第21話 魔物氾濫は、自然災害ではない
『第一層・北封印弁――手動解放』
『外部通路への移動反応――三十七』
管理鍵が表示した簡略図では、三十七の赤い光が細長い集団を作り、黒門とは別の出口へ向かっていた。
「種類は分かりますか」
『管理率不足』
「移動速度は」
『外部到達まで――九十四分』
九十四分。
充分とは言えないが、何もできない時間ではない。
「リゼットさん。第一層北側に、集団で行動する魔物はいますか」
「岩角猪だと思う」
リゼットは管理所の裏へ回り、地面へ残された大きな足跡を見た。
「身体を岩みたいな鱗で覆った猪よ。普段は十頭前後の群れで動く。肉食ではないけど、驚かせると前にあるものを全部踏み潰す。矢で一頭を傷つければ、残りも同じ方向へ突進するから、平地で戦う相手じゃない」
「好む餌は」
「茸、腐りかけた木の実、発酵した穀物。目はあまりよくないけど、鼻は利く」
俺は隔離区域に積まれた、黴だらけの穀物袋を見た。
人間にも家畜にも食べさせられない王都の補給品が、大量にある。
「使えます」
「食べさせるの?」
「食べる前に匂いで誘導します。グレイベルへ向かう谷の途中に、閉鎖された採石場はありませんか」
「ある。水路用の石を掘っていた場所で、十年前に入口が崩れた。ただ、三十七頭を入れられるほど広いかは――」
「確認する時間は」
「馬なら往復で半刻。私が行く」
リゼットは弓と矢筒を背負い、馬へ向かった。
「その前に、監査官の足跡を追ってください」
「魔物を止める方が先でしょう」
「封印弁を開けた人間が、別の弁も開ける可能性があります。三十七体だけで終わる保証がない」
リゼットは一瞬迷い、それから《灰鷹》の五人を見た。
セドとバルトは都市の診療所へ運ばれ、ここにいるのはカイル、ミア、ユノの三人だ。全員、毒気を吸ってから半日も経っていない。
「ユノは追跡ができる。でも、今の体調で走らせるのは無理」
「俺が案内します」
カイルが前へ出た。
「北側の抜け道は知ってる。俺たちが迷宮へ入るときに使った場所の近くだ。監査官が逃げたなら、同じ道を通る」
「あなたも毒を吸っています」
「歩ける。さっきも作業記録をつけてただろ」
「文字を書くことと、武装した相手を追うことは違います」
「分かってる。でも、俺たちが勝手に迷宮へ入らなければ、北の抜け道をあの男が使えたことにも早く気づけた。今度は――」
「今度は自分を危険に晒して、前の失敗を帳消しにするつもりですか」
「何もしないで見てろっていうのかよ!」
「失敗の埋め合わせと、今必要な仕事を分けてください」
カイルは拳を握り、俺を睨んだ。
リゼットが二人の間へ入る。
「案内だけさせる。監査官を見つけても、カイルには戦わせない。私が止まれと言ったら止まる。それでどう?」
「リゼットさんは守備隊員で、俺の部下ではありません」
「だったら許可を求めているんじゃない。安全条件を相談しているの」
「戻る時刻を決めます。四十分後。足跡が続いていても、一度報告へ戻ってください。相手を見つけた場合は、人数と装備を確認し、単独では接触しない」
「はいはい、分かった」
「返事が軽い」
「これ以上話していたら、足跡が雪で消える!」
リゼットはカイルを馬の後ろへ乗せ、北側の通路へ向かった。
残った管理班へ振り返る。
「ルカ。管理鍵の簡略図を写し、岩角猪の予測経路を三枚作ってください。一枚は都市長、一枚は守備隊、残りはここで使います」
「分かりました」
「ラグンは、使えない穀物袋を荷車へ。直接触らず、手袋を使う。袋は破らないこと」
「餌にするんだろう? 最初から撒いた方が匂いが出るぞ」
「移動中に撒けば、誘導経路がばらけます。指定場所まで開けないでください」
「はいはい」
「返事が軽い」
「さっきの女にも同じことを言ってただろ。お前の返事の基準が厳しすぎるんだよ」
マルタたちには、子供と負傷者を都市東側の石造倉庫へ移すよう頼んだ。
管理所周辺も岩角猪の進路に近い。二十三人をここへ残したまま、グレイベルだけを避難させるわけにはいかない。
「黒部様は、どこへ?」
「グレイベルへ行って、避難の説明をします。その後、三叉谷で誘導作業に合流します」
「また御自分だけ、三つも四つも仕事を持つおつもりですか」
「都市へ説明できる人間が他にいません」
「では、戻ってきたら食事をしてください。昨日の朝から、豆の煮込みを一杯しか食べていませんよね」
「時間があれば」
「今の返事も軽いです」
周囲から笑いが起きた。
俺の言い方が、管理班の共通の問題になり始めているらしい。
*
グレイベル中央広場へ到着したとき、警鐘は既に鳴っていた。
王都からの補給隊にいた監査官が消えたことと、迷宮側から咆哮が聞こえたことで、住民の間には様々な噂が広がっている。
三十七体ではなく百体だと言う者。
管理人が魔物を操って都市へ復讐しようとしていると言う者。
王都が辺境を切り捨て、魔物ごと焼き払うつもりだと言う者までいた。
「静かにしてくれ!」
都市長クラウスが広場の台へ立ち、声を張り上げた。
「管理人から説明がある!」
「また、この男か!」
「昨日は水を止めて、今度は魔物を出したのか!」
「王都へ送り返せ!」
石を投げる者はいなかったが、怒声は多い。
「第一層の封印弁が、王都から来た監査官によって手動で開けられました」
俺が言うと、別の男が叫んだ。
「証拠はあるのか!」
「今、リゼットと冒険者が確認に向かっています。ただし魔物三十七体がこちらへ移動していることは事実です。到達まで約一時間」
「一時間しかないのに、証拠の話なんかしてる場合か!」
「だから、先に避難してください」
簡略図を大きな板へ描き、住民へ見せる。
「魔物は岩角猪の群れと推定しています。城壁で戦うと、傷ついた個体が門へ集中し、壁と給水管を同時に壊す可能性が高い。正面からの討伐は行いません」
「戦わないでどうする!」
守備兵の一人が尋ねた。
「臭いと地形で、閉鎖採石場へ誘導します。都市の西側と北側から、東の石造倉庫へ避難してください。家へ鍵を掛ける必要はありません。荷物も持ちすぎない。歩けない人間が近所にいる場合は、名前と場所を守備兵へ伝える」
「店を空にしろというのか!」
広場の端にいた宿屋の主人が前へ出た。
「水が止まったときも、うちは営業を休んだ。今度は客と酒を全部置いて逃げろ? 魔物より、空き巣に入られる方が先だ!」
「避難区域には守備兵を残します。ただし店の在庫より命が優先です」
「俺にとって店は命と同じだ!」
「同じではありません。店は所有者が生きていれば、損害を記録して補償を求められる。死んだ店主は請求できません」
「補償なんて、本当に出るのか」
クラウスが口を挟んだ。
「都市の命令で避難した場合、被害記録は残す。すべてを払えるとは約束できないが、記録がなければ何も始まらない」
「払えないかもしれないのかよ!」
「できもしない約束をするよりましだ!」
都市長も、言い方が少し俺に似てきた。
住民は納得したわけではない。
文句を言いながら家へ戻り、金と家族を連れて避難する。家畜を置いていけない農夫には、東の牧草地へ放すよう指示した。
赤ん坊を抱いた母親は、診療所の患者と一緒に移動した。
一人暮らしの老人は、家から出ることを拒んだ。
「この家は、亡くなった妻と建てたんだ。魔物が来るなら、ここで死ぬ」
迎えに行った守備兵が困り果てていた。
「家を守るために残るんですか」
俺が尋ねると、老人は頷いた。
「なら、生きて戻って修理する必要があります。誰もいなくなった家は、壊れても直せません」
「口の減らない罪人だな」
「よく言われます」
「本当に、守備兵が見張るのか」
「クラウス都市長が約束しました。戻った後に物がなくなっていたら、俺も記録へ署名します」
「お前の署名に価値があるのか?」
「今のところは、あまりありません」
老人は初めて笑い、杖を取った。
「正直すぎて、詐欺師にもなれんな」
「経験がないので」
避難完了を待たず、俺は三叉谷へ向かった。
*
三叉谷は、迷宮、グレイベル、閉鎖採石場へ道が分かれる場所だった。
管理班と守備兵が、壊れた荷車や伐った木を使って誘導柵を作っている。
「柵は道を塞ぐように置かないでください!」
俺は角度を修正させた。
「岩角猪を止める強度はありません。正面に置けば壊される。進んでほしい方向へ、斜めに並べるだけでいい」
「こんな細い柵で、三十七頭も曲がるのか」
ラグンが尋ねる。
「曲がらなかった場合に逃げられるよう、柵の後ろへ立たないでください」
「成功する説明じゃなく、失敗した場合の説明ばかりだな」
「成功だけを考えた配置は、失敗したときに人が死にます」
採石場まで、黴た穀物を少量ずつ置く。
最も匂いの強い袋は採石場の奥へ運び、周囲へ撒いた。
管理鍵で外部送風口を操作すると、迷宮側から吹く風が、穀物の匂いを岩角猪の進路へ運び始める。
「袋が一つ足りません」
記録を確認していたルカが言った。
「十五袋積んだのに、ここには十四しかない」
「数え間違いじゃないのか」
ラグンが答えたが、視線が泳いだ。
「ラグン。どこへ動かしました」
「……管理所の南側だ」
「なぜです」
「俺の娘たちがいる天幕が近かった。餌の道が管理所の前を通れば、岩角猪がそっちへ行くかもしれないと思った。だから匂いを南へ逸らした」
「その先には、都市の南外壁があります」
「そこまで行くとは思わなかった!」
「配置の理由を聞かず、勝手に動かしたんですか」
「お前だって、最初から全部説明しなかっただろう!」
ラグンの言葉に、周囲が静まった。
腹は立った。
だが彼の言うことにも、一部は理由がある。
俺は作業の手順を急いで伝え、全体の誘導経路を説明していなかった。ラグンには、自分の家族を危険へ近づけているように見えたのだろう。
「説明が足りませんでした」
「……怒らないのか」
「怒っています。ですが、怒って袋は戻りません。場所を教えてください。一緒に回収します」
「俺のせいで間に合わなかったら」
「今はその話をしません」
二人で馬へ乗り、南側へ移された袋を回収した。
戻ったとき、地面が揺れ始めていた。
谷の向こうに、岩角猪の群れが現れる。
一頭だけでも牛より大きい。背中と頭部は灰色の硬い鱗に覆われ、太い角が前へ突き出している。
三十七頭が走る振動は、遠くの崩落に似ていた。
「全員、退避位置へ!」
弓を持つ守備兵が構えた。
「撃たないでください! 攻撃を受けると直進します!」
「柵へ突っ込んできたら?」
「人間が先に逃げる!」
先頭の岩角猪が、最初の穀物へ鼻を近づけた。
群れの速度が少し落ちる。
次の餌。
斜めに置かれた柵。
先頭が採石場側へ曲がり、後ろの個体も続いた。
「行ける……」
誰かが呟いた。
その瞬間、群れの中央にいた小さな個体が、誘導柵の縄へ脚を取られた。
甲高い鳴き声が谷へ響く。
前を進んでいた大きな個体が止まり、都市側へ身体を向けた。
「柵を外せ!」
俺は叫んだ。
「でも外したら、群れがこっちへ!」
ルカが縄を握ったまま答える。
「子供を助けようとしている! 止めれば群れ全体が柵を壊す!」
ラグンが斧で縄を切った。
絡まっていた小さな岩角猪が起き上がり、群れへ戻る。
大きな個体は鼻を鳴らし、再び穀物の匂いを追い始めた。
一頭、二頭。
三十七頭すべてが、閉鎖採石場へ入っていく。
「今だ!」
マグダと鉱夫たちが、入口上部へ組んでいた支柱の縄を引いた。
岩角猪へ当てないよう、最後尾が通過してから岩を落とす。
土煙が上がり、採石場の入口が石で塞がれた。
咆哮と地響きは続いている。
それでも、三十七頭は都市へ到達しなかった。
「負傷者を確認してください!」
守備兵二人が、作業中に足を捻っていた。誘導柵も半分以上壊れている。
だが死者はいない。
城壁も、給水管も無事だった。
ラグンが地面へ座り込んだ。
「悪かった」
「袋のことですか」
「説明が足りなかったと言われて、少し安心した自分がいる。全部お前のせいにできると思ったんだ。俺が勝手に動かしたのに」
「次から、分からない場合は動かす前に聞いてください」
「それだけか」
「契約違反の記録は残します。二回目なら配置を外します」
「やっぱり細かいな!」
「反省と処分は別です」
ラグンはしばらく俺を見てから、力なく笑った。
「お前の下で働くと、言い訳まで記録されるのか」
「言い分として残します。後で俺の説明不足も確認できる」
「本当に、どっちが上司か分からんな」
*
日が沈む前に、リゼットとカイルが戻ってきた。
二人だけではない。
灰色の外套を着た男を、後ろ手に縛って連れている。男の顔を覆っていた布は外され、右頬にはカイルに殴られたような痣があった。
「戦うなと言いました」
「こいつが先に短剣を抜いたんだ!」
カイルが抗議する。
「私が取り押さえた後で、カイルが一発殴った」
リゼットが訂正した。
「余計なことを」
「分かってる。反省してる。でも、俺たちが死にかけた毒気区画の弁まで、こいつが開けたかもしれないと思ったら……」
「思っても殴らないでください。証言の信用を落とします」
「そこを心配するのかよ」
「怪我の治療もします。ただし先に所持品と拘束状態を記録します」
男の手袋には、北封印弁と同じ黒い油が付着していた。
懐からは、封印弁を動かす専用工具、神殿監査局の身分証、そしてもう一枚の命令書が見つかっている。
「北封印弁だけではなかった」
リゼットが命令書を差し出した。
「第二封印弁を開き、赤牙狼を外へ出すよう書かれている。私たちが追いつかなければ、岩角猪を避けた住民の避難先へ狼が向かっていた」
「署名は」
「ない。ただし神殿監査局の封蝋と、文書番号がある。王都へ照会できる」
拘束された男は、黙って俺を見ていた。
「なぜ封印弁を開いたんです」
「命令に従っただけだ」
「誰の命令です」
「監査局だ」
「個人名を聞いています」
「話すと思うか?」
「話さなくても構いません。弁の油、専用工具、命令書、オットの証言、リゼットとカイルの現認。確認できる物から調べます」
男の顔に、初めて不安が浮かんだ。
脅して自白を求められると思っていたのだろう。
人間の証言は変わる。
恐怖でも、金でも、後悔でも変わる。
だから、証言だけに頼らない。
管理鍵が光った。
『外部脅威の進路変更を確認』
『民間人死亡――ゼロ』
『封印設備への人為的干渉を記録』
『管理率――三パーセントから十パーセントへ上昇』
簡略図の表示範囲が、一気に広がる。
第一層だけではない。
地下深くへ続く十二の封鎖区画と、その中央にある巨大な空洞が浮かび上がった。
『管理率十パーセント到達』
『第十三封鎖迷宮・基本用途記録を開示します』
これまで迷宮だと思っていた施設の、本当の役目が表示されようとしていた。




