第5話 扉を開ければ全員死ぬ
負傷したボロスを地上へ戻すため、救助隊から一人を割くことになった。
「俺は一人で戻れる」
添え木を当てられ、簡易担架へ載せられたボロスは最後まで言い張った。
「右脚が折れている人間が、どうやって一人で戻るんです?」
「左脚がある」
「排水路を片脚で這うつもりですか」
「若い頃は、もっと狭い穴を酔っ払ったまま通ったこともある」
「いまは若くもないし、酒も飲んでいないでしょう」
「酒なら飲んでる。昼に一杯だけな」
こんな状況でも、本人は少し自慢げだった。
ガレンが担架の持ち手を確認しながら、深いため息をつく。
「酒を飲んで坑道へ入ったのか」
「一杯は酒じゃねえ。薬だ」
「何に効く」
「働きたくない気持ちに効く」
「帰ったら牢へ入れてやる」
「怪我人には優しくしろよ!」
悪態をつけるのは、まだ意識が保たれている証拠でもある。
ただし、声の大きさに反して出血は多い。地上へ戻るまでに容体が悪化する可能性もあるため、一番若い兵士が付き添うことになった。
兵士は不満そうだった。
「俺も奥へ行けます。ここまで来て、負傷者を運ぶだけなんて」
「負傷者を地上へ返すまでが救助です」
俺が言うと、若い兵士は唇を尖らせた。
「分かっています。でも、下に残っている人たちを見つけるほうが、重要ではありませんか」
「重要ではなく、目立つんです。見つける人だけが英雄に見える。運ぶ人、入口を守る人、道具を準備する人は、誰にも褒められない」
「俺は褒められたいわけでは――」
「なら、任せてもいいですね」
「そういう言い方は卑怯です」
「俺もそう思います」
兵士はますます不満そうな顔をしたが、担架の横へ膝をついた。
俺は、彼が戻れるよう命綱の端を渡す。
「地上へ着いたら、白石さんにボロスさんの脚を診せてください。それから、第三採掘場が実在したこと、管理局の監督官が支柱を削らせたことを伝える。聞いた内容は一語も変えず、できれば書き取ってもらってください」
「分かりました」
「途中で振動が強くなったら、無理に進まず伏せる。排水路の天井に亀裂が増えていたら、戻って知らせてください」
「それも分かりました」
「ボロスさんが眠りそうになったら、話しかけ続ける。眠らせないでください」
「だから、分かったと言っているでしょう!」
とうとう兵士が怒鳴った。
「俺は子どもではありません。隊長の部下として、何度も地下へ入っています。あなたは、何でも自分で確認しないと気が済まないんですか」
痛いところを突かれた。
俺が答える前に、担架の上のボロスが笑った。
「兄ちゃん、諦めろ。こういう奴はな、心配してると言えねえから、命令の数が増えるんだ」
「誰が心配しているんです」
「ほら、それだ」
「怪我人は黙っていてください」
「おまえも、家族に嫌われる口だろう」
「離婚しています」
「やっぱりな!」
この世界へ来てから、離婚していることに納得される回数が多すぎる。
「もう行ってください」
「照れるなよ」
「揺らさず運べと言っているんです」
「はいはい。異界の先生は細けえな」
ボロスを載せた担架が、排水路の奥へ消えていく。
足音が聞こえなくなるまで、俺はその場に立っていた。
「ずいぶん念入りに見送るんだな」
ガレンが言った。
「一人減った以上、帰り道の状態も知っておく必要があります」
「そういうことにしておいてやる」
「本当に、そういうことです」
「分かった。分かったから、先へ進むぞ。このままだと、今度はおまえがボロスに追いつく」
地下へ残ったのは六人。
ガレン、ドーグを含む兵士四人と、俺だった。
水の流れに沿って奥へ進むにつれ、排水路は少しずつ広くなった。最初は足首ほどだった水が、やがて脛の半ばまで達する。
流れも強くなっていた。
「水が増えるのが早い」
ドーグが魔石灯を低く掲げた。
「さっきより、指二本分は高くなっている」
「どこかで水路が壊れたのでしょう。温度も下がっています」
「温度まで分かるのか?」
「足が冷たいので」
「普通の話か」
「何でも能力で分かると思わないでください。そんなに便利ではありません」
「おまえが真面目な顔で言うと、区別がつかん」
軽口を交わしながらも、ドーグは何度も足元を確認している。
この男が縄を嫌がった理由も分かってきた。水中には細い木片や切れた金具が流れ、命綱へ絡みつく。引っかかるたび、ドーグは手首から縄を外さず、小刀で器用に障害物だけを切った。
自分の考えだけを押しつけて、腰へ縄を結ばせていたら、確かに動きを邪魔していただろう。
安全策は、決めた人間の満足のためにあるのではない。
現場で使えなければ、守るはずの人間を別の形で危険にする。
「何だ」
ドーグが俺の視線に気づいた。
「いえ。縄を手首へ通す方法で正解でした」
「急に褒めるな。気味が悪い」
「訂正が必要なら、早めに伝えるようにしています」
「謝っているのか?」
「半分くらいは」
「残り半分は何だ」
「次も危険だと思ったら止めます」
「やはり可愛げがないな」
ドーグはそう言ったが、声には先ほどまでの棘がなかった。
やがて、通路が二つに分かれた。
右側は石積みで補強された正式坑道。だが、二十メートルほど先で天井が完全に落ちている。
左側には、腰ほどの高さの穴が開いていた。
人の手で最近広げられたらしく、壁には新しい鑿の跡がある。床には荷車の轍が残り、紫色の細かな石が散らばっていた。
「第三採掘場か」
ガレンが低く呟く。
俺は紫色の欠片を拾い上げた。
石そのものが淡い光を放ち、握った手のひらへ痺れるような熱を伝えてくる。
「これが紫晶石ですか」
「ああ。魔道具の燃料になる。親指ほどの大きさでも、平民のひと月分の稼ぎになる代物だ」
「それが、これだけ落ちている」
「持ち出しを急いで、回収する余裕もなかったのだろう」
左側の穴を抜けると、奥に広い空洞があった。
壁一面から紫晶石が掘り出され、巨大な柱の根元が大きく抉られている。補強として入れられた金属製の枠は途中で折れ、黒いボルトが一本、浅い水の中へ転がっていた。
俺は屈み、ボルトを拾った。
異様に重い。
表面は煤けたように黒く、見たことのない文字が細く刻まれている。周囲の補強材とは材質が違い、折れたというより、内側から裂けたような形をしていた。
「どうした」
「このボルトだけ、ほかと違います」
「管理局が入れた補強材だろう。持っていくか?」
「証拠として保管します」
能力を使って調べることも考えたが、やめた。
ここで意識を失えば、救助隊全体を危険にする。ひとまず布へ包み、上着のポケットへ入れた。
「いまのところは、聞き分けがいいな」
ガレンが言った。
「能力を使って倒れないのか、という意味ですか」
「白石殿に叱られるのが、よほど怖いらしい」
「看護師は医者より怖い場合があります」
「異界でもそうなのか」
「病院では、患者が医者へ言えない不満を看護師に言い、看護師が医者へ言えない不満を休憩室で言います。組織はだいたい、そういう言えない話でできています」
「おまえの世界も、あまり変わらんな」
採掘場の奥には、何十袋もの紫晶石が積まれていた。
その横には搬出量を記した木札まで残されている。管理局が把握していなかったという説明は、もう通用しない。
ガレンが一枚を手に取った。
「証拠として持ち帰る」
「一枚だけにしてください。いまは人が先です」
「分かっている。ただ、証拠を残しておけば、救助中に誰かが処分するかもしれん」
「地上に戻ったボロスさんも狙われる可能性があります」
「あり得るな」
ガレンは部下の一人へ木札を渡し、胸当ての内側へ入れさせた。
「地上へ伝わった途端、管理局は自分たちと無関係だと言い出すだろう。ボロスたちを違法採掘団に仕立て、全部押しつけるかもしれん」
「親方たちは完全な被害者ではありません」
「支柱が危険だと知りながら掘ったからか」
「ええ。ただし、命令した人間の責任が消えるわけでもない。原因と責任を一緒にしてはいけません」
「一本の原因を見つければ、話が早いのにな」
「話を早くするために、誰か一人を悪党へする事故調査は信用できません」
「おまえは、ずいぶん面倒な仕事をしていたんだな」
「そうですね」
「好きでやっていたのか?」
「好きではありませんでした」
「では、なぜ続けた」
すぐには答えられなかった。
人を救いたかったから。
そんな立派な理由を口にできれば、話はきれいにまとまる。
だが、実際には意地もあった。自分にしか見つけられない原因があると信じたかったし、周囲から必要とされたかった。家庭より仕事を選び続けたのも、世の中のためだけではない。
「ほかの仕事を探すのが面倒だったんです」
「嘘だな」
「どうして?」
「本当に面倒を避けたい男は、異世界へ来た初日に地下へ潜らん」
「それは、そうですね」
認めると、ガレンはそれ以上追及しなかった。
大人同士の会話には、無理に答えまで聞かないほうがいいこともある。
第三採掘場を抜けると、水位が急に上がった。
膝まで水に浸かり、流れに足を取られる。兵士たちは壁へ張られた古い鎖をつかみ、一人ずつ進んだ。
前方から、人の怒鳴り声が聞こえる。
「おい! 誰か来たのか!」
「ここだ! 扉を開けてくれ!」
「早くしろ! 水がもう腰まで来てる!」
救助隊の全員が顔を上げた。
魔石灯の先に、石造りの隔壁が見える。中央には分厚い鉄扉があり、その向こうから何人もの手が叩きつけていた。
「ルカ!」
ガレンが叫ぶ。
「マルタの弟、ルカ・フェルナーはいるか!」
「います!」
若い男の声が返ってきた。
「姉貴が上にいるんですか?」
「いる。おまえを心配して、管理局長へ食ってかかっていたぞ」
「最悪だ……。無登録で働いてたのが、ばれたんですね」
「ばれたな」
「崩落より怖い……」
扉の向こうから、弱い笑い声が起きた。
その笑いが、生存者たちの張り詰めた気持ちをほんの少し緩めた。
だが、すぐに別の男が怒鳴る。
「笑ってる場合か! 早く扉を開けろ! 鍵が歪んで、こっちからは動かせねえんだ!」
ガレンが鉄扉の取っ手へ手をかける。
「待ってください」
俺は扉へ近づいた。
鉄板の中央が、こちら側へわずかに膨らんでいる。扉の隙間からは細い水が勢いよく噴き出し、俺たちのいる通路へ流れ込んでいた。
「向こうの水位は?」
俺が扉越しに尋ねる。
「高いところで胸までだ!」
「こちらより一メートル近く高い。扉全体に水圧がかかっています」
「だから早く開けろと言ってるんだ! 水が増えてるんだぞ!」
「いま鍵を壊せば、扉が一気に開きます。中の水が鉄砲水になり、扉の前にいる人から押し流される」
「だったら、離れてから開ければいい!」
「この先の通路は狭い。三十四人が同時に流れ込めば、途中で詰まります。倒れた人の上へ次の人が重なり、呼吸ができなくなる」
「やってみなきゃ分からねえだろう!」
「分からないから、やりません」
扉の向こうで、何かが激しく叩かれた。
「外にいる奴は、好きなだけ待てるよな! こっちは暗くて、仲間が二人も動かなくなってる! 水が上がるたび、次は自分の顔まで来るんじゃないかって、ずっと見てるんだ!」
「分かっています」
「分かるわけがない!」
「そうですね」
怒鳴っていた男が、言葉を止めた。
「俺は、そちらに閉じ込められていません。寒さも、水の深さも、空気の苦しさも、あなたと同じには分からない。だから教えてください。水は何分で、指何本分上がっていますか。意識のない二人は呼吸をしていますか。一番高い場所には、何人乗れますか」
「そんなことを聞いて、何になる!」
「いま開けずに助ける方法を探します。あなたたちにも協力してもらいます」
「結局、待てってことじゃねえか!」
「はい」
俺は誤魔化さなかった。
「扉を開けた瞬間に全員死ぬより、怒られながら待ってもらうほうを選びます」
「もし、自分の家族がこっちにいても、同じことが言えるのか?」
返事に詰まった。
元妻や娘が扉の向こうにいたら、俺は冷静でいられるだろうか。
娘の美羽が、暗い水の中で助けを求めている。そう想像しただけで、喉の奥が狭くなった。
「分かりません」
「何だと?」
「家族が中にいれば、俺も早く開けろと怒鳴るかもしれない。開けるなと言う人間を殴るかもしれません。でも、いま扉の前にいるのは俺です。だから、開けません」
しばらく、返事はなかった。
やがてルカの声が聞こえる。
「ジェスクさん。水位を測りましょう。壁の継ぎ目に印をつけます。動けない二人は、俺とボリンで高い足場へ上げます」
「おまえは、あの男を信じるのか」
「信じるというより、姉貴が食ってかかった相手と一緒に来たなら、たぶん管理局の人ではありません」
「判断基準がそれかよ」
「姉貴、嫌いな人には本当に容赦しないんです」
また、扉の向こうで小さな笑いが起きた。
ガレンが俺の横へ立つ。
「開けないなら、どうする」
「水位の差を減らします。この隔壁の下に排水路か水門があるはずです」
「図面にはないぞ」
「この区画自体、図面にありません」
「また、存在しない道を探すのか」
「今日は、そういう日らしいですね」
扉の脇を調べると、錆びた金属板が見つかった。泥を落とすと、古い配管図らしき線が浮かぶ。
隔壁の下を通る水路と、その先にある手動水門。
水門へ向かう保守用の縦穴は、一人がやっと通れるほど細い。
「ここだ」
ガレンが配管図を指した。
「水門を開けば、向こうの水を下層へ逃がせる。ただし、下層の状態が分からん」
「誰かが行って、確認するしかありません」
「俺が行く」
「水門が壊れていたら、どこをどう直すか判断できますか」
「おまえならできると?」
「壊れていれば、《事故鑑定》が使えます」
「また能力を使うつもりか」
「必要なら」
「白石殿から、使いすぎるなと言われたのではなかったか?」
「本人はここにいません」
「子どもの言い訳だぞ」
鉄扉の向こうで、再び大きな水音がした。
「水が上がった!」
ルカが叫ぶ。
「今度は一気に、指三本分です!」
鉄扉の蝶番が低く軋んだ。
水圧に耐えきれず、太い留め具の一本がゆっくりと曲がり始めている。
こちらが開けなくても、この扉は長く持たない。
「ガレンさん。ここで扉を監視してください。留め具が動いたら、全員を横へ退避させる」
「おまえ一人で行かせると思うか?」
「縦穴は一人しか通れません」
「なら、俺が行く」
「水門が壊れていた場合、戻って俺を呼ぶ時間はありません」
「おまえが倒れた場合は、誰が連れ戻す」
どちらも譲らなかった。
ドーグが苛立ったように、二人の間へ顔を出す。
「では、縦穴までは二人で行け。細くなったところから異界人が先へ進み、隊長は命綱を持つ。それでいいだろう。こんなときまで意地を張るな。扉の向こうの連中に聞かれたら、救助隊が揉めていると不安になる」
俺とガレンは顔を見合わせた。
「部下に叱られましたね」
「主におまえがな」
「隊長もです」
ドーグが即座に訂正する。
鉄扉の向こうでは、ルカたちが水位を測り、意識のない者を運び始めていた。怒鳴っていたジェスクも、文句を言いながら手を貸しているらしい。
彼らが扉を内側から支えている間に、俺たちは水を逃がさなければならない。
扉を開けるためではない。
扉が勝手に開き、三十四人を濁流へ吐き出す前に、その力を殺すために。




