすれば、西側区画の水は一気に下層へ流れる。
三十四人の水位は下がる。
だが、排水先に九人が生きていれば、今度はそちらが濁流に呑まれる。
「上へ戻って、別の方法を探します」
「時間がない」
「だからといって、九人がいる可能性のある場所へ水は流せません」
「可能性だ。三十四人は、確実に生きている」
「命を人数だけで比べるんですか」
「では、おまえは三十四人を待たせたまま、この九人が生きているか確かめに行くのか。途中で扉が壊れたら、全員死ぬぞ」
「分かっています」
「分かっていない!」
ガレンの怒鳴り声が、狭い保守室へ響いた。
「俺の部下は、自分たちを助けるために三十四人を見殺しにしたと知れば、俺を殴る。生きて帰れたとしても、そんな選ばれ方を喜ぶ連中ではない!」
「本人たちへ聞いていないでしょう」
「聞けないから、俺が決めるんだ!」
「それは、彼らのためですか。それとも、自分が三十四人を見捨てた責任を負いたくないからですか」
言った直後、殴られると思った。
ガレンは剣の柄を握り、腕を震わせていた。
だが、俺を殴らなかった。
「おまえは、人の一番痛いところを平気で踏むな」
「平気ではありません」
「そうは見えん」
「見せるのが下手だと言いました」
「それで許されると思うか」
「思いません」
水位は少しずつ上がっている。
ガレンは顔を背け、歯を食いしばった。
「では、おまえが決めろ」
「俺に押しつけないでください」
「ふざけるな。俺が決めれば、責任から逃げていると言い、おまえに決めろと言えば押しつけるなと言う。結局、おまえは何も決めないまま、全員を助けられる都合のいい方法が空から落ちてくるのを待っているだけではないのか」
今度は、俺が黙る番だった。
ガレンの言うとおりだった。
選ばないことは、中立ではない。
扉が壊れるまで何もしなければ、それも俺が選んだ結果になる。
「……三分ください」
「また三分か」
「三分で別の排水先を探します。見つからなければ、水門を少しずつ開ける。第四詰所へ流れる水量を抑えながら、西側区画の水圧を下げます」
「そんな器用なことができるのか」
「分かりません。調べます」
俺は水門のひび割れた軸へ手を置いた。
冷たい金属へ触れた瞬間、保守室が消えた。
誰かの手が、黒い楔を歯車へ打ち込んでいる。
顔は見えない。
黒い手袋。銀色の槌。楔には、一本の塔のような印が刻まれている。
一度。
二度。
三度。
歯車が歪み、回転軸へ亀裂が入る。
その奥で、別の水門が閉じられていた。
紫晶石の搬出量を増やすため、本来は余分な水を逃がす沈砂池が、鉱石の保管庫として使われている。水が入らないよう補助水路を塞ぎ、袋を積み上げた。
水門が壊れた理由。
水が西側区画へ集中した理由。
第四警備詰所とは別の、三本目の排水先。
それらが一度に頭へ流れ込んでくる。
視界が白く染まった。
気づいたとき、俺は水の中へ倒れかけていた。
「黒部!」
ガレンに襟をつかまれ、顔が水へ沈む寸前で引き上げられる。
「大丈夫か!」
「……大丈夫です」
「その言葉を信じる馬鹿がいると思うか!」
鼻から血が落ち、水面に赤い筋を作った。
ガレンは俺を壁際へ座らせ、上着の内側を探る。
「何をするんです」
「白石殿からもらった水はどこだ」
「右の内ポケットです」
「自分で出せるか?」
「出せます」
「手が震えている」
「寒いからです」
「本当に、よくそれだけ嘘が出るな」
ガレンは小瓶を取り出し、栓を抜いて俺へ押しつけた。
「飲め」
「ただの水ですよ」
「知っている。飲まないと、俺が白石殿に怒られる」
「自分のためですか」
「おまえを心配していると言うと、また面倒な顔をするだろう」
「どんな顔です」
「今している顔だ」
仕方なく水を飲む。
本当に、ただの水だった。
だが、喉を通る冷たさで、少しだけ頭がはっきりした。
「三本目の水路があります」
俺は土砂と紫晶石の袋で塞がれた横穴を指した。
「この先は、もともと沈砂池でした。違法採掘した鉱石の保管場所に変えるため、水路を塞いだ。袋をどかし、補助水門を開けば、そちらへ水を逃がせます」
「第四詰所へは流れないのか」
「完全には止められません。ただ、沈砂池へ大半を流し、残りを少しずつ下層へ送れば、九人がいる区画の水位も急には上がらない」
「できるんだな?」
「方法はあります。成功するかは、やってみなければ分かりません」
「さっき、行ってみてから考える人間を救助隊へ入れないと言っていなかったか」
「考えたうえで、やるんです」
「便利な言い回しだ」
そのとき、下層へ続く水路の奥から、かすかな金属音が聞こえた。
二回。
二回。
一回。
ガレンが顔を上げる。
「第四詰所の応答符号だ」
「九人は?」
「人数を送らせる。こちらから叩く物を貸せ」
ガレンが剣の柄で配管を叩く。
長く二回。短く一回。
しばらく待つ。
返ってきた音は、短く九回だった。
ガレンが目を閉じる。
「全員、生きている」
「では、なおさら下層へ水は流せませんね」
「ああ。おまえの面倒な方法でいく」
「聞こえは悪いですが、賛成と受け取ります」
「ただし、能力はもう使うな」
「必要なら使います」
「命令だ」
「あなたの部下ではありません」
「なら、頼む。もう使わないでくれ」
命令ではなく頼まれると、断りにくい。
ガレンは、それを分かったうえで言ったようだった。
「善処します」
「いまのは、守る気のない返事だな」
「異世界でも通じるんですね」
「役人が使う言葉は、どこでも同じらしい」
沈砂池へ続く横穴を塞いでいる袋を、一つずつどかす。
水を吸った袋は重く、二人がかりでも簡単には動かない。持ち上げるのではなく、横へ倒して水へ沈め、流れを利用して脇へ寄せた。
三つ目を動かしたところで、濁った水が隙間へ吸い込まれ始める。
「流れたぞ」
「まだ細すぎます。補助水門を開けなければ、水位は下がりません」
袋の奥へ、半分水没した小さな鉄輪が見えた。
俺はそこへ近づこうとしたが、ガレンに肩をつかまれる。
「俺が回す。おまえは楔を外せ」
「歯車が急に動けば危険です」
「だから俺が押さえる」
「一人では持ちません」
「では、二人で死ぬか?」
「そういう極端な言い方をする人は嫌いです」
「おまえにだけは言われたくない」
ガレンが補助水門の鉄輪へ両手をかける。
俺は歯車の下へ腕を伸ばした。
黒い楔は奥深くまで入り込み、手では抜けない。腰へ短剣がないことを、このとき初めて後悔した。
「ガレンさん。さっきの短剣を貸してください」
「持てと言っただろう」
「戦うためではなく、道具として使います」
「剣士の前で、剣を工具扱いするな」
「いまは剣士の誇りより、三十四人と九人の命が先です」
「分かっている。だから腹が立つ」
ガレンから短剣を受け取り、刃先を楔の隙間へ差し込む。
一度こじる。
動かない。
二度目で、黒い楔がわずかに浮いた。
その瞬間、鉄輪が勝手に回り始めた。
「来るぞ!」
ガレンが全体重をかけ、回転を押さえる。
補助水門の隙間から水が噴き出し、俺の体を横へ押した。上着の裾が歯車へ巻き込まれ、背中から引かれる。
「黒部!」
「鉄輪を離さないでください!」
「服が巻き込まれている!」
「見れば分かります!」
「分かっているなら何とかしろ!」
借りた短剣で上着の裾を切る。
布が裂け、体が自由になった。
そのまま歯車へ腕を伸ばし、黒い楔をつかむ。
引く。
抜けない。
もう一度、両手で引いた。
楔が外れた途端、補助水門が大きく開いた。
轟音とともに水が沈砂池へ流れ込み、保守室の水位が目に見えて下がり始める。
「成功したのか!」
「まだです。第四詰所へ流れる量を確認してください!」
ガレンが下層の配管へ耳を当てる。
すぐに、九人からの打音が返ってきた。
「水位、変化なし。全員無事だ!」
三十四人のいる西側区画からも、水が勢いよく流れ込んでくる。
計画どおり、二つの区画を犠牲にせず水を逃がせた。
その安堵は、長く続かなかった。
頭上の縦穴から、ドーグの声が響いた。
「隊長! 黒部! 聞こえるか!」
「聞こえる!」
「鉄扉の留め具が、残り一本だ! 水位は下がっているが、扉のほうが先に壊れる!」
「あとどれくらい持つ!」
「分からん! 一分か、二分だ!」
ガレンが俺を見る。
俺たちがいるのは、扉よりさらに下の保守室だ。
ここから縦穴を上り、鉄扉へ戻るだけでも数分はかかる。
「走れない場所で、急げというのは無理がありますね」
「冗談を言っている場合か!」
「冗談でも言わないと、足が動きません」
俺は抜き取った黒い楔をポケットへ入れ、縦穴の足場へ手をかけた。
三十四人と九人を救う第三の道は見つけた。
だが、俺たちはまだ、その道から生きて戻ってはいなかった。




