第12話 七十三人目は救わない
『俺はここだ、黒部。早く引き上げてくれ』
縦穴の底から聞こえるジェスクの声と、地上の伝声筒から届くジェスクの声は、まったく同じだった。
声の高さだけではない。腹の底から怒鳴る癖も、語尾を噛み潰すような話し方も同じだ。長年一緒に働いてきた鉱夫たちでさえ、声だけで見分けるのは難しいだろう。
『黒部、何が起きてる! なんで俺の声が下から聞こえるんだ!』
地上にいるジェスクが叫んだ。
「工具庫の中に、あなたの姿をしたものがいます」
『俺の姿? ふざけるな、俺はここだぞ!』
「分かっています。落ち着いてください」
『自分と同じ顔の化け物が地下にいると言われて、落ち着ける奴がいたら連れてこい! 俺がそいつを殴って正気に戻してやる!』
「そういうところまで同じらしいです」
『何だと!』
伝声筒の向こうから、小さな笑い声が聞こえた。三十四人の鉱夫たちだろう。笑える状況ではないが、ジェスクが二人いるという異常事態で、普段と変わらず怒鳴っている本人を見れば、少し安心する気持ちは分かる。
その空気へ水を差すように、ローデンの冷静な声が割り込んだ。
『黒部殿。本当に、地上にいる方が本人だと言い切れるのですか』
ジェスクの怒声が止まった。
『姿と声だけでなく、記憶まで再現する魔物なのでしょう。ならば地下の方が本物で、地上にいる者が偽物という可能性もある。あるいは、最初に救出された三十四人の中へ、既に複数の魔物が紛れ込んでいたのかもしれません』
『てめえ、俺たちを魔物扱いする気か!』
『安全を確認するためです。やはり全員、神殿の保護房へ移した方がよいでしょう。個別に事情を聞き、本人であることを確認する必要があります』
ローデンは頭が悪くない。
むしろ、悪意の使い方に慣れている。二人のジェスクが存在するという混乱を利用し、三十四人すべての証言を無効にしようとしている。
「地上のジェスクが本物であることは、確認できます」
『どのように? 本人しか知らない記憶を質問するのですか。それも魔物が読めるのでしょう』
「記憶も質問も必要ありません。地上のジェスクには、救出されてから現在までの目撃記録があります」
『目撃記録?』
「ジェスクは三十四人と一緒に地下から救出され、救護所で白石の診察を受け、その後はガレンの部下二名に付き添われて証言場所へ移動した。そこから今まで一度も、一人になっていません。誰かと入れ替わる時間がなかった」
俺は伝声筒を握り直した。
「もし地上のジェスクが偽物だと主張するなら、いつ、どこで入れ替わったのかを示してください。『魔物かもしれない』というだけでは、連続した目撃記録を覆せない」
『しかし、目撃者たち自身が魔物である可能性は――』
「それを言い始めたら、あなたも魔物かもしれない。オルバス神官長も、アルフレッド殿も、俺もです。証拠もなく相手の存在そのものを疑えば、最後には誰の言葉も使えなくなる」
ローデンは返事をしなかった。
「それに、保護房へ一人ずつ移せば、せっかく続いている相互確認を切断することになる。本人確認が目的なら、三十四人を引き離すのは逆効果です」
『黒部さん』
今度は真田の声がした。
『みんなで輪になって座ってもらいました。誰かを連れていこうとしたら、全員で立ち上がるそうです』
『勝手に決めるな!』
ジェスクが怒鳴った。
『腰を痛めて立てねえ奴もいるんだぞ。全員で立つんじゃなくて、動ける奴だけ前に出る。それからルカ、お前は姉ちゃんのそばにいろ。せっかく助かったのに、また勝手なことするんじゃねえ』
『ジェスクさんだって、さっき一人で衛兵に掴みかかろうとしたじゃないですか』
『俺はいいんだよ!』
『どうしてです?』
『年長者だからだ!』
『都合のいいときだけ年長者にならないでください!』
ルカに言い返され、周囲からまた笑いが起きた。
誰もが勇敢なわけではない。神殿衛兵の姿を見て怯え、俯いたままの者もいるだろう。助けられたばかりなのだから、今度こそ自分だけは巻き込まれたくないと思う者がいて当然だ。
それでも、誰か一人を連れていかれれば次は自分だと、彼らはもう知っている。
「真田君、その状態を維持してください。何があっても、一人ずつにはしないこと」
『分かりました。聖剣は抜いてませんよ』
「聞いていません」
『でも、言っておかないと黒部さん、俺が何かすると思ってるでしょう』
「少しは」
『信用されてるんだか、されてないんだか分からないな……』
「信用しているから、具体的に注意しています」
『それ、白石さんに同じことを言われたでしょう』
図星だった。
俺は返事をせず、伝声筒をドーグへ渡した。
「地下の偽物を確認します」
縦穴から戻ってきた石板には、ドーグの書き込みが増えていた。
『偽ジェスクは、全員の名前を知っている。家族の名前、借金、喧嘩の理由まで話す。鉱夫たちの中に、本人だと信じ始めた者がいる』
記憶による本人確認は使えない。
声も、顔も、過去も偽造される。
ならば、現在そこに存在する物体として確認するしかなかった。
「救助用の布帯と、長い縄を一本追加します。それから小さな石を二つ、袋に入れてください」
「どうするつもりだ」
ガレンが尋ねた。
「重さを量ります」
「秤もないのにか」
「正確な体重は必要ありません。縄に人間一人分の荷重がかかるかどうかだけ分かればいい」
俺は救助用の縄へ炭で印をつけた。何も吊っていない状態の位置、石袋を吊った位置、先ほど救出した鉱夫を引き上げたときに伸びた位置を、それぞれ記録する。
縦穴の中では、縄そのものの重さと岩肌に擦れる抵抗がある。それでも、人一人を吊れば違いは明確に出る。
「最初に石袋を吊り、ドーグに持ち上げてもらいます。地上側で縄の印を確認する。それから、偽ジェスクを救助帯へ乗せる」
「もし本当に人間だったら?」
「普通に荷重がかかります。傷つける必要もない。何も起きません」
「魔物だったら」
「見えている姿と、実際に縄へかかる重さが一致しない」
石袋と指示を書いた石板を下ろした。
しばらくして、縄へ二回の合図が届く。石袋が持ち上げられ、炭の印が指二本分ほど縦穴側へ動いた。
基準は取れた。
次に、偽ジェスクへ布帯を装着するよう指示する。
縦穴の底から、すぐに怒鳴り声が返ってきた。
『何で俺だけ縛るんだ! 俺はジェスクだぞ! 黒部、お前も俺と話しただろう! ローデンが書類を焼いたことも、ルカの木札のことも全部知ってる!』
地上にいる本物のジェスクが、伝声筒の向こうで呻いた。
『本当に俺の声だな。気持ち悪いにもほどがあるぞ』
工具庫では、偽物を庇う者まで現れた。
『待ってくれ! そいつは本物かもしれない! 俺が女房に内緒で酒代を借りたことも知ってるんだ!』
『俺の息子の名前も覚えていた! 魔物にそんなことが分かるわけがない!』
『でもジェスクは上にいるって――』
『上にいる方が偽物だったらどうする!』
狭い工具庫の中で、人間同士が言い争い始めている。
あれの目的は、ただ人の声を真似ることではない。互いに疑わせ、助け合えない状態へ変えることだ。
知っている秘密が多いほど、本物であるように見える。だが秘密は、知識にすぎない。人間そのものではない。
俺は長めの文章を石板へ書いた。
『本人かどうかを、記憶では判定しない。地上のジェスクには、救出後から現在まで途切れない目撃記録がある。工具庫の男には、出現するまでの記録がない。布帯は拘束具ではなく、全員が使用する救助具だ。本物なら安全に引き上げられる。拒否する理由はない』
石板を下ろした。
何度かやり取りがあった後、ドーグから一回の合図が来る。停止して待っていると、新しい報告が上がってきた。
『布帯を装着した。本人は暴れているように見えるが、触った感覚がない。周囲の者には、私が腕を掴んでいるように見えている』
「ゆっくり引いてください」
ガレンと衛兵二人が縄を引く。
俺は炭の印を見つめていた。
動かない。
縄は縦穴の岩肌を擦りながら上がってくるが、石袋を吊ったときよりも軽い。人間一人分どころか、布帯そのものの重さしかかかっていなかった。
やがて、空の布帯が縦穴から現れた。
誰も乗っていない。
「偽物は、そこに存在していません」
俺は石板へ書いた。
『見えているだけだ。触れることも、こちらへ運ぶこともできない。七十三人目は救助対象から外す。全員、目を閉じて縄を掴め。名前を呼ばれても返事をするな。本物の仲間に身体を触られたときだけ動け』
命令を下ろすと、工具庫の偽ジェスクが笑い始めた。
最初はジェスクの声だった。
次に女の声、老人の声、泣いている子供の声へ変わり、最後には俺の声になった。
『救助中止だ。門を開けろ。正面から出た方が早い』
ガレンが嫌そうに眉を寄せる。
「自分の声で馬鹿な命令を聞く気分はどうだ」
「最悪ですね。普段の俺も、もう少し言い方に気をつけた方がいいかもしれない」
「今さらか」
「今さらです」
救助を再開した。
最初に、自力で動けない三人を引き上げた。白石は一人ずつ呼吸と脈を確認し、重症者を廃材の上に敷いた毛布へ寝かせる。
次に負傷者、その後は体力の落ちている者から順番にした。
偽物は救助の間も喋り続けた。
『母さんを置いていくのかい』
若い鉱夫が縦穴の中で動きを止めた。
『振り向いておくれ。顔だけでも見せておくれよ』
「目を開けるな!」
縦穴の底から、年配の鉱夫が怒鳴った。
「お前の母ちゃんは、そんな上品な喋り方をしねえだろうが! お前が酒を飲んだら、瓶で頭を殴るような女だぞ!」
『……そうだった』
「だった、じゃねえ。まだ生きてるだろ! 勝手に殺すな!」
笑いと泣き声が混じった。
若い鉱夫は縄を握り直し、引き上げの合図を送った。
それから二時間以上、俺たちは同じ作業を続けた。
真田は地上で証人たちを守り、滝沢は送風輪の軸を結界で支え続け、岸本は一度も風を途切れさせなかった。途中で魔力が尽きかけた岸本は、交代できる者がいないと知ると、泣きながら「もう少しだけならできます」と言ったらしい。
七十二人目が縦穴から引き上げられたとき、白石は立ったまま数を確認した。
「最初に救出した方を含めて、七十二名。死亡者はいません」
「工具庫に残っている人間は」
俺は最後まで残ったドーグへ尋ねた。
「誰もいません。見えているジェスクは、まだ工具庫の隅に座っています。俺が木格子を閉めるまで、ずっとこちらを見て笑っていましたよ」
「触れましたか」
「いいえ。ただ、最後にこう言っていました」
ドーグは言うべきか迷うように、俺の顔を見た。
「『次に会うときは、もっと大事な人の顔を借りる』と」
美羽の顔をした何かが、暗闇で笑う姿を想像した。
だが、それは今考えることではない。
「縦穴を封鎖します。仮設の鉄格子を二重に入れ、上から床石を戻す。誰も一人では近づかせないでください」
「黒い門はどうする」
「開けません。構造と封印の目的が分かるまで、触らない」
声を真似る何かは残った。
それでも七十二人は生きている。
完全ではない。根本的な解決でもない。だが救助とは、ときに問題を一つ残したまま、人間だけを先に連れ出す仕事だ。
*
地上へ戻ると、中庭には三十四人の鉱夫と、その家族が固まって座っていた。
彼らの前には真田が立っている。
聖剣は鞘に収まったままだった。神殿衛兵と睨み合いながら、最後まで抜かなかったらしい。
「黒部さん」
真田は俺の姿を見ると、露骨に安堵した。
「証人も証拠も、全部ここにあります。誰も連れていかせませんでした」
「よくやりました」
「……それだけですか」
「何か失敗しましたか」
「してませんよ。だから、もう少し褒めてもいいじゃないですか」
「七十二人を救助できたのは、送風を維持したあなたたちのおかげです。地下へ来ていたら、間に合わなかった」
真田はしばらく黙った後、気まずそうに頬を掻いた。
「そういうのを最初に言ってくださいよ。本当に褒めるのが下手だな」
「努力します」
「黒部さんの『努力します』、信用できないんですよね」
「奇遇ですね。俺もです」
真田が笑った。
その背後から、ローデンが歩いてくる。
彼の左右には神殿衛兵が二人、その後ろにはオルバス神官長とアルフレッドがいた。アルフレッドの表情はいつも通り読めないが、手には新しい書面が握られている。
「七十二名全員の生還、まずは喜ばしいことです」
ローデンが言った。
「ですが、黒部修司殿。あなたには確認しなければならないことがあります」
「黒い門のことですか」
「御存じでしたか」
「あなたが聞きたいことくらいは分かります」
ローデンは穏やかに微笑み、アルフレッドが持つ書面へ視線を向けた。
「王宮地下に存在する黒門は、百五十年前の王命によって封鎖された禁足施設です。封印具を許可なく外すことは、王国法により厳しく禁じられております」
「あの楔は換気口を塞いでいた。抜かなければ七十二人が窒息していました」
「結果として、七十二名は助かった。しかし同時に、門の内側に封じられていた《喚声獣》が活動を再開した。工具庫へ偽の人間を出現させ、ここにいる者たちの声まで模倣したそうですね」
「楔を入れたのは、左手の小指に銀色の義指をつけた人間です」
周囲の視線が、ローデンの左手へ集まった。
ローデンは手を隠さなかった。
「それは、あなたの能力で見た断片にすぎません。客観的な証拠ではないと、御自分で仰っていたはずです」
痛いところを突いてくる。
「一方、あなたが楔を抜くよう命じたことは、ガレン隊長、ドーグ殿、白石殿をはじめ、多くの者が目撃している。楔を外す前、喚声獣の声は黒門の外へ届いていなかった。外した後、声は換気管と工具庫へ広がった。原因と結果、そして連続した目撃記録。あなたが我々に教えた考え方です」
救助のために使った俺の論理を、ローデンは俺を捕らえるために使った。
「私がやったことは、人命を救うための緊急措置です」
「善意であれば、結果に責任を負わなくてよいと?」
「そうは言っていません」
「ならば、調査を受けていただきます」
神殿衛兵が鉄の拘束具を取り出した。
ガレンが俺の前へ出る。
「待て。こいつを捕らえるなら、現場責任者の俺も同罪だ」
「あなたには王国衛兵としての監督責任を、別途確認します」
「ずいぶん便利だな。助かった人間がいれば王国の功績、問題が残れば現場の責任か」
「ガレン、下がってください」
「お前は黙って捕まるつもりか」
「ここで剣を抜けば、七十二人の救助が反乱に変わる」
真田も俺の横へ立った。
「俺も命令に従いました。黒部さんだけを連れていくなら、おかしいでしょう」
「あなたは召喚された勇者です。事情を知らず、命令を受けたにすぎません」
「都合がよすぎませんか。俺たちは、必要なときだけ勇者で、責任を取らせたくないときは何も知らない子供なんですか」
真田の声は震えていた。
怒っているのだろう。それでも聖剣へ手を伸ばさなかった。
「真田君、証人たちのそばにいてください」
「でも――」
「あなたがここで拘束されれば、ローデンは三十四人を保護房へ移せる。俺一人と、三十四人。どちらを守るべきか分かるでしょう」
「そんな言い方、また断れないじゃないですか」
「断らせないために言っています」
「……本当に、ずるい大人だ」
「知っています」
真田は唇を噛み、証人たちの前へ戻った。
白石が俺の右手を取った。拘束される前に、指先の震えを確かめるように握る。
「治療が必要な状態だと、医療担当者として申し立てます」
「逃亡しないよう監視した上で、治療は認めます」
ローデンが答えた。
「あなたに聞いていません」
白石の声は静かだったが、怒鳴られるより怖かった。
アルフレッドがようやく口を開く。
「黒部殿。これは有罪の宣告ではない。黒門については、王家にも残されていない記録が多い。あなたの証言も含め、正式に調査する」
「その調査を、ローデンに任せるつもりですか」
「私が直接監督する」
「なら、焦げた木札と黒い楔を、神殿へ渡さないでください。証人も分散させないこと。それが条件です」
「拘束される立場で条件を出すか」
「条件ではなく、事故を増やさないための忠告です」
アルフレッドの口元が、わずかに緩んだ。
「承知した。証拠は王家が預かり、証人はこの場に留める」
ローデンの表情から、一瞬だけ笑みが消えた。
それを確認してから、俺は両手を差し出した。
鉄の拘束具が手首へ巻かれる。
七十二人の鉱夫たちは、誰も声を上げなかった。
助けたのだから庇ってくれるはずだとは思わない。彼らには家族がいて、生活があり、王国に逆らえば失うものがある。恩を返すために危険を冒せと求めるなら、それは救助ではなく貸し付けだ。
それでも、最初に縦穴から救出された中年の鉱夫が、毛布に包まれたまま身体を起こした。
「俺たちを助けた罪で捕まえるのか」
一人が声を出すと、別の男も立ち上がった。
「俺は見たぞ。あの人が風を通さなかったら、俺たちは死んでた」
「黒門の化け物を外へ出したのは、俺たちじゃない。最初から中にいたんだ!」
全員が庇ったわけではない。
俯いた者もいた。家族に腕を引かれ、口を閉ざした者もいる。
だが、それでよかった。
怖い人間が怖いままでいることと、卑怯であることは同じではない。
ローデンは騒ぎ始めた鉱夫たちを見渡し、俺の耳元へ顔を近づけた。
「あなたは人を助けるたび、証人を増やしてしまうようですね」
「あなたは人を殺そうとするたび、証拠を増やしている」
「その証拠を、誰が信じるでしょう」
「あなたが全部消せないから、俺を拘束するんでしょう」
ローデンは答えなかった。
神殿衛兵に挟まれ、俺は中庭を歩き出した。
七十二人を生かして地上へ戻った俺を待っていたのは、称賛でも報酬でもなかった。
冷たい鉄の手錠だった。




