第11話 その声を、信じるな
「お父さん。返事をしてよ」
黒い門の向こうから、美羽の声が聞こえた。
発音も、息を吸う間も、少しだけ鼻にかかった不機嫌そうな響きも同じだった。高校へ入ってから、電話に出るたびに低くなっていった声まで、気味が悪いほど再現されている。
それでも、あれは美羽ではない。
「美羽は、俺をそんなふうに呼ばない」
口に出してから、失敗したと気づいた。
黒い門の向こうで、何かが黙った。
呼び方が違うと、教えてしまった。
「じゃあ、何て呼べば振り向いてくれるの?」
声の調子が変わった。柔らかく甘えるような響きが消え、今度は本物の美羽が俺に向けていた、面倒な相手と必要最低限だけ話すときの冷たい声になった。
「ねえ。そっちの人」
胸の奥に、古い釘を打ち込まれたような痛みが走った。
美羽は、俺を「お父さん」と呼ばなくなって三年になる。
最初は「ねえ」と呼んだ。それでも俺が気づかないふりをしていると、やがて「そっちの人」になった。
俺が家庭より仕事を優先したからだと、ずっと思っていた。たしかに、それも間違いではない。だが正確には、仕事を優先した後で「家族のために働いている」と言い訳し、傷ついた相手の気持ちまで自分に都合よく決めつけたからだ。
黒い門の向こうにいる何かは、美羽の記憶を読んだのではない。
俺の後悔を読んだ。
「全員、門から離れてください」
俺は声を落とした。
「すぐに。返事をするな。呼ばれても、絶対に名前を答えないでください」
「お前はもうずいぶん喋った後だがな」
ガレンが剣を構えたまま言った。
「だから分かったんです。あれは会話をしながら、相手が一番傷つく言葉へ調整している」
「それなら、俺には効かん。家族はもういないし、死んだ奴の声を聞いたところで――」
『隊長』
門の向こうから、若い男の声がした。
ガレンの肩が跳ねた。
『隊長、まだ生きています。石の下です。暗くて何も見えません。あのときみたいに、俺だけ置いていかないでください』
ガレンの顔から血の気が引いた。
剣先が下がり、右足が無意識に門へ近づく。ドーグが横から腕を掴んだが、ガレンは苛立ったように振り払った。
「離せ。今のは違う。あいつは――」
「ガレン」
「違うと言ってるだろうが!」
怒鳴った声が地下通路に反響した。
ガレンは自分が門へ近づいていたことに気づき、奥歯を噛んだ。怒りというより、見られたくないところを見られた人間の顔だった。
「二十歩下がります。そこで話しましょう」
「俺は平気だ」
「平気だと言う人を、この数時間で何人見たと思ってるんです」
「お前にだけは言われたくない」
「俺も含めてですよ」
ガレンは何か言い返そうとしたが、白石が先に門との間へ入った。
「聞こえた声の相手を、説明しなくても構いません。誰だったか、どうして亡くなったか、それを話せと言われる方がつらいこともありますから。ただ、また呼ばれたら、誰かの肩を叩いてください。一人で耐えようとしないで」
「俺は慰められるような歳じゃない」
「年齢を重ねれば傷つかなくなるのなら、病院には子供しか来ません」
「……お前たちの世界の女は、全員そんなに口が達者なのか」
「看護師は特にそうかもしれません。黙っていたら、具合の悪い患者さんほど勝手なことをしますから」
ガレンは大きく息を吐き、ようやく門から離れた。
俺たちは通路の角を一つ曲がり、黒い門が見えない位置まで下がった。それでも声は追ってきた。美羽の声、ガレンを呼んだ若い衛兵の声、さらにドーグの母親らしい老婆の声が、交互に耳元へまとわりつく。
ドーグは顔をしかめながら、自分の両耳へ布を詰めた。
「駄目ですね。布を詰めても聞こえます。音というより、頭の中へ入ってくる感じです」
「なら、大声でかき消すのも無意味です」
「魔物の討伐なら剣を抜けば済むんですがね。母親の声を斬れと言われるのは、ちょっと趣味が悪い」
「声は本人ではありません。反応を引き出すための道具です」
「理屈は分かりますよ。でも、理屈で分かることと、身体が振り向かないことは別でしょう」
それは正しい。
偽物だと分かっていても、声を聞けば身体は反応する。事故現場で遺族に電話をかけるとき、何度も経験した。亡くなった人間の携帯電話が瓦礫の中で鳴る。着信画面には「母」や「妻」と表示され、調査員だと分かっていても、電話を取る指は震えた。
「声による確認をすべて中止します」
俺は手帳を開き、簡単な手順を書いた。
「門の近くでは口頭の命令を出さない。移動は肩を叩いて合図する。離れた者との連絡には石板と縄を使う。誰かの声で指示されても、書かれていない命令には従わないでください」
「もし、あいつが文字まで真似たらどうする」
「今のところ、あれが物を動かせる範囲は門の向こうです。だから門を越えない経路を探します」
公式図面を床へ広げた。
黒い門の先には東作業坑、その奥に七十二人が籠もる工具庫がある。正面から入れば、声を操る何かと接触する。ならば工具庫の後ろへ回り込むしかない。
だが公式図面には、別の通路など描かれていなかった。
「地上へ繋いでください。古い作業坑を知っている人間と話します」
ドーグが伝声筒の蓋を開き、地上側を呼び出した。何度か金属音がした後、ジェスクの荒っぽい声が返ってくる。
『黒部か。こっちは大変なことになってるぞ』
「こちらも大変です。そっちの大変は後で聞きます。東工具庫へ正面以外から入る道を知りませんか」
『知るかよ。俺は第三区の掘り手だ。東坑ならボロスの方が――おい、爺さん。黒部が呼んでるぞ』
伝声筒の向こうで人の動く気配がし、負傷したボロスの咳が聞こえた。
『黒部……東坑で何があった』
「門の中に、声を真似る何かがいます。作業員は工具庫へ避難中。正面の門は開けられません。裏から入る道が必要です」
ボロスはすぐには答えなかった。
伝声筒越しでも分かるほど、長い沈黙だった。
「ありますね」
『……道と呼べるようなものじゃない』
「何でもいい。教えてください」
『第五層の廃材置き場に、石屑を落とす縦穴がある。昔は東坑の奥へ繋がっていた。工具庫の裏手だ。だが人が通るようにはできていないし、十年前に塞いだと聞いている』
「公式図面にはありません」
『載せられるわけがない』
ボロスの声がさらに低くなった。
『あの穴は、上等な魔鉱石を帳簿に載せず外へ出すためにも使われていた。監督も役人も知っていたよ。掘り手が一つくすねれば腕を切られるのに、上の奴らは荷車ごと盗む。俺たちも見逃してもらう代わりに、余った欠片を少し売った』
「あなたも横流しに関わったんですね」
『そうだよ。だから黙ってた。これを話せば、助かったところで牢屋行きだ』
「牢屋へ入るかは後で決めます。入口の場所を詳しく」
『お前、そこは嘘でも「助ければ罪には問わない」と言うところじゃないのか』
「俺に決める権限はありません。それに、今だけ都合のいい約束をしても、後であなたは余計に裏切られたと思うでしょう」
『本当に、気休めの一つも言えない男だな』
「よく言われます」
『そういうところだよ。第五層廃材置き場の南壁に、鉄の鉤が三本打ってある。真ん中の鉤の下、床石を二枚剥がせ。縦穴の蓋が出る。工具庫側は木格子になっているはずだ』
ボロスの説明を書き留めている途中、地上側で別の男の声が割り込んだ。
『そこまでです。負傷者と証人を別の場所へ移します』
ローデンだった。
『地下で新たな魔物が確認された以上、王宮中庭も安全とは限りません。証言者三十四名は神殿の保護房へ移送し、押収物はこちらで保管します』
『保護房だと? 鉄格子のついた地下牢を、ずいぶん綺麗に言うじゃねえか!』
ジェスクが怒鳴り、複数の衛兵が動く音がした。
ローデンは、救助の混乱に紛れて証人と証拠を引き離すつもりだ。保護という名目なら、抵抗した側を犯罪者にできる。
地下へ残るか、地上へ戻るか。
一瞬だけ迷った。
七十二人の命と、三十四人の証言。どちらを優先しても、もう一方を失う可能性がある。
『黒部さん』
伝声筒から真田の声がした。
『俺はどうすればいいですか』
「送風輪は」
『交代を入れました。滝沢が結界を維持して、岸本も風を止めていません。俺は動けます』
俺は真田を、正直な人間だと思っている。
だが正直であることと、冷静であることは同じではない。目の前でローデンが証人を連れていこうとすれば、聖剣を抜くかもしれない。
それでも今、地上を任せられるのは真田しかいなかった。
「証人を移動させないでください。焦げた木札と黒い楔も守る。ただし、聖剣は抜かないこと」
『向こうが先に武器を抜いたら?』
「それでも抜かない。人の多い場所に立ち、全員に聞こえる声で、移送命令を出した人間の名前と理由を確認してください。ローデンは人目のない場所でしか強引なことはできない」
『また、剣を使えない仕事ですか』
「不満ですか」
『……少しは。でも、黒部さんが俺に頼んでるんですよね。誰でもいい仕事じゃなくて』
「あなたが必要です。証人を守りながら、騒ぎを戦闘にしないで済む人間が」
『分かりました。あとで、俺がちゃんとやれたか聞いてください』
「生きて戻ったら聞きます」
『そういう縁起の悪い言い方、本当にやめた方がいいですよ』
真田の声が遠ざかる。
代わってローデンが伝声筒へ何か言おうとしたが、ジェスクが筒を奪ったらしい。
『俺たちはここを動かねえぞ! 黒部、お前はそっちを助けろ! こっちは若い勇者様に守ってもらう!』
「挑発はしないでください」
『先に言っておくが、善処はする。でも約束はできねえ!』
「あなたまで俺の言い方を真似しなくていい」
地上の揉め事を真田へ任せ、俺たちは第五層へ向かった。
黒い門の前を離れるとき、美羽の声がまた聞こえた。
『やっぱり逃げるんだ』
足を止めなかった。
『仕事なら、誰でも助けるくせに』
それは俺が自分に言い続けてきた言葉だった。
美羽本人の言葉ではない。
そう分かっているのに、通路の角を曲がるまで、俺は一度も息を吐けなかった。
*
第五層の廃材置き場は、使われなくなった木材と錆びた工具で埋まっていた。
三本の鉄の鉤は、崩れかけた棚の裏に隠れていた。真ん中の鉤の下から床石を外すと、ボロスの言った通り、丸い鉄蓋が現れた。
ガレンが蓋へ手をかける。
「開けるぞ」
「一気に持ち上げないでください。周囲の床石と繋がっているかもしれない」
「お前といると、何をするにも待たされるな」
「待たずに壊した結果を、ずっと見てきたので」
蓋の縁へ細い鉄片を差し込み、隙間を確認する。縦穴の周囲は古い木枠で補強されていたが、一部が腐っている。蓋だけを真上へ引けば、枠が崩れて縦穴を塞ぐ可能性があった。
俺たちは廃材の中から比較的傷みの少ない角材を選び、床の四方へ組んだ。ガレンは面倒そうな顔をしながらも、俺が指定した位置へ楔を打ち込んだ。
「これでいいのか」
「もう少し右です」
「どのくらいだ」
「指一本」
「最初からそう言え」
「今言いました」
「お前、部下に嫌われていただろう」
「否定はしません」
「だが、現場では死なせなかった」
ガレンは楔を打ちながら言った。
「嫌われても、死なせない方を選んだ。それ自体は悪くない。問題は、お前が嫌われたことまで勲章みたいに扱っているところだ」
思わず、ガレンの顔を見た。
「何だ」
「あなたから人間関係について注意されるとは思いませんでした」
「俺だって言いたくなかった。白石に影響されたんだ。責任を取れ」
「私のせいにしないでください」
白石は呆れながら、救助用の布帯を確認していた。
補強を終え、縄を掛けた鉄蓋を横から引く。床石を崩さず半分だけ開けると、暗い縦穴から冷たい風が上がってきた。
深さはおよそ十五メートル。穴の途中には石屑が引っかかっているが、人一人なら通れそうだった。
「俺が下ります」
ドーグが縄を腰へ結んだ。
「途中で何か聞こえても、返事をしないでください。命令の確認は縄だけで行います。一回引けば停止、二回なら下降、三回なら引き上げです」
「四回なら?」
「予定にない合図です。何があっても動かさない」
「向こうが縄を引くかもしれないからですか」
「その可能性を考えています」
「嫌なことを考えるのが得意ですね」
「仕事でしたから」
ドーグは苦笑し、狭い縦穴へ身体を滑り込ませた。
縄が少しずつ送り出される。途中で一度、一回の合図が来た。俺たちは手を止め、次の合図を待った。
しばらくして、縦穴の奥から声が上がってきた。
『ドーグ、下りてこい。もう安全だ』
ガレンの声だった。
だが本物のガレンは、俺の横で縄を握っている。
「趣味の悪い奴だ」
ガレンが吐き捨てた。
誰も返事をしなかった。
再び二回の合図が届き、下降を続ける。やがて縄の重みが軽くなり、底へ到着したことが分かった。
俺たちは小さな石板と白墨を袋へ入れ、縄で下ろした。
数分後、石板が戻ってくる。
『工具庫裏へ到着。木格子あり。生存者確認』
続いて、別の筆跡で文字が書き足されていた。
『風は届いている。負傷者六名。三名は自力歩行不能。音を立てると外のものが扉を叩く』
俺は返事を書いた。
『木格子を少しずつ外す。意識のない者から搬出。工具庫内では声による指示を信用するな』
石板を戻し、格子を外す作業が始まった。
黒い門の方角から、低い衝撃音が続いている。迂回路を見つけたことに、門の向こうの何かが気づいたのかもしれない。
一人目が布帯に包まれて引き上げられてきた。
痩せた中年の鉱夫だった。顔は粉塵で真っ黒になり、呼吸は浅い。白石がすぐに気道を確認し、水で湿らせた布を口元へ当てた。
「脈はあります。呼吸も戻せます。この人は助かります」
その言葉を聞いた瞬間、誰かが大きく息を吐いた。
俺か、ガレンか、それとも周囲の衛兵だったのかは分からない。
まだ一人だ。
残りは七十一人。
そう考えた直後、縦穴から激しく縄が引かれた。
一回、二回、三回。
さらに、予定にない四回目が続いた。
「動かすな!」
縄を引こうとした衛兵を制し、石板が上がってくるのを待つ。
戻ってきた石板には、ドーグの乱れた文字が刻まれていた。
『一名搬出。残った人数を再確認した』
その下の文字を見て、ガレンの表情が固まった。
『工具庫内、残員七十二名』
一人を救出したのなら、残っているのは七十一人のはずだった。
石板の裏にも文字がある。
『知らない男が一人いる。全員が顔を知っているのに、いつからいたのか誰も思い出せない』
さらに下へ、小さく一行が書き足されていた。
『男は、自分をジェスクだと言っている』
「地上へ繋いでください」
俺は伝声筒を掴んだ。
「ジェスク、そこにいますか」
『いるに決まってるだろ! ローデンの野郎と睨み合ってる最中だ! 何だ、急に!』
本物のジェスクの声が、地上から返ってくる。
その直後だった。
縦穴の底から、まったく同じ声が聞こえた。
『俺はここだ、黒部。早く引き上げてくれ』
縄が、今度は七回引かれた。
七十二人を救うために開いた迂回路の内側へ、いつの間にか七十三人目が紛れ込んでいた。




