第10話 七十二人分の空気
「壁がある」
王宮中庭に設けられた臨時指揮所へ、真鍮の伝声筒を通してガレンの声が届いた。
崩落現場から運び出された長机には、王宮地下の公式図面、鉱夫たちが記憶を頼りに描いた略図、負傷者名簿、それから誰かが置いていった食べかけの黒パンが、ほとんど同じ重要度で並んでいる。先ほどまで降っていた雨の雫が天幕から落ち、公式図面の端に小さな染みを作っていた。
「どういう壁です」
『石でできている』
「それは見れば分かる。積み方、石の種類、継ぎ目、湿り気、亀裂、音。分かるものを全部言ってください」
『お前な、現場にいないくせに注文だけは多いな』
「現場にいないから多いんです。こっちはあなたの目と耳しか使えない」
『俺の舌も貸してやろうか。舐めれば石の産地くらい分かるかもしれん』
「舐めなくていい。腹を壊すだけです」
『冗談に決まってるだろうが』
「あなたの冗談は実行しそうだから困るんですよ」
伝声筒の向こうで、数人が笑った。息苦しい地下で出た笑いなら、少しは意味がある。ただし、長く笑っている余裕はなかった。
東作業坑に取り残された人数は七十二名。第五層まで逃げ延びた作業監督の証言では、崩落直後には全員が生きており、工具庫に退避している。だが第六層の魔法灯は消え、主換気設備も停止していた。
工具庫の広さも、天井高も、扉の密閉性も正確には分からない。七十二人が怯えて大声を出せば、それだけ空気の消費は早まる。
「黒部さん、あと何分ですか」
白石が俺の横から図面を覗き込んだ。治療を続けていたせいで、彼女の袖には乾ききっていない血が残っている。
「正確な数字は出せません」
「正確でなくて構いません。短い方と長い方を教えてください」
「最悪なら二十分。条件がよければ一時間以上。ただ、粉塵と人数、それに怪我人がいることを考えると、三十分を過ぎてからは一人ずつ意識を失い始めると思った方がいい」
「では二十分で考えます」
「そうしてください。救助で都合のいい数字を採用すると、だいたいその数字に裏切られる」
白石は黙って頷いた。彼女は安心させるための嘘を求めない。その代わり、俺が自分に嘘をつこうとすると、医療従事者特有の容赦のなさで剥がしにくる。
伝声筒がもう一度鳴った。
『壁は新しい。少なくとも周りの石とは色が違う。目地の砂がまだ白い。幅は通路いっぱい、高さは四メートルほど。叩くと奥で響くが、空洞までの距離は分からん。右下に小さな穴を開けてみるか?』
「まだ壊さないでください」
『穴くらいなら――』
「圧力差も、向こうの空気の状態も分かっていない。可燃性のガスが溜まっていれば、金属の工具で火花を出しただけでも危険です」
『火花を出さずに削ればいいんだな』
「だから、まだやるなと言ってるんです」
『確認しただけだ。お前、俺を何だと思ってる』
「言うことを聞くまで二回かかる人です」
『三回だ。今日は機嫌が悪い』
自慢になっていない。
俺は公式図面の第六層東側を指でなぞった。そこには幅三メートルの連絡通路が一本、真っ直ぐ描かれている。壁などない。そもそも壁を作れば、東作業坑は一つしかない退路を失う。
事故は偶然だけで起きるものではない。
誰かが手間を惜しみ、誰かが報告を隠し、誰かが「今までは平気だった」と言う。そうした小さな判断が積み重なった末に、最後の一個だけが事故と呼ばれる。
だが、この壁には小さな判断を積み重ねた形跡がなかった。誰かが、明確な目的を持って退路を塞いでいる。
「無登録の作業坑だったのではありませんか」
長机の向かい側から、ローデンが静かに口を挟んだ。
地下で焼却されたはずの書類と一緒に姿を消し、何食わぬ顔で地上に現れた神殿書記官。左手の手袋の下には、小指の代わりに銀色の義指がある。
「作業員たちが勝手に掘り進めた場所であれば、公式図面に記載がないことも不自然ではありません。勇者様方の御力は、これから魔王軍と戦うために授けられたものです。違法な採掘に関わった者たちの救助で消耗させるのは、王国全体に対して――」
「では、ここに署名してください」
俺は負傷者名簿の裏面を返し、白紙になっている部分をローデンへ向けた。
「何の署名でしょう」
「第六層東作業坑、生存者七十二名の救助を中止する命令です。理由は『無登録労働者の命より、勇者の力の温存を優先するため』でいいでしょう。あなたの名前と役職もお願いします」
「私は、中止せよと申し上げたわけではありません」
「言葉を薄めないでください。現場では『慎重に検討せよ』と『見捨てろ』が同じ意味になることがある。二十分しかない状況では特にそうです」
「黒部殿。あなたは御自分の感情で、王国の貴重な戦力を――」
「七十二人を見捨てた責任だけは、誰かの感情ではなく署名で残しましょうと言ってるんです。地下の人間には書類がなかった。だから、いなかったことにされた。今度は地上の人間に書いてもらう。それだけです」
ローデンは羽根ペンを取らなかった。
代わりに、俺の顔を見てわずかに目を細めた。その表情には怒りよりも、面倒な道具をどう処分するか考えている人間の冷たさがあった。
「その議論は後にせよ」
アルフレッド・ヴェインが、感情の見えない声で言った。
「今は七十二名を生かす。黒部殿、何が必要だ」
「非常用の送風輪を動かします。魔法動力が死んでいるなら、人力で回す。軸受けが崩落で歪んでいる可能性があるので、固定する力も必要です。加えて、送風量が足りなければ風の魔法で補助します」
俺は三人の召喚者を見た。
真田蓮は既に聖剣の柄へ手をかけていた。滝沢直人は俺と図面を交互に見比べ、岸本澪は露骨に嫌そうな顔をしている。
嫌そうな顔をできるのは、少なくとも話を理解している証拠だった。
「真田君は送風輪を回してください」
「俺は地下へ行きます」
「行きません」
「聖剣なら、その壁を一撃で壊せます。さっき瓦礫を斬ったときも――」
「壁が何のためにあるか分かっていない状態で壊すのは、救助じゃなくて賭けです」
「でも、黒部さんは必要なら自分で地下へ行くつもりでしょう」
「俺が必要なのは、壊れ方を見るためです。あなたの剣は壊れ方を見る前に、全部壊す」
真田は口を結んだ。言い方が悪かったことには、口にしてから気づいた。俺は昔から、説明したつもりで相手の逃げ道を塞ぐ。正しいことを言えば納得してもらえると思い込み、納得しない相手を幼稚だと決めつける。
それで家庭がうまくいくなら、俺は離婚していない。
「言い直します。君の力が一番必要なのは送風輪です」
「……慰めなら要りません」
「慰めではない。七十二人の肺が、あの送風輪の取っ手に繋がっていると思ってください。派手に壁を斬る人間より、止まらず回し続けられる人間の方が重要です。それでも剣を振りたいなら、七十二人を助けた後で好きなだけ振ればいい」
「そういう言い方、ずるいですよ。断れないじゃないですか」
「断らせないために説明しています」
「そこは否定してくださいよ」
真田は不満を隠さないまま、それでも送風輪のある石造りの小屋へ走り出した。
「滝沢君は軸と外枠を結界で支えてください。回転を止めるほど強く固定せず、横揺れだけを抑える」
「《絶対結界》を、機械のつっかえ棒に使うんですか」
「つっかえ棒が折れれば送風輪も止まり、七十二人が死ぬ。嫌ですか」
「嫌というか……俺の能力、もっとこう、魔物の大群からみんなを守るものだと思ってたんですけど」
「大群は見栄えがする。歪んだ軸は見栄えがしない。けれど人間は、見栄えのしない故障でも死にます」
「黒部さんって、励ますのが絶望的に下手ですよね」
「よく言われます」
「今まで言ってくれる人がいたことに驚きですよ」
滝沢も走った。口は悪くなってきたが、召喚直後より顔色はいい。遠慮されるよりは、悪態をつかれる方が扱いやすい。
残った岸本は、俺が指示を出す前に両手を胸の前で振った。
「先に言いますけど、風魔法なんて使ったことありません。火の玉は出ました。水も、たぶん出せます。でも風って見えないじゃないですか。強すぎても分からないし、弱くても分からない。魔法って気持ちで加減するらしいんですけど、私、自分の気持ちすらそんなに信用してないんです」
「信用しなくていいです」
「今から働かせる相手に、それを言います?」
「気持ちではなく、目印を見て調整します。送風口に布を何本か結ぶ。一本だけ持ち上がる強さから始め、合図に合わせて増やす。真田君が回す送風輪の音が乱れたら、すぐ止める」
「大人って、無理なことをやらせるときだけ『君ならできる』って言いますよね」
「言いますね」
「認めるんですか」
「俺も今、言いそうになったので。だから、できるとは言いません。必要です。失敗しない保証もない。ただし失敗の兆候は俺たちが見る。危なくなれば止める。怖いままでいいから、手を貸してください」
岸本はしばらく俺を睨んでいた。
彼女は十七歳だと聞いている。美羽と同い年だった。だからといって娘の代わりに扱うつもりはない。そういう勝手な重ね方は、重ねられる側にとって迷惑でしかない。
それでも、俺が十七歳の人間に対して命令を説明だと思い込む癖だけは、いい加減に直した方がよかった。
「……できなくても、怒鳴らないでくださいよ」
「怒鳴るかもしれません」
「そこは約束するところでしょう!」
「命がかかっていれば声は大きくなる。ただ、失敗したことを責めるためには怒鳴らない」
「本当に面倒くさい大人ですね、黒部さん」
「それもよく言われます」
「だから、誰に言われてるんですか、それ」
岸本は大きく息を吐き、送風小屋へ向かった。
ほどなく、石造りの小屋から金属の軋む音が響いた。
「重っ……これ、本当に人間が回すものですか!」
真田の声が聞こえる。
「非常用なので、四人一組で回す設計です!」
「先に言ってくださいよ!」
「一人で無理なら交代を入れる!」
「無理とは言ってません!」
聖剣の光が小屋の窓から漏れ、停止していた送風輪がゆっくり回り始める。歪んだ軸が震えた瞬間、滝沢の透明な結界が左右から挟み込み、外枠の崩壊を防いだ。
「滝沢、ちょっと強すぎる! 回転まで重くなってる!」
「注文が細かいんだよ! 絶対結界だぞ、これ! 絶対なのに加減しろって何だよ!」
「絶対に加減しろ!」
「日本語がおかしいだろ!」
喧嘩をしているうちは、二人ともまだ動ける。
やがて岸本の風が送風口へ入った。最初の一吹きは強すぎて、目印に結んだ布が一斉に千切れかけたが、彼女は悲鳴とともに自分で魔法を止めた。
「今のなし! 今のは練習です!」
「本番は始まっています」
「そういうこと言わないで!」
「次は今の四分の一。布を一本だけ上げるつもりで」
「布一本、布一本……ああもう、魔法を使うときに洗濯物のこと考える人、たぶん私が世界で初めてですよ!」
二度目の風は弱かった。それでも送風輪の回転が目に見えて安定し、地下へ続く太い管が低く唸り始めた。
伝声筒を握っていた衛兵が顔を上げる。
「第五層、風を確認! 第六層階段まで到達!」
「東作業坑は」
「まだです。壁の手前で止まっています」
送風設備は生き返った。だが図面にない壁が、七十二人分の空気まで塞いでいる。
俺は外套を取った。
「行くんですね」
白石が言った。
「公式図面と現場が違っていたら、地下へ下りると約束しました」
「約束したのではなく、自分に都合のいい例外を最初から用意していたのでしょう」
「結果は同じです」
「そういうところが嫌われるんですよ、黒部さんは」
「否定できません」
「手が震えています」
言われて初めて、右手の指先が細かく震えていることに気づいた。《事故鑑定》を使った後から、ずっと感覚が鈍い。拳を握れば動く。現場では、それで充分だと思っていた。
「まだ動きます」
「患者はみんなそう言います。『まだ歩ける』『まだ働ける』『酒も少しなら大丈夫』。自分だけは例外だと思っている人ほど、倒れるときは周りを巻き込むんです」
「では残りますか」
「一緒に行きます」
「さっきの話と繋がっていません」
「繋がっています。あなた一人で行かせないという結論です。地下で能力を使う前に私に言ってください。止めても勝手に触るでしょうけど、せめて止められたという事実くらいは覚えておいてもらいます」
「信用がないな」
「信用はしています。だから面倒なんです。信用できない人なら、縄で縛って置いていけますから」
白石は治療鞄を肩に掛け、俺より先に階段へ向かった。
人間は、信用している相手の言うことなら聞けるわけではない。むしろ信用しているからこそ腹が立ち、期待しているからこそ余計な一言を言う。
そういう面倒さを切り捨ててきた結果が、以前の俺だった。
*
第六層の空気は重かった。
送風輪が動き始めたことで風は戻りつつあったが、細かな粉塵が喉に貼りつき、油と湿った石、それから焦げた魔法具の臭いが混じっている。魔法灯の代わりに掲げられた手灯りは頼りなく、少し先にいる衛兵の背中さえ、暗闇に溶けかけていた。
問題の壁の前では、ガレンとドーグが待っていた。
「地上から命令する方が性に合ってるんじゃなかったのか」
「合っていません。現場にいないと、あなたが余計なことをしていないか確認できない」
「安心しろ。まだ穴は開けていない」
「『まだ』をつけるな」
「お前があと五分遅ければ開けていたからな」
「正直なのは美徳ですが、時々は隠してください」
俺は壁の前にしゃがみ込んだ。
ガレンの報告通り、石の色が周囲と違う。地下の壁は長年の煤と湿気で黒ずんでいるのに、ここだけは灰色が明るく、目地の砂も新しい。だが積み方は妙だった。表面は雑に見える一方、奥には隙間がなく、通路を塞ぐためだけにしては手間がかかりすぎている。
床際には、ガレンたちが削り取った小さな目地材が落ちていた。
俺が手を伸ばすと、白石に手首を掴まれた。
「使う前に言う約束でしたね」
「まだ触るだけです」
「あなたの場合、触ることと使うことが同じでしょう」
「時間がありません」
「分かっています。だから三十秒だけ座って、水を飲んでください。三十秒で七十二人が死ぬとは言わせません。三十秒も待てない状態なら、あなたがここへ来る前に手遅れです」
腹が立った。
彼女が正しいから、余計に腹が立った。
俺は壁を背にして座り、水筒を受け取った。生ぬるい水を二口飲む間、白石は俺の瞳を覗き、脈を測った。
「吐き気は」
「少し」
「頭痛」
「あります」
「指先の感覚は」
「右だけ鈍い」
「全部、先に言ってください」
「言えば止めたでしょう」
「止めますよ。でも、止められるのと隠されるのは違います。あなたはその違いを軽く見すぎです」
事故調査でも、同じことを言ってきた。
失敗そのものより、隠したことが被害を大きくする。だが自分の不調となると、俺もずいぶん都合よく考えるらしい。
「今から使います」
「一度だけです。立てなくなったら、救助の指揮はガレンさんへ渡してください」
「俺か?」
「嫌ですか」
「嫌に決まってる。こいつの代わりなんて面倒すぎる」
「なら倒れるなと伝えてください」
「黒部、倒れるな。俺が面倒だ」
「心配の仕方が雑だな」
「伝わればいいんだよ」
俺は目地材を拾った。
冷たい砂粒が掌に触れた瞬間、視界の奥で何かが裂けた。
壁は一度に作られたのではない。
先にあったのは、黒い金属の巨大な門だった。王宮の石材とは明らかに違う。表面には、地下で回収した黒い楔と同じ、尖塔を思わせる刻印が彫られている。
その門を隠すため、男たちが石を積んでいる。
『退路まで塞ぐんですか。中には、まだ七十二人います』
怯えた職人の声がした。
『退路ではない。これは蓋だ』
返した声の主は見えない。
ただ、黒い楔を換気口へ押し込む左手だけが見えた。手袋の小指部分が銀色に光っている。
『鐘が鳴ったら、風と灯りを止めろ』
『ですが、中には七十二人が――』
『七十二人しかいない、の間違いだ』
金属の向こうで、太い鎖が引きずられた。
次の瞬間、何かが門へ衝突した。
石を積んでいた男たちが悲鳴を上げる。銀色の指が、最後の楔を奥まで叩き込んだ。
そこで視界が現実へ戻った。
胃の中身が逆流し、俺は咳き込んだ。白石が肩を支え、無理に立ち上がろうとした俺をその場へ押し戻す。
「何が見えました」
「これは壁じゃない」
息を整えながら、俺は新しい石積みの上部を指した。
「古い金属製の門を、石で隠している。換気口も一緒に塞いだ。上から三段目、中央より少し右に黒い楔があるはずです。それを抜けば風は通る。ただし、門そのものは開けないでください」
「向こうに何がいる」
ガレンの問いに、俺はすぐ答えられなかった。
「分かりません。少なくとも、七十二人だけではない」
ガレンは部下へ指示を飛ばした。
石を割らず、目地だけを削る。三人がかりで上部の石を一つずつ外していくと、やがて煤よりも黒い金属面が現れた。その中央には細長い換気格子があり、黒い楔が横向きに打ち込まれている。
楔には、やはり尖塔の刻印があった。
「抜くぞ」
「待ってください。縄を掛けて、横から引く。真正面には立たないで」
「中から何か出ると思うか」
「出ないようにするんです」
楔に縄を結び、全員が壁際へ退避した。ガレンが合図を出し、二人の衛兵が縄を引く。
一度目は動かなかった。
二度目で楔がわずかに浮き、三度目、甲高い金属音とともに床へ落ちた。
換気格子から、腐った獣脂のような臭いが噴き出す。直後、送風輪から届いた新しい空気が格子を通って奥へ吸い込まれた。
「地上へ伝えろ! 風を二割上げる。ただし急に上げるな、岸本さんに布の角度を維持させてください!」
衛兵が伝声筒へ叫ぶ。
遠くで送風管の唸りが強くなった。岸本が加えた風は最初こそ揺れたものの、やがて一定の流れへ落ち着いた。
格子の向こうから、咳が聞こえた。
次いで、誰かが泣きながら叫んだ。
『風だ……風が来たぞ!』
いくつもの声が重なる。
『助かった!』
『まだ叫ぶな、息を使うな! 全員座れ!』
『灯りはどうした、誰か火を――』
『火を使うな! 黒部って奴が来てる、たぶん怒鳴られるぞ!』
会ったこともない相手にまで、俺は怒鳴る人間だと思われているらしい。
ガレンが口元を歪めた。
「有名になったな」
「不本意です」
七十二人の生存が確認できた。風も届いた。これで直ちに窒息する危険は下がったが、救助が終わったわけではない。
「そちらの状況を報告してください!」
俺が格子へ向かって叫ぶと、向こう側でしばらく相談する声が続いた。
やがて、一人の男が格子の近くまで来たらしい。荒い呼吸とともに、震えた声が返ってくる。
『俺たちは工具庫にいる。七十二人、全員いる。動けない奴が六人、意識の薄い奴が三人だ』
「門まで来られますか」
『無理だ』
「瓦礫ですか」
『違う。いるんだよ。俺たちと門の間に』
男はそこで言葉を切った。
『灯りが消えた後、東坑の奥から何か出てきた。姿は見てない。でかい。床を這ってる音がする。俺たちは工具庫の棚を倒して扉を塞いだ』
「種類は分かりますか」
『分からない。あれは、人の声を使う』
地下通路に冷たい風が流れた。
『最初は、死んだ仲間の声だった。次は俺の女房だった。ここにいるはずがないのに、扉の外で名前を呼ぶんだ。返事をした奴から、扉へ近づこうとする。だから門を開けるな。頼む。風だけでいい。今はまだ、開けないでくれ』
ガレンが剣を抜いた。
白石は無言で俺の腕を掴んでいる。
金属門の奥から、何か硬いものが床を擦る音がした。
ゆっくりと、こちらへ近づいてくる。
やがて換気格子のすぐ向こうで止まった。
「お父さん」
少女の声だった。
十七歳になった娘の声を、父親が聞き間違えるはずがない。
美羽だった。
「ねえ、お父さん。今度は、ちゃんと助けに来てくれるの?」
白石の指に力が入った。
「黒部さん。今の声は、誰ですか」
「娘です」
「娘さんは、この世界にいるんですか」
「いるわけがない」
黒い門が、内側から大きく軋んだ。
七十二人分の空気は取り戻した。
その代わり、壁の向こうにいる何かが、俺の名前より先に、一番痛い呼び方を覚えていた。




