第20話 王都から届いた補給品は、全部壊れていた
最初に開けた小麦粉の袋は、表面だけでなく、中心まで黒い黴に覆われていた。
袋の口は王家の紐で結ばれ、封蝋も割れていない。一見すれば、王都の倉庫から誰にも触れられず届いたように見える。
「上のところだけ捨てれば、下は食えるんじゃないか」
鉱夫の一人が、袋の中へ手を入れようとした。
「触らないでください」
「でもよ、一か月分の食料なんだろう。全部捨てたら、俺たちは何を食うんだ」
「黴の種類が分かりません。表面を取り除いても、毒が粉全体へ広がっている可能性があります」
「王宮地下では、このくらいのパンを普通に食ってたぞ」
「それで腹を壊して、誰か休ませてもらえましたか」
男は手を止めた。
「……休ませてもらえるわけないだろ。動けなくなったら、次の奴と交代だ」
「ここでは同じことをしません。袋から離れてください」
食料が足りない状況で、食べ物を捨てろと言われれば反発するのは当然だ。
危険だと伝えるだけでは足りない。代わりに何を食べるのかまで示さなければ、空腹になった人間は隠れて口にする。
「マルタさん。都市から受け取る穀物は、あと何日分ありますか」
「成人二十三人で分けるなら、二十六日分ほどです。ただし、子供と負傷者へ多めに回しても、三週間は持つと思います」
「今日の食事には、そちらを使ってください。王都から届いた物は、検査が終わるまで全部隔離します」
「全部ですか?」
「箱を開けていない物も含めてです」
俺は管理所の前庭を四つに分け、縄を張った。
未確認品。
修理可能品。
使用禁止品。
証拠保管品。
文字を読めない人間にも分かるよう、縄へ色の違う布を結んでいく。
「勝手に開けない。勝手に食べない。持ち出さない。異臭や液漏れを見つけても、確認のために嗅がないでください」
「匂いも確かめるなって、どうやって中身を見るんだ」
ラグンが尋ねた。
「一人ずつ近づいて確認します。作業は必ず二人組。記録係が品名、封印状態、破損位置を書き残す」
「また記録か」
「記録を嫌がる人に、先に記録係をやってもらいます」
「俺にやれって?」
「文字は書けますか」
「少しなら」
「ではお願いします」
「断りにくい頼み方を覚えてきたな、管理人」
「皆さんから学んでいます」
ラグンは不満そうだったが、木箱を机代わりにして座った。ルカが隣へ行き、品名を書き取る。
「俺は地上作業だから、記録係でいいんですよね」
「足を使わない範囲なら」
「黒部さんに言われなくても分かっています」
「分かっているなら、今、右足で箱を動かそうとしないでください」
ルカは持ち上げかけた足を戻した。
ラグンが笑う。
「見張られてるな、坊主」
「うるさいですよ。ラグンさんも、黴た小麦を売れないか考えてたでしょう」
「売れる物を捨てる方が馬鹿だろう」
「黴た物を誰に売るんです」
「家畜の飼料なら欲しがる農家がいる」
「家畜が死んだら、どう説明しますか」
俺が尋ねると、ラグンは肩をすくめた。
「黴があると伝えた上で、安く売る」
「毒性が分からない物は、危険を説明できません。飼料にも使わせません」
「じゃあ全部燃やすのか。金になる物を灰にして、規則を守ったと喜ぶつもりか?」
「安全に使える部分は使います。壊れた工具は金属と木へ分け、鍛冶場で修理する。黴た穀物は食用にも飼料にもせず、発酵と発熱の状態を見た上で堆肥にできるか判断します」
「薬は?」
「中身が確認できなければ廃棄。ただし証拠用に一部を残す」
「本当に、何でも一度止めるな」
「止めずに使うと、人間まで廃棄することになります」
ラグンは何か言い返そうとしたが、黙って記録へ戻った。
利益を求めること自体は悪くない。
ただ、損をしたくないという感情が強くなると、人間は危険の説明を自分に都合よく小さくする。黴た穀物を捨てたくない。亀裂の入った工具も、慎重に使えば大丈夫だと思いたい。
そうして事故の条件が一つずつ揃っていく。
*
補給隊の責任者は、オットという痩せた商人だった。
王国と契約し、荷物を辺境まで運んでいるだけで、役人ではない。彼は受領書を握りしめ、青ざめた顔で俺の後を追っていた。
「黒部管理人。荷物を受け取ったという署名だけでも、先にいただけないでしょうか」
「検査が終わるまで署名できません」
「それでは困ります。王都へ戻ったとき、私どもが途中で品物を抜き取ったと疑われます」
「実際、出発時の状態を確認しましたか」
「箱も袋も封印されていました。中を開ければ、今度は封印を破った責任を問われます」
「どこで受け取ったんです」
「王都から三日ほど離れた第三集積所です。王都の荷はそこで辺境行きへ積み替えられる。私たちは封蝋の数と荷札だけを確認しました」
「集積所へ運んだのは」
「王家の輸送隊です。神殿の監査官も一人、同行しておりました」
「その監査官は今どこにいますか」
「馬車の点検をしているはずです。管理所へ着いてから、姿を見ていませんが……」
オットはそこで言葉を止めた。
「何か問題でも?」
「先に品物を確認します。受領書には、数量を受け取ったことと、状態確認が終わっていないことを分けて書きます」
「そんな書き方が認められるでしょうか」
「認めないと言われたら、王都へ戻る前に都市長と水路頭にも同じ書類へ署名してもらいます。あなたが運んだ数量と、到着時点で破損していた事実を、別々に残す」
「私が壊したのではないと、書いていただけますか」
「それも現時点では書けません。輸送中に壊れた可能性まで確認していないので」
オットの顔がさらに青くなった。
「では、私はどうすれば」
「分からないことを、分かったことにしないでください。積み替えた日時、立ち会った人間、途中で停車した場所を思い出せる範囲で話す。それを記録します」
「あなたは私を疑っているのですか」
「全員を同じように確認しています」
「それは、疑っているのと何が違うんです?」
「疑う対象に、自分を含めているかどうかです。俺が荷物を開けた後で混入した可能性も、記録上は除外しません」
オットは黙った。
しばらくして、諦めたように受領書を机へ置く。
「王都では、こんな書き方をする人はいません」
「だから、壊れた荷物が封印されたまま届くんでしょう」
条件付きの受領書を作り、オット、俺、リゼット、ラグンの四人で確認した。後から都市長とマグダにも、到着時の状態を証言してもらう。
荷物の責任を運送人一人へ押しつければ、その先の原因は調べられなくなる。
責任者を早く決めることと、原因を正しく調べることは同じではない。
*
検査を始めて一時間もしないうちに、偶然ではないことが分かった。
金槌は十二本すべて、柄の内側へ刃物を入れられている。見た目は正常だが、一度強く振れば頭部が飛ぶ。
鋸は歯ではなく、持ち手の近くへ小さな亀裂が入っていた。作業中に折れれば、勢いのついた刃が腕へ戻ってくる。
縄は中心部分だけを薬品で弱らせ、外側から見えないよう編み直してある。
「殺すために壊している」
リゼットが縄の断面を見ながら言った。
「使えなくするだけなら、もっと簡単に切ればいい。正常に見せて、使ったときに壊れるようにしてある」
「管理所の排除設備と同じです。死因を事故に見せたい」
「王都へ報告するの?」
「証拠を揃えてからです」
「誰の仕業か分かれば、すぐローデンの名前を出すつもりでしょう」
「名前を出すだけでは証拠になりません」
「あなたが慎重なのは知ってる。でも、相手は王国の神殿よ」
リゼットは周囲に聞こえないよう、声を落とした。
「王都からの補給を止められたら、二十三人を養えない。都市の水路費も一か月分だけ。王国を敵に回して独立できるほど、ここには何もない」
「既に敵と判断されているから、これが届いたのでは」
「それでも、向こうが表向き味方のふりをしている間は、利用できるものもある」
「壊れた縄と毒入りの薬を?」
「そういう意味じゃない!」
リゼットは苛立ったように髪を掻き上げた。
「私だって腹が立ってる。七人の管理人が死ぬと分かっていて送り続けたかもしれない。今度は、ここへ逃げてきた人間まで事故に見せかけて殺そうとしている。でも、怒った勢いで敵だと宣言して、全員が飢えたら何の意味もないでしょう」
「宣言はしません」
「……しないの?」
「報告書には、確認できた事実だけを書きます。破損の種類、到着時の封印状態、輸送経路、証言者。写しを四部作る」
「四部も?」
「一部はアルフレッドへ。一部はグレイベルの都市長。一部は冒険者ギルドへ預け、残りは管理所へ保管します。どれか一つを消しても、記録は残る」
リゼットは目を瞬いた。
「ローデンへ直接突きつけないのね」
「相手の目的が分からないうちに、こちらの証拠を全部見せる必要はありません。それに王都からの補給だけに頼る状態は、どちらにしても危険です。グレイベルの商人、鍛冶場、農家から調達する経路を作ります」
「一日では無理よ」
「一日で終えるとは言っていません」
「あなた、思ったより喧嘩の仕方が陰気ね」
「事故調査は、相手を怒鳴って自白させる仕事ではありませんでしたから」
「褒めているわけじゃないけど、その方が安心した」
今のリゼットが安心したことを、俺は覚えておくべきなのだろう。
ただし、それを言えばまた面倒な説明が始まりそうなので黙っておいた。
*
問題の薬箱を開けたのは、昼前だった。
治療薬、解毒薬、傷口を洗う液体。それぞれ十本ずつ、緩衝材に包まれている。
瓶そのものは割れていない。
封蝋にも異常は見えなかった。
「これは使えるんじゃないですか」
マルタが瓶を持ち上げようとする。
「待ってください」
薬箱の底へ、液体が一滴落ちていた。
治療薬は淡い緑色だが、落ちた液体は透明に近い。鼻を近づけなくても、金属を焼いたような刺激が喉へ来る。
「全員、箱から離れてください。火も近づけないで」
「毒ですか」
「分かりません。換気のいい場所へ移します」
俺は布を重ねて瓶を掴み、前庭の隔離区画へ運んだ。
栓には、針より細い穴が開いている。中身を抜き、別の液体を入れた後、蝋で穴を塞いだのだろう。
一本だけではない。
三十本すべて、同じ位置に穴がある。
「誰かが瓶を箱から出さず、上から順番に中身を替えた」
リゼットが言った。
「封印を破らずに?」
「箱の底板が外せます」
ラグンが木箱を裏返した。
底板の釘は、新しく見せるために黒く塗られている。ただし一本だけ、頭に銀色の擦過痕が残っていた。
「黒部」
リゼットが俺の右手を見る。
「能力を使うなら、一回だけよ」
「決めるのは俺です」
「白石という看護師から、注意書きをもらったんでしょう」
「どうして知っているんです」
マルタが、俺の荷物から一枚の紙を取り出した。
「薬を探したとき、一番上にありました。《事故鑑定を使用した場合は必ず休むこと。手の痺れ、頭痛、吐き気を隠さないこと》と書いてあります」
「個人宛ての医療記録です」
「患者が守らないなら、周りの人間で共有した方がいいと思います」
「勝手に共有しないでください」
「では、守ってください」
マルタとリゼットが同時に俺を見た。
二人が知り合って半日も経っていないのに、既に協力関係ができている。
「一回だけです」
「使った後は座る」
「必要なら」
「必要かどうかを決めるのは、今度は私たちです」
マルタの言い方まで白石に似てきた。
俺は諦め、木箱の底から抜いた釘へ触れた。
視界が暗転する。
王都の倉庫。
窓のない小部屋で、薬箱が裏返されている。
黒い手袋をした左手が、細い工具を握っていた。小指の部分だけ、手袋の形が不自然に硬い。
銀色の義指。
工具が瓶の栓を貫き、中身を吸い出す。代わりに入れられた透明な液体が、金属製の容器から流し込まれる。
『治療薬へ混ぜるだけでは不確実です』
作業をしている男が言った。
『服用されなければ意味がない』
『それで構わない』
落ち着いた声が答えた。
『工具、縄、油。どれか一つでも使えば事故は起こる。薬は、生き残った者が治療を試みたときのためだ』
銀色の義指が、箱の底板を押さえる。
『黒部修司は、壊れた物を見れば原因へ辿り着く。ならば、原因へ辿り着く前に、周囲の人間を壊せばよい』
視界が戻った。
吐き気が込み上げ、俺はその場へ膝をついた。
「座ると言ったでしょう!」
リゼットが肩を支え、マルタが水筒を持ってくる。
「まだ倒れていません」
「膝をついた人間は、立っているとは言わないのよ」
「何が見えました」
銀色の義指のことを話すと、周囲の表情が変わった。
「ローデンですか」
ルカが尋ねる。
「断定はできません。同じ義指を持つ人物か、義指を借りた人物の可能性もあります」
「そんな奴が何人もいると思うんですか」
「思いません。ただし、思わないことと証明できることは別です」
釘と薬瓶を別々の布で包み、証拠箱へ入れた。
ラグンが透明な液体の入った瓶を見下ろす。
「残りはどうする。証拠なら三十本全部取っておくのか?」
「二本を封印保存。残りはマグダと都市の薬師に立ち会ってもらい、処分します」
「売るのは論外か」
「誰に売るつもりです」
「嫌いな奴なら何人かいる」
「冗談でも記録しますよ」
「本気で書こうとするな!」
ラグンは慌てて記録用紙を押さえた。
緊張していた者たちから、わずかに笑いが漏れた。
笑える余裕が戻ったのなら、それ自体は悪くない。
*
午後までに、補給品の仕分けは終わった。
食料は九割が使用不能。薬は全滅。工具は部品としてなら七割ほど再利用できる。衣類は一見無事だったが、縫い目へ皮膚を荒らす粉が仕込まれていた。
調理用油の樽には、強い火気性を持つ液体が混ぜられている。
もしマルタが厨房で火へかけていれば、管理所の倉庫ごと燃えていただろう。
「これだけ細工をするのに、何人必要なんでしょう」
ルカが尋ねた。
「一人では難しい。倉庫、封印、薬品、輸送経路へ触れられる人間が必要です」
「なら、神殿全体が敵なんですか」
「組織全体と考えるのは早い。知らずに指示へ従った人間もいるでしょう」
「黒部さんは、敵まで細かく分けるんですね」
「全員を敵にすれば、こちらも全員に敵だと思われます」
記録の写しを作り終え、オットへ一部を渡した。
「王都へ戻ったら、第三集積所で荷物を受け取った日時と担当者を確認してください。ただし、無理に調べないこと。あなた自身が疑われたら、記録をアルフレッド殿へ渡してください」
「私は、また辺境行きの仕事を受けられるでしょうか」
「分かりません」
「そこは励ましていただけませんか」
「今回の荷物を運んだだけで処罰されるなら、契約相手を変えた方がいい」
「簡単に言いますね」
「簡単ではありません。だから、都市長と冒険者ギルドにも写しを残します。あなた一人の証言にしない」
オットは書類を胸元へ入れた。
「正直に言えば、ここへ来るまで、あなたを王都で災害を起こした犯罪者だと思っていました」
「今は」
「妙に細かくて、付き合うと胃が痛くなる犯罪者だと思っています」
「評価が少し改善しましたね」
「しているように聞こえましたか?」
オットが初めて笑った。
その直後、胸元の管理鍵が熱を持った。
『緊急警告』
『第一層・北封印弁――手動解放』
『操作権限――未確認』
『収容区画から外部通路への移動反応――三十七』
簡略図の中で、赤い光が一斉に動き始める。
「何です」
リゼットが駆け寄った。
「誰かが第一層の封印弁を開けました。三十七体が外へ向かっています」
「管理班の人間は全員ここにいる」
俺はオットを見た。
「補給隊の人数を確認してください」
「御者が三人、護衛が四人、それから神殿の監査官が一人――」
オットが周囲を見回す。
「監査官がいない」
「どんな人物でした」
「灰色の外套を着た男です。顔の下半分を布で隠していました。左手には、ずっと手袋を――」
迷宮の方角から、魔物の咆哮が響いた。
王都から送られた補給品は、俺たちを養うためのものではなかった。
補給隊を装い、封印を内側から開く人間を管理区域へ入れるための荷物だった。




